第1話 四石呪詛
投げろや投げろ 石投げろ
小さな石を 四つの石を
我が念を 深い念を込めた石を
当たるよ当たる 石当たる
誰に当たるか 投げた石は
石は当たるよ 四人の者に
順に当たるよ 一人ずつ
一つは最も身近な者に
二つは最も頼りになる者に
三つは最も愛しき者に
そして最後の一つはーー
八月三日。横浜の夏は暑い。照り付ける陽射しは厳しく、下町に建つプレハブのトタン屋根の上にも容赦なく光と熱の矢を降り注いでいた。
おんぼろの、それこそ台風でも来たらあっという間に消滅してしまいそうなプレハブの一件屋。入口にかけられた蒲鉾の板ーーではなく、蒲鉾の板を利用した看板には、『合名会社 天万』と書かれてあった。会社の事務所であることには間違いない。しかし、入口のガラス戸には昼間だと言うのにカーテンがかかり、窓にはブラインドがしっかり下ろされていた。
倒産して廃墟になったかのように思える事務所。だが、室内には一人の男が詰めていた。サラリーマン風の三十代半ばぐらいの男が。だが、身に付けているワイシャツ、ネクタイ、ズボンは全てよれよれの皺だらけ。髭は二、三日は剃刀と御対面していないのかと思われるほどに伸びている。
男は応接用の長椅子へ体を投げ出し、寝転がって昼寝をしていた。窓こそ開いているものの、室内の温度はかなりのもの。エアコンがないここで頼りになるのは、応接テーブルに置かれた年代物の扇風機だけだった。その扇風機が首を振る度に、男の腹の上に広げられたスポーツ新聞をパタパタと揺らす。
すると突然、鼾声をかき消すかの如く勢いで、電話が鳴り出した。男ーー天万の代表・河田港輔は、夢の世界から現へと猛スピードで帰還し、新聞をはね飛ばして飛び起きた。
「おやおや、またしても催促の電話かよ……」
会社の電話は一本だけ、しかもタウンページには記載されていない。滅多にかってくることのない事務所への電話は、大きく二つに分けられる。一つは給料支給を確認するために社員がーー河田自身を含めても僅か六人しかいないのだがーーよこす場合。そしてもう一つは……。
あくびを抑えつつ、河田は社長席の電話へ飛び付き、受話器を取った。
「もしもし?」
探りを入れるかのように河田は慎重に声を発した。河田は決して自分から名乗らない。商売人たる者、いかなる場合もーーたとえ相手が社員であってもーーこちらから名乗るのが礼儀というものなのだが……。
「『天万』……かね」
河田の予想に反して、耳へ届いたのは聞き慣れた声ではなかった。相手は初めて会社へ電話をかけてきたのだ。
ぼそぼそとした声。明らかに男性のものと分かる。話し方や声の高低からして声の主は年配、しかもそろそろ老人と呼ばれる年齢に差し掛かる人物であろう。
相手が自社の名を出したことにより、河田はやっと業務応対用の声と口調に切り換え、明解に答えた。
「はい、左様で御座います。私は天万代表の河田と申します」
「そうか。ところで頼みたい事がある。引き受けてもらえないだろうか」
待望の仕事の依頼である。河田は受話器を握り締めたまま思わず飛び上ってしまった。無理もない。何しろここ一月ほど仕事にありついていなかったのだから。
喜びを心の奥底へしまい込み、商売人らしい冷静さを装って河田は尋ねた。
「で……どの様な御依頼なのでしょうか? ここへ電話をおかけになるくらいですから、人に話したり他社に頼んだりする事の出来ないようなものなのでしょうが……」
しばしの沈黙の後、依頼主は河田の問いに答え始めた。受話器の向こうから、依頼主の深刻で不安に満ちた心情が手にとるように伝わってくる。きっと青褪めた面持ちで話しているのだろう。
が、依頼を聞く河田は平然としていた。会社を創立して三年、「この手」の依頼は幾つかこなしてきた。別にこれといった緊張も焦りも感じない。もっとも、それも河田の性格によるところが大きいが。
「なるほど……。そのような御依頼でしたらお受け致しましょう。それではお客様のお名前とご住所、電話番号をお教え下さい。それから御都合のよろしい日と時間も。我が社の社員を派遣致します」
素早く必要事項をメモに取ると、丁寧に挨拶をして河田は電話を切った。
「さて、今回の仕事の適任者は……やっぱりあいつしかいないな」
一回大きく伸びをすると、河田は早速社員の呼び出しにとり掛かった。しかし、何故か受話器を取ろうとはしない。社長席へ腰を下ろし、目をつぶったのだ。まるで瞑想するかのように。
日本でも有数の高級住宅地、東京都大田区田園調布。その中でも一際目立つ大邸宅の中に、依頼主はいた。大原権三、六十五歳。大手商社・大原商事の社長である彼は、脱毛一つ無い見事なシルバーヘアの持主の、威厳漂わせる人物だ。
株式会社大原商事は、創設者・大原新太郎の代には、吹けば飛ぶような弱小商社にすぎなかった。が、革新の気風溢れる息子・権三の代となり、昭和三十年代の高度成長の波に乗る事に成功した。以来大企業への道を歩み始めーー全国に二十以上もの支店を持つ一部上場企業にまで成長したという次第。
しかし、その現代の財界を担う大原は、昨日から家を一歩も出ていない。仕事どころではなかった。恐るべきる事件が彼を襲ったのだ。
事件発生から溯ること一月。接待の席で大原は、取引先の重役から謎の合名会社の存在を耳にした。
ーーもしも何か困った事が起こりましたら、連絡されると宜しいですよ……。
それが裏のよろず引受屋・「天万」だった。相手に失礼があってはならないと、大原はひとまず電話番号をメモに取った。が、内心では「合名会社ごときに何が出来る、自分は日本指折りの大企業の主だ」と、嘲り笑ったのだ。そんなけなした筈の弱小企業に助けを求める羽目になろうなど、どうしてこの時想像できただろうか。
約束の時刻は今日ーー八月四日の午後一時。居間の柱時計が一回鳴ると同時に呼び鈴の音が谺し、待望の来客の到来を告げた。
家政婦が出向いていこうとするのを制し、自ら玄関のドアを開けた大原だったが、呆然とせざるを得なかった。来訪者があまりにも想像と掛け離れた人物だったからだ。
大原の目の前に立つ人物。サングラスをかけ、ジーパンにワイシャツという出で立ち。シャツのポケットには銀色のペンが光り、右肩から黒い合皮のリュックがだらりと下がっている。どう見ても高校生ぐらいの少年だ。
「御依頼主の大原権三さんですね?」
来訪者はサングラスを外し、額の汗を拭った。声と顔立ちから来客が少年ではなく、少女である事を大原は知った。髪が短く、背も女子にしては高いので、男子かと思ったのだ。
呆気にとられる大原へ向かって丁寧に一礼すると、少女はポケットの名刺入れから一枚の名刺を取り出し、差し出した。
『合名会社 天万 阿比沼 剣』
阿比沼剣ーー姓も名前も聞いたことがない、一風変わった名前だった。そんな大原の疑問が伝わったのか、天万の社員ーー剣は微かに相好を崩した。
「一種の芸名ですよ。本名ではありません。そちらをお教えすることは出来ませんが」
「君が天万の社員……?」
大原は手にした名刺と剣を交互に見詰めた。一体この娘の何処が社員なのであろうか。大原は腕利きの工作員か何かを想像していたのだ。この娘が自分の役に立つかどうか全く疑わしいというものだ。折れそうとまではいかないにせよ体は細いし、かと言って頭脳明晰のようにはお世辞にも見えない。
依頼主の抱いた疑惑を剣は敏感に察知したようだ。瞬時にしてその顔からビジネス・スマイルは消え去った。
「私を疑っていらっしゃるようですね。なら、これを御見せしましょう」
次に剣が見せたのは、二つ折りにされたパスケースだった。ケースをぱっと開くと、中に身分証明書らしき物が入っていた。
『学籍番号30ーJPー7ー28
阿比沼 剣
当学院を卒業し、下記の資格を取得したことを証明する。
・一級念魔道士
・一級召喚士
国際魔道学院学長 ダニエル・ムーンライト
同日本分校校長 黒墨 太司』
剣は十数秒見せただけで、パスケースをリュックへ戻した。しかし大原ははっきりと見たのだ。『魔道士』の文字を。
「魔道士というと……魔法使いのことか?」
冗談半分に尋ねてみた大原であったが、相手は大まじめのようで、力強く頷いた。
「勿論です。ただ、魔道士と一言に言っても色々ありましてね。ファンタジー小説などに良く出てくるものを母校ではスペル・マジシャンーー『文魔道士』と呼んでいました。私はフォース・マジシャンーー即ち『念魔道士』。超能力に近い力を駆使する者ですよ」
剣は玄関に飾られた見事なガラスの花瓶の方を向いた。するとどうであろう。重さにして数キロあろうかという花瓶が、手も触れていないのにふわりと浮かび上がったではないか。花瓶は蚊が飛ぶほどの速度で、玄関のあちらこちらへ移動していった。
大原は己の目を疑った。しかし、これはマジック・ショーなどではない。実際に起こっていることなのだ。そして同時に来訪者がぺてん師でもなければ詐欺師でもない。正真正銘の魔道士であることを、大原は認めざるを得なかった。
はたと我へ返った大原は、もういいから花瓶を元へ戻してくれと慌てて頼んだ。自分の「有能さ」知ってもらって満足したのか、こくりと頷く剣。すぐに花瓶は花瓶敷きの上へ乗った。
「お分かり頂けましたか? まあこんなこと、飛んでくるミサイルを爆破させる事に比べたら何てことありませんがね」
「君はやったことがあるのか、ミサイルを爆破させたことなんて……」
「ええ。資格取得試験にありましたから。ところで、お邪魔しても宜しいですか?」
「あ、ああ……」
黒いスニーカーをきちんと揃えて脱ぐ剣の後ろ姿を、大原は驚愕の表情で見詰める事しかできなかった。唯一つ分かっていること。それはこのひ弱そうな娘が、紛れもない魔道士であるということだった……。
居間へ通された剣は、ソファーへ腰を下ろすとすぐに話を切り出した。
「大体の事は河田から伺っておりますが、もっと詳しくお話しして頂けませんか」
大原は大きく息をつくと、語り始めた。
人も羨む裕福さとは裏腹に、大原は身内の不幸に心を痛ませていた。妻は一年前に病死し、息子夫婦は昨年の暮れ、自動車事故で死んだ。残された肉親は娘夫婦と、その一人娘である今年小学校へ入ったばかりの孫・弥生だった。
事件が起きたのは一昨日のことだった。夏休みということもあり、弥生は祖父の家へ一人で遊びに来ていた。が、大原が少し目を離したすきに孫娘は忽然と姿を消してしまったのだ。使用人を使い、最後には自らも出て探しにいったが、見付からなかった。
ついに大原が警察へ捜索願いを出そうとした直前、家へ電話が掛かってきた。奈落の底へと突き落とす電話が。
「子供は預かった。孫が可愛ければ一億円用意しろ。もし警察に言ったら、子供の命はないと思え……」
若い男の声だった。誘拐犯たる男は一回電話を切ったが、翌日再び電話が鳴り、相手は一方的に身の代金の受け渡し場所と時刻だけを告げていった。
「それが明日。金の事はどうでもいい。弥生が無事に戻ってきてさえくれれば……」
「わかりました。正式にこの件に付いてお引き受けいたしましょう。では、契約書にサインを」
剣は溢れる自信と落ち着きすら感じられる口調でそう言うと、一枚の紙を差し出した。書かれてある誓約等に一通り目を通し、大原はサインをした。契約書をリュックへしまい込むと、剣は改めて大原に話し掛けた。
「まずはお孫さんの監禁場所を探る事が第一でしょう。しかし、生憎人には得て不得手と言うものがありましてね。私は確かに一級念魔道士ではありますが、探索能力は今一つなんです。そういう事は遠見術士が専門なんですよ。で……」
一回言葉を切ると、剣は大原が顔を上げるのを見計らって再び話し出した。
「ここの家には防音設備が整った部屋か何かはありますか?」
「以前、娘がピアノレッスン用に使っていた、離れの部屋があるが……」
「広さはどんなもんです?」
「二十畳程」
「なら、十分です。それでは遠目のきく私の友人を呼びましょう。今夜十二時、またここへ来ます。ただし、家の者はあなたを除いて一人も中に入れてはなりません。何か理由をつけて家に帰すなり何なりして下さい。それでは、時間がありますので私は一回事務所へ戻ります」
剣は下を向いてほんの一瞬、眉をひそめた。おんぼろ扇風機一台しかない事務所よりも、クーラーがガンガンにきいた屋敷の方が居心地が良いに決まっている。けれども剣も商売人、会社代表の河田に契約成立の報告をする義務があった。
ーーこりゃ社長にかき氷の一杯でもおごってもらわなくっちや、割りが合わんな……。
出されたアイスコーヒーを一気に飲み干すと、剣は席を立った。
「おい、ちょっと君……。何でまた真夜中に……」
大原の呼び掛けも、快適ゾーンから出ていかなければならない剣の耳には全く入っていなかった。
深夜十二時。昼と全く同じ格好で剣は大原邸へやって来た。ただし、たった一人で。
「阿比沼さん、例の友人は……」
「私は」
ごく自然な質問であったが、気に障ったのか剣は目を吊り上げた。怒りを内側に抑えているつもりなのだろうが、本人も意識しないうちに漏れ出てしまっている。
「友人を呼ぶと言ったのであって、連れてくるとは一言も言っていません。今から彼を呼ぶんですよ。で、例の部屋まで案内して下さいますか?」
剣の目から放たれる光の鋭さに、大原は一瞬震え上がった。相手はミサイルも爆破できるほどの力を持っている魔道士だ。財界のつわものも、未知の力の持主には恐怖を感じずにはいられなかった。
ーー当社の社員のやり方に、異論を唱えぬこと。
契約書に書かれてあった一文を、大原はふと思い出した。普通の企業では請け負わない仕事を天万では引き受けてくれる。当然の事ながらそれに対応する社員も、そしてやり方も普通ではない筈……。
口を閉ざし、大原は黙って離れまで剣を案内した。指示通り家の中には二人以外誰もおらず、静かな住宅地のさらなる静寂の中にいるように思えた。
離れへ着くと外から雨戸を閉め、さらに大原は内側からしっかりと鍵をかけた。全て剣の言うがままに。
室内の光源は豆電球一つだけ。薄暗い部屋の中央で剣と大原は向かい合った。
「さて……私は念魔道術の他に召喚術も行使する事が出来ますが、今回はそれを使います。因みに召喚術の使い手ーー召喚士と言うのは、異界に住む生き物ーーまあ俗に悪魔とか妖魔とか妖怪なんて呼ばれる存在を召喚し、使役する者の事なんですよ。一般的にはね」
「で、では君の友人と言うのはその化け物……」
異形の者の来訪を知り、大原は己の体に震えを感じた。しかし、当の剣はあっけらかんとしている。
「ええ。でも大丈夫。彼は私の大事な友達の一人ですから。そもそも十二時という時間を指定したのも、彼等の行動が活発になるからなんです。基本的には、何時呼び出しても良いんですけど」
異界の者と身近に接している剣にとって、悪魔だろうと人間だろうと友達は友達なのだ。召喚行為など「普通」の友人を自宅へ招待するのと大して変りはしない。
「さて、始めましょうか。私も彼と久し振りに話がしたい」
ほのかな橙の光に照らされた剣の頬が、一瞬綻んだ。たとえ異界の友人に会いたくなっても普段は我慢し、その衝動を抑えている。必要以上に大事な友を呼び付けたりはしないのだ。
「普通、召喚士が悪魔ないし妖魔を呼び出す時には幾つかの小道具を用います。その代表が魔法陣。魔法陣を書いた布や、それを書くための特殊な蝋石を所持するのが一般的です。次に重要なのは香。それから場合によっては生贄なんて言う物騒な物が必要な時もありますがーー私はこれらのものは一切使いません。これ一つで十分です」
剣は胸ポケットにさしていたポインターペンをさっと取り出すと、両端を手にとって素早く一杯の長さにまで伸ばした。三つと数えないうちに、ペンは薄緑色の蛍光色の光に包まれる。
剣が白いキャップを下へ向けて投げ付けると、銀色のペン軸は杭のように床へ突き刺さった。床には厚みのある絨毯が敷き詰められていたが、細長いペン軸を支える程の深さはない。
「これは一体……」
大原は剣に尋ねようとしたが、叶わなかった。剣の召喚術は最終段階へ入っていたのだ。床はペン軸を中心とし、周囲をまるで水面のように波打たせている。異世界へ繋がる扉は既に開かれているのだ。後は現世へ導くために召喚すべき者の名を呼ぶだけ。
「ヤー、ボルルド!」
剣が叫んだ瞬間、ペン軸は轟きと共に閃光を発した。室内が一瞬、真昼のように明るくなる。飛び出した光の矢は天井へぶつかると思いきや、寸前で翻して床へ落ちーー実体化を開始した。三メートル程の楕円の光は徐々に形を整える。
実体化が終了するまでものの十秒も掛からなかった。だがこの世に姿を現した悪魔を見た時、大原は悲鳴と共に口から飛び出しそうになる心臓を、無理やり押さえ込まなければならなかった。
現れたのは羽蟻か蜂によく似た巨大な昆虫だった。金色に輝く四枚の羽と、同じ色をした尾の先の房毛。鋭く丈夫な顎は、岩をも噛み砕く威力が込められているかのようであった。
だが何よりも大原を恐怖させたのは、悪魔の顔だった。そこには七曜紋の如く七つの丸い目玉が、きらきらと光っていたのである。
大原は恐怖のあまりへたりこみ、そのままの姿勢でずるずると後退していった。何か喋ろうとしても舌が、そして顎が震えていうことをきかない。そうこうしているうちに、虫の姿をした悪魔が羽をさっと開いた。
ーー襲いかかってくる!
咄嗟に大原は団子のように身を丸くした。しかし、有り難い事に予想に反して悪魔は彼の方ではなく、剣の体に飛び付いてきた。七つの目が並んだ顔をしきりに剣に擦り寄せている。信じられないことだがーー甘えているのだ。
「こらこら……もういいから」
半分困った、半分喜んでいるかのような様子で、剣は撫で返した。歓迎を受けてやっと満足したのか、悪魔は床へ着地した。
「紹介します。七眼金翅虫のボルルドです。あ、そんなに怖がらないで下さいよ。彼は何もしませんからーー私や自身が危機に陥らない限り」
ボルルドは金色の房毛を振って見せた。愛嬌を振り撒いているらしい。もっとも能面を被った犬が尾を振っているのと殆ど同じで、大原にしてみれば不気味以外の何者でもなかったが。
「大原さん、お孫さんの写真を」
些かむっとした口調で剣は催促した。口を酸っぱくして大丈夫だと言っているにも関わらず、大原はまだ怯えている。自分を信頼されていないようで面白くないのだ。
相手が魔道士だということを思い出し、大原は強引に冷静を装った。激しく脈打つ心臓をなだめ、呼吸を整えてゆっくりと立ち上がりーー孫娘の写真を彼女へ渡す。
剣は受けとった写真をボルルドの目の前へぶら下げると、大原には解せない意味不明の言葉を発した。
「ギア、ラドス! ルルア・ニィ・ビア・ヴォーグン」
剣の願いごとを受け入れたのか、悪魔は低く一回唸り声をあげた。やがて中央を除く六つの目に紫色の光りが点る。踏切の警報器のランプのように上下に、そして左右に光が移動して行った。まず目標を記憶させ、次いでそれを求めてあちこち探索するのだ。
七眼金翅虫は下位悪魔であるが、遠目においては異界でも一、二を争う実力の持主。数千キロ先を飛ぶ蚊ですら発見する能力を持つ。だから大した時間も労力もかからないはずーーと剣は大原に説明した。
その発言が嘘ではない事は、すぐに証明された。今まで何の反応も示さなかった真ん中の目が、突然数倍もの光を発したのだ。
「見付けたか! 場所を映し出してくれ。セイ・ラファロー!」
中央の目はそのまま映写機となった。カーテンのスクリーンに光景が映し出される。
しかし、映し出された映像を剣と大原は、えっと声を上げた。二人共刑事ドラマに良く出てくるような家ーーどこかの下町か繁華街の裏側に立つ、ぼろぼろの建物か何かを想像していたからだ。
ところが予想に反し、映し出されたのは品の良い、二階建てのモダンな住宅だった。大原邸の足元にはとても及ばないが、それでも庶民の住まいに比べれば大した代物だ。敷地内には白い壁の家と、外車が優に二台は止められる車庫。けれどもまだ余りあるスペースが残っている。
されど映像だけでは、この家が何処にあるのかは分からない。剣は玄関付近をアップにするよう友人に指示を出した。
表札が見える。番地札が見える。だが意外や意外、家の所在地は世田谷の高級住宅地のど真ん中であったのだ。
「大原さん、ここの人物に記憶はありますか?」
剣の問いかけに大原は首を横に振った。事実、犯人宅の表札を見ても、犯人の正体が掴めない。一体自分に何の恨みがあるのか。もしくは単に金目当ての犯行だろうか。しかし、どう見ても犯人は金銭的に困っているようには見えない。株で失敗したのだろうと大原は推測したが……。
「……とにかく、これでお孫さんの居場所は分かりました。もし宜しければ今すぐ救出に向かいますが……結構ですか? ただそうなると、証拠不十分で警察に犯人を突き出すことは難しくなる可能性はありますが」
「構わん」
大原は即答した。孫が無事に帰ってくれば良かったのだ。それに自分の社会的地位を用いれば、犯人を組織社会から追放する事など造作もない。
「わかりました。では早速参りましょう。大原さんはここで待っていて頂けますか。方角と距離さえはっきりすれば、テレポート出来ます……」
剣の声が急速に勢いを失い、尻つぼみに縮んで行った。映像が終わったにも関わらず、ボルルドの中央の目が点滅している。視線の先には大原がいた。
「ボルルド……?」
剣は友人の癖を熟知している。これは何かあったと感じた剣は、先程と同じ言葉ーー悪魔の共通語の一つである下位魔族語でそっと語りかけた。ギチギチと軋むような音を立てて顎を動かし、人には発音できないような言葉でボルルドは答えた。
「何だって……?」
剣の表情が一瞬曇った。が、孫の救出で頭が一杯の大原は剣達の不審な態度に全く感付いていない。
「いや、車で直接行こう。わしも自分の孫をこの手で連れて帰りたい。無論、わしが運転する」
「そこまでおっしゃるのならお願いします。何しろ私は自転車と三輪車以外、何も運転出来ませんのでね……」
剣の会釈もろくに見ず、車の鍵を取りに行くため、大原は鉄砲の弾の如く勢いで離れから飛び出して行った。
「ま……これは私の専門外だし……。それに依頼には含まれていないからな」
艶やかな光沢を放つボルルドの体躯を撫でつつ、剣はふっと笑った。
大田区田園調布は世田谷区との区境にある町である。目的の家までは車を用いれば、さして時間はかからないはずだった。
真夜中の東京を疾走する一台のベンツ。ハンドルを握るのは久し振りに自分の車を運転することになった大原である。
「科学全盛のこの世の中に、魔法を教える学校なんてものが本当にあるのかね?」
大原はバックミラーへ軽く視線をやった。後部座席、普段は自分が座る場所に剣は腕を組み、腰を下ろしている。
「ええ。ただ世間には殆どその存在を知られていないので、あなたが御存じなかったのも無理はありませんが」
国際魔道学院。世界のあらゆる地域で育まれた魔法を、現代人に伝授する学校である。本校はアメリカに、そして世界の主要国にその分校はある。卒業生は数多くおり、各界で活躍しているーー取得した資格を使うにせよ使わないにせよ。代表の河田を含めた天万の社員全員も学院の卒業生であり、何らかの資格を持っているのだ。
各資格を取得するために、国際魔道学院では大学の学科のような各種専攻コースを設けている。念魔道士課程、召喚士課程、呪術士課程、精霊術士課程……等。
「何だか良く分からんものばかりだが、呪術士ならわしにも見当がつく。藁人形に五寸釘を刺して呪うーーあれが呪術だろう。随分と物騒なことをやる連中だな」
肩を竦める大原に、剣はゆっくりと首を横に振った。
「それは偏見です。確かにおっしゃる通りのこともやりますが、呪術士の役目はそれだけではありません。かけられた呪いを解除出来るのは彼等だけです。また救援物資にそれが最終受取人以外の者の手に渡った場合、毒蛇に変わるという呪いをかける。これも立派な善行というものでしょう? もっとも」
バックミラーの中で剣が不敵な笑みを見せた。
「呪いをかけることを糧にしている卒業生も少数いると聞きます。晴らせぬ恨み、代わって晴らします、っていうやつですね。私の学友の中に呪術士課程を首席で卒業した者がいます。彼も当社の社員です。どうです、御紹介いたしましょうか?」
「い、いや結構」
ぶるっと一回身震いし、大原はハンドルを握りなおした。剣が何やら意味ありげな溜息をついたのに気付くこと無く。
程無く車は目的の番地から少し離れた場所へ着いた。車を止め、二人は車から降りた。家のすぐ側だと犯人に気付かれる恐れがあるからだ。
「ここから家の中にテレポートで潜入しましょう。ですが、その前に透視してみます。家の中の何処に監禁されているか、知っておく必要がありますからね」
「でも君、確か透視は出来ないんじゃなかったのかね?」
「得意ではないと申しましたが、出来ないとは言っていません。人間くらいの大きさの物なら、半径一キロ以内にいればキャッチできます」
剣は横目で大原を睨み付けた。一つの大企業の長たる人物を畏怖させる睨み。大原の家を再訪問した際に見せたものと同じである。一級念魔道士である剣は、世界各地に存在する国際魔道学院の同課程卒業生の中でもエリート中のエリート。当然の事ながら、プライドも高い。
とはいえ怒りが収まったのか、剣は軽い念集中へ入った。ものの数秒で剣は念集中を解き、彼女は大原の方を向いた。
「地下室です。ま、在り来たりの場所ですね。ただ、そこの扉の前に見張りが一人。さらに家の一階には二人。全員若い男です。楽勝ですな」
剣はふふふと小声で笑った。力の悪用の厳禁は魔道士の良識として、当然心得ている。しかし今回は別。剣は悪人には少しも容赦せず、むしろ暴力を振るうことに楽しみすら感じる。故意にエンジンの音を轟かせ、猛スピードで公道を爆走する暴走族に対して念力を行使し、大怪我をさせたことさえある。
今回の相手は誘拐犯と言う犯罪者だった。遠慮する必要のない者達であり、剣の凶暴性が一瞬顔を覗かせたのである。大原の体は無意識のうちに彼女から二、三歩遠のいていた。
「なーに、ミサイルを爆破させる事に比べたらお茶の子さいさいレベルです。さて、参りましょうか」
剣の手が大原の肩に触れた。手から放たれたほのかなエネルギーが自分の体に伝わって来るのを大原は感じた。宙に浮いたような感触が全身を駆け抜ける。大原は目をつぶった が、次の瞬間、彼と剣は暗い地下室の中にいた。ひんやりとした部屋を一本の蛍光灯が危なげに照らしている。広い室内には殆ど何も置かれてはおらず、あるのは女の子をロープで虜にした一脚の椅子だけだった。
「弥生!」
「お祖父ちゃん!」
大原の顔から笑みが零れ、女の子ーー弥生もありったけの声で叫んだ。
だが、孫と祖父の感動の再会は一人の乱入者によって阻止された。部屋の外で見張りをしていた犯人の一人が飛び込んで来たのだ。孫の元へ駆け寄ろうとする大原を突き飛ばし、男は素早く少女の首に手を回した。
「動くな! 動くと子供の首を折るぞ!」
脅迫する男は、プロレスラーか柔道の選手を思わせるような素晴らしい体格の大男だった。本気になれば細い少女の首など、小枝のように折ってしまうに違いない。
恐怖のあまり弥生は泣きだし、大原は真っ青になった。一方剣は無表情のまま。
「何と古典的な……」
そして剣は歌い始めた。日本語でもなければ英語でもない。誰も聞いた事がない、全く未知の言葉の歌を。誘拐犯、大原、そして弥生の耳の中を美しいアルトの、しかし奇妙な歌が伝わって行く。
「リーム・スルヴェーラ・フェシリュー・グロームン……」
ゆらゆらと陽炎が立ち上ぼるような不思議なイントネーション。当初ゆったりとしていたメロディーは、次第に力強くリズミカルとなっていった。
それもその筈、彼女が歌っているのは軍歌の一つだったのであーーただし悪魔の。戦闘状態に入る前、上位魔族語の戦歌を口ずさむ癖が剣にはあった。悪魔の歌には強弱はあるものの、何らかの作用をもたらすものが少なくない。剣が今歌っているのは、自身のお気に入である『戦慄の歌』だった。つまり、相手の戦闘意欲を削ごうとしているのだ。無論、余裕がある時にしか使えない手ではあるが。
剣はただ歌っているのではない。意識的に自分の念力も乗せている。効果はてきめんに現れた。戦歌の催眠効果に囚われた犯人は、腕をだらんと下げて後退した。剣の目がきらりと光る。
「葬れ、敵を!」
歌の最後のフレーズと共に発動された念力が、百キロ近い男の体を弾き飛ばした。扉が開いたままの入口を通り越し、犯人は体を踊り場の壁に嫌と言うほど叩き付けられた。
「いきなり吹っ飛ばしても良かったんですが、人質がいたので一応慎重策をとりました。ほら、お陰でお孫さんは無傷ですよ」
剣は涼しい顔。相手が気絶した事を確かめると、弥生の元へ歩み寄り、指先をつけて念力でロープを切った。祖父に飛び付く弥生。目に入れても痛くないほど可愛がっていた孫を再びこの手で抱く事ができ、大原の目にも涙が光った。
が、間髪入れず新手が現れた。物音に気付いて残る二人がやってきたのだ。
「おい、何か変な歌が聞こえなかったか?」
「お前、ちゃんと見張りをやっているーー」
二人の男は息をのんだ。見張りを任せていた仲間が、倒れているではないか。
「誰だ!」
侵入者の存在を知った二人は、腰の登山ナイフを抜くと室内へ乱入したが、次の瞬間己らの目を疑った。中にいたのは見覚えのある一人の老人と、線の細い女だけだったからである。
「貴様、どうしてここが……」
二人のうち、後方に控える男は目を丸くしている。こちらが主犯者なのだ。しかし、大原はこの男のことなど全く知らない。相手は自分の事を知っているようだが。
呆然と立ち尽くす両陣営。だが、剣だけは違った。今度は呑気に歌など歌っている暇はない。剣は相手の一瞬のすきを見逃すことなく、攻撃に転じた。念力によって持ち上げられた椅子が、猛スピードで宙を滑走して行く。まともに椅子の体当たりを受けた手前の男は、最後に目の前に星が舞うのを見て意識を失った。
「この化け物めがーっ!」
僅かな光に照らされて、登山ナイフがきらりと光った。残る一人ーー主犯者がナイフを振り翳し、突っ込んで来たのだ。
「その化け物って言葉は、耳にたこができるほど聞いた」
淡々とした口調でそう言うと、剣は目をかっと開いた。男の右手にしっかりと握られたナイフが、念力を受けて光の線を描き、後方へと飛ぶ。武器を無くした犯人へ剣は容赦なく第二波を放った。男は大の字になり、地下室の天井に貼り付けられてしまった。
「さーて、教えてもらおうか。どうして大原さんの孫を誘拐したのか」
剣は上を見上げ、穏やかな口調で尋ねた。が、
「お前に話す理由があるか!」
相手はあくまでも強気。剣の眉がぴくりと動いた。
「なら、頭を冷やしてもらおうか」
数秒後、地下室に一筋の水流が飛び込んできた。車庫の蛇口から剣がここまで招き寄せたのだ。水流に襲われ、全身ずぶ濡れになった男はやっと観念したのか、誘拐を企てた理由を話した。しかしーー
「大原がコンサートで、俺の足を踏み付けたうえ、謝らなかったからだ」
何とも下らない理由だった。剣が呆れて言葉を失ってしまったほどに。
男は二週間程前、クラシックのコンサートへ出掛けたが、たまたま自分の席の前を通り過ぎた大原に足を踏まれた。いつもならば「コノヤロー!」の怒りの一言で済まされるはずの些細な出来事。しかし、何故か彼は大原に対する「恨み」を忘れる事は出来なかったのだ。コンサートなどそっちのけ、憎しみは収まるどころか止まるところを知らず膨れ上がって行った。コンサート終了後、彼は大原の車を尾行し、相手が何者かを確かめた。そして、復讐のチャンスを窺ったのである。
「身の代金なんてどうでも良かった。親から貰った財産があるからな。ただ……ただ奴を苦しめたかっただけだ。金を受け取ったら子供は殺すつもりでいた……」
「そう。じゃあ、おやすみ」
剣の一言と同時に発せられた念力で男は気絶し、床に落ちてきた。
「何とまあ、つまらん理由で……」
リュックから取り出したロープで主犯を含めた三人を縛り上げながら、剣は独語した。クラシックコンサートへ出掛けるほどの高尚な趣味を持つ人物が、何ゆえこんなくだらない理由で報復に出たのか。剣も、そして大原も犯人の心理がとんと理解できなかった。
「全くだ。この子に何の罪があると言うんだ……。まあそれはともかく、阿比沼さん、ありがとう。お陰でこの子も無事戻って来た。娘夫婦には今回の事は伏せておくつもりだ。その方が全員のためにもなる」
「……でしょうね。それで、こいつらはどうします?」
「取り敢えず身元調査だ。後の処分はそれから決める」
剣は黙って頷いた。自分の役目はここまでなのだ。犯人を煮て食おうと焼いて食おうと、後は依頼主の勝手である。
「お姉ちゃん、凄い」
弥生が剣の側へ駆け寄ってきた。剣を少しも恐れる様子はない。幼い少女にとって剣の活躍は、勧善懲悪ものの特撮映画そのものだったのだ。
「わはははは。私は正義の味方だぁ!」
右手を差し出してブイサインをし、白い歯を見せて剣は笑った。大人達は非科学的な魔道士の力を忌み嫌い、白い目で見詰めることが多い。しかし子供は物事をありのままに、素直に捕らえようとする。剣もそんな子供のあどけなく自然な態度は好きだった。
「とにかく、何処も怪我が無くて良かった。怖くなかったかい、弥生」
顔には満面の笑み。大原は柔らかな少女の頬を擦り、次いで頭を撫でた。
「痛い! お祖父ちゃん、そこ触らないで!」
弥生の叫びに大原は慌てて手を離した。良く見ると、左前頭部に瘤ができている。大原は頭を傾げた。誘拐される前には、こんな瘤などなかったはず。
「弥生、あいつらに殴られたのか?」
「ううん。石が落っこちて来たの」
弥生曰く、それは誘拐された当日のこと。屋敷の近くで遊んでいた時、突然何処からともなく石が落ちてきて、頭に当たったのだ。頭を抱えてなきべそをかいていると、一台の車がすぐ脇へ滑り込んできた。
「おじょうちゃん、どこか痛くしたのかい?」
車の中から出てきた若い男が話し掛けてきた。そして答える間も与えず、男は弥生を抱え上げると車へ押し込んだという次第。
「石……? 石だと……?」
大原と剣の口から同時に同じ言葉が漏れた。剣はそれっきり考え込んでしまったが、大原はまるで催眠術にかかったかのようにぶつぶつと呟いた。
「まただ……また石だ……。家内が死んだ時も、息子が事故を起こした時も……。必ず石が落ちてきた……」
「なーるほど、そういうことか」
大原の独り言で剣には全てがわかった。全てのからくりが。
「阿比沼さん、それはどういう事だ! もし何か知っているのなら、教えてくれ!」
目を見開き、必死の形相で大原は迫って来た。
「結構です……と、申し上げたいところですが、無料というわけにはいきません。情報公開料及び調査費用を加算させて頂きますが、宜しいですか?」
会社創設以来三年、ずっと天万に勤めてきた剣は、すっかり抜け目のない商売人となっていた。もっともこれが河田の社員教育の成果によるものなのか、それとも剣本来の性格によるものなのかは定かではないが。
利潤追及という点に関しては、剣より大原の方が一枚も二枚も上手だった。しかし、自分や家族の身に降り懸かった不幸の謎を知りたいという衝動の前に、金銭感覚など羽の如く吹き飛んでしまう。
「構わん! 金は幾らでも出す!」
「では、契約書の方に追加サインをお願いします」
剣が差し出した悪魔召喚用のポインターペン受けとると、大原は手早くサインをした。してやったりとほくそ笑む剣。
「私はこの足で事務所の方へ戻ります。ご要望のあった件をもう少し詳しく調べる必要があるからです。請求書は速達で郵送いたしますので、御都合の宜しい日に私が料金を取りに参ります。全額現金でお支払い願います。では」
剣の姿が空間に溶けるようにして消えた。テレポートで移動したのだ。手品を見たかのようにはしゃぐ弥生。だが孫とは対称的に、大原の心は深く沈んでいた。
八月十一日、午後七時。剣は料金を取るために、再び大原邸を訪れた。
応接間へ通された剣は、そこで金を受け取った。札束を入れた封筒は厚く、それで人を叩いたら間違いなく痛いと思われる程の厚みがあった。
中身を取り出すと、剣は紙幣の一枚、硬貨の一つに至まで丹念に手にとって数えた。そして三回じっくりと数えた後、気が済んだのかやっとのことで剣は、河田のサインが入った領収書に大原に手渡した。
「阿比沼さん、それで例の件だが……」
苛々したように大原は口を開いた。代金や領収書のことなどどうでも良かったのだ。剣の来訪を待ち侘びていた理由は、石の謎の解明にあった。
「ああ、石のことですね。勿論調べは付いています。が、その前に一つお尋ねします。私がこれから話すことを事実として受け止めることは出来ますか? それが無理なのであれば敢えてお話しはしません。加算された分もお返しします。どうなさいますか?」
剣は大原の目をまじまじと覗き込んだ。大原の決意は変わらないようで、目付きは真剣そのもの。大原にしてみれば今回の事件は驚きの連続だった。もうこれ以上驚く事もあるまいと踏んでいたし、何よりも石の謎が知りたかったのだ。
「分かりました。ではお話ししましょう。ここ一年にあった御家族の不幸。それは全て呪いによるものです」
剣の発言に大原は少なくとも表面上は冷静さを保つ事ができた。いや、やはりと感じたほどだ。剣の実力を目の当たりにし、大原も超自然現象の存在を信じざるを得なくなったのである。
「呪術の中に、『四つの石の呪法』というものがあります。私もこれについてはちらりと聞いたことがありました。呪いがふりかかってくる直前、その対象者に石が当たるというのです」
出された冷茶を一口含むと、剣は説明を続けた。
「しかし、それ以上の事は知りませんでしたので、例の呪術士課程を首席で卒業した学友に尋ねてみたのです。そうしたら……」
剣は視線で了解を求めた。依頼主が望むのであればここで話を打ち切るつもりでいたのだ。が、大原は怯むどころか無言で「早く話を続けろ」と返事を送って来た。この展開を剣は期待していたが、その心情を表に出すことはなかった。
「かなり質の悪いものであることが分かりました。『四つの石の呪法』は復讐の呪術の一つです。四つの石に呪いをかけて、それらを一つずつ放り投げながらこう言うのです」
剣は歌うように呪いの言葉を口ずさんだ。悪魔の歌を歌った時と同じ、澄み渡ったアルトの声で。
一つは最も身近な者に
二つは最も頼りになる者に
三つは最も愛する者に
そして最後の一つは憎い敵の当人に
見る間に大原の顔から血の気が引いて行った。災いに遭った者達は、全て呪いの言葉が語る通りの人物だったからである。
一つ目の石が当たったのは最も身近な者ーー妻。前日までぴんぴんしていたが、朝突然心臓発作を起こし、その日の夕方に死んだ。
二つ目の石が当たったのは最も頼りになる者ーー息子。会社の重役であり、大原の右腕でもあった息子は、自身が運転する車がトラックと正面衝突し、妻諸共即死した。
三つ目の石が当たったのは最も愛する者ーー孫娘。呪いはふりかかったが、剣が介入したために中途半端なものに終わり、災いには巻き込まれたものの命は助かった……。
まず大切な者達を次々と奪って行き、散々悲しみ苦しませて最後に当人へ襲いかかる。それが『四つの石の呪法』の陰湿なところだった。
「正直に申し上げましょう。私はあの日の夜、既にあなたに呪いがかかっていることを存じておりました。ボルルドが嗅ぎ付けたからです。七眼金翅虫の七つの目は不可視な力もキャッチできるますから。ただ」
頭の中が真っ白になっているのか、大原は言い返してこない。それをいいことに、剣の口調は次第にヒートアップしていった。
「その詳細まではわからなかったので、事件後ボルルドに調べてもらいました。そしたらですね……」
剣はポケットから小さな紙を一枚取り出した。新聞の切り抜きだった。半年前、とある男性の飛び降り自殺を報じた記事だ。
「この人、あなたの会社の社員ーー経理部の人ですよね? 自殺の理由は記事によれば、ギャンブルによる借金だということになってはいますがーー」
切り抜きを応接テーブルの上に勢いよく叩きつけると、剣は大原を睨みつけた。
「本当はそうじゃない。あなた、会社の金を私的目的で横領したでしょう? そしてそのことに感づいたこの社員に自殺を強要しましたねーー家族の命を脅しに使って。結果、彼は自ら命を絶ったのです」
「ち、違う。あれはあいつがーー」
「まだそんな言い逃れするんですか? 世間の目は誤魔化せても、悪魔の目は誤魔化せませんよ。あなたは権力を行使し、まんまと罪から逃れられたと思っているのでしょうが」
「そ、それじゃ呪いをかけたのは……」
「恐らくこの社員の関係者が、うちの卒業生に依頼したんでしょう。この『四つの石の呪法』は、逆恨みの復讐や私利私欲のために用いると効果を発揮するどころか、逆に術者へ呪いが跳ね返ってくるんですよ。しかし、呪いはしっかり効力を発揮しました。と、いうことは……」
口を閉じたものの、剣が言いたい事は大原には分かっていた。自殺した社員に非は全くない。自業自得、即ちあなたが悪いのだと。
「この呪法を使うくらいですから、依頼者は骨髄に達するほどの恨みを抱いていたのでしょうね。依頼者は真実を知っていた。されど頼みの綱の警察も丸め込まれ、行き場のない怒りに震えたあげく、呪いという手段に出たのでしょう」
剣はくっくっと声を殺して笑った。普段の大原なら社長の威厳にものを言わせて怒鳴りつけたところであろう。しかし、今度ばかりはそうもいかない。頼りになるのは目の前にいる娘ーー剣だけなのだ。大原はソファーから立ち上がると、額を擦らんばかりに頭を下げた。
「阿比沼さん、頼む、お願いだ。呪いを解いてくれ。そう、君の友人に頼んで」
「お断りします」
剣の返答は冷たい刃となって大原の心へ突き刺さった。
「まだ石が残っているのならともかく、後はあなた自身の分だけ。そんな『四つの石の呪法』を解除するのは真っ平だと私の学友は言っていました。社長もその依頼を受けるつもりはないとの事です。それにーー」
ふと剣は天井を見上げた。大原が面を上げようとした時ーー頭上に何か硬い物が落ちてきた。跳ね返り、カーペットの上に転がる物体。紛れもない石ころだった。恐怖に駆られ、見る間に青ざめてゆく大原。
「手遅れのようですね」
姿勢を崩すこと無く、剣は真上を凝視した。視線の先にあるのは、応接間を明るく照らす豪華なシャンデリアだ。
引き裂かれような悲鳴をあげ、大原は力なく伏せた。再び剣に助けを求めようと顔を上げたものの、魔道士の姿はもう何処にもなかった。そしてその直後鎖が切れる音がし、大原の頭上目掛けてーー