02.異世界へ
「ハッ……ハッ……!」
木々の生い茂る森の中を一人の少女が走りゆく。
森を一人歩むには場違いな品のいいドレス。
しかし、その格好には似つかわしくなく、前へ前へと駆けるその足に小石や小枝から守ってくれる履物はない。
程なくして、幾度目かの尖った小石を踏み抜いた時、痛みに膝から力が抜け、そのまま身体は倒れ込んだ。
「あぐっ……!」
苦痛に口から漏れる声、痛みを訴えられる程の余裕はなく、言葉にならない呻きが宙に消える。
「ひひひ、おーい、おじょうさまー。どこまで逃げようって言うんですかねぇ!」
彼女の駆けた道を辿るように、下品な笑みを浮かべた複数の男が声を上げる。
そう、彼女は野盗に襲われたのだ。
聞こえた声に痛みを忘れて、這いずりながら足を進める、が。
もはや空気を取り込む肺の挙動すらおかしく、ひゅーひゅーと壊れた管から風が吹き出るような音がする。
彼女の顔は汗と泥に塗れ、顔面は蒼白だった。
「レイチェル……様……、お逃げ……ください……!」
そんなレイチェルと呼ばれた彼女の背後に追い付いたのは野盗ではなく、肩と足に5本もの矢を受け、片足と腕が上がらなくなった護衛の男だった。
自分よりも酷い有様の男を見て言葉をかけようとするも、最早レイチェルの口から漏れ出るのは取り込んだ酸素を全力で吐き出す空気だけ。
必死に抗う二人を嘲笑いながら、野盗の男達はあっさりと追い付いてしまった。
「おいおい、護衛騎士さまぁ、なんですかそのみっともない有様は?」
「……っ、ふざけるな……不意打ちなど、情けないと思わないのか……!」
護衛騎士の怒りを聞いて、野盗達は腹を抱えて笑いだした。
「ひっ……ひぃっ……、ちょ、ちょっと待ってくれ、アンタ腕が上がらないからって俺らを笑い殺す気か?」
「なにがおかしい……!!」
「何もかもおかしいだろ、俺たちゃお上品な騎士様じゃねーんだぜ?その辺普段からいいモン食ってるアンタらの栄養が詰まったオツムでご理解いただけましたぁ?」
ゲラゲラと笑いながら2人を取り囲む野盗達。
抵抗の意思を見せる護衛であったが、多勢に無勢、3方向から一気に棍棒で殴られ、護衛は地面へ倒れ伏す。
その間に、ゆっくりとレイチェルへ歩み寄った野盗の頭は、もがくレイチェルのドレスを力のままに引き裂いた。
「いやー、全然育ってねぇが、一度ちんちくりんを無茶苦茶にしてみたかったんだよなぁ」
叫び声すらあげられず、恐怖と嫌悪に顔が歪むレイチェル。
倒れたまま無理やり野盗に髪を引き上げられ、レイチェルへと顔を向けさせられた護衛は湧き上がる怒りに全身をのたうち回らせた。
「キサマァ……!バカな真似はやめろぉ!!!」
「へいへい、そんな急かさなくてもアンタが守れなかったおじょーさまがどうなるか、きっちり見せてやるって」
「レイチェル様から離れろぉ!」
護衛の叫びも虚しく、レイチェルは下卑た笑みを浮かべる野盗の頭に伸し掛かられた。
そんな時だった。
「……あー、ちょいといいかね。……って、金髪かぁ……。はろー?」
間の抜けた声が木の後ろから聞こえたのは。
緊迫したこの状況にはあまりに場違いな落ち着いた声色に、野盗達だけではなく、護衛も一瞬あっけに取られた。
「誰だぁ!?」
野盗の頭は声の聞こえた木に向かって叫ぶ。
その声には警戒の色が混ざっていた。
獲物を前に狩りを楽しんでいたとは言え、この距離に近づくまで足音など聞こえなかったからだ。
野盗の頭の張り上げた声で我に返った護衛は、わずかな時間の間に幾度も神へ祈った。
そして、その場の全員が見守る中、木の影から現れた人影は見慣れぬ衣服に身を包んだ小柄な老人であった。
「……なんだぁ?ジジイじゃねぇか。」
「ん~……?日本語……では、ないねぇ……。吹き替え映画を見ているようだよ。」
ため息交じりに意味のわからない事を口走る老人に、護衛の男は苦い表情を浮かべる。
助けを求めようにも、老人に求めるにはあまりに残酷。
かと言って、逃げろと言うのもまた残酷な話だった。
「……ちっ、オイ。」
「へい。」
野盗の頭が顎で老人を指すと、手下が頷き、老人へ近づいていった。
レイチェルも涙を溢れさせながら老人へ口をパクパクと開閉させている。
「おいジジイ、場違いなんだよ、その変わった服置いて失せるか死ぬか選びな。」
ヘラヘラと笑いながら老人へ小型の剣を突きつけた手下。
その老人はと言うと、刃物を突きつけられたにも関わらず表情一つ変わらない。
開いているのか閉じているのかわからない瞼を見る限り、盲なのかと手下はイラつく。
「に、逃げてください、ご老体……!」
やっとの思いで言葉を絞り出した護衛は、目の見えないであろう老人に言葉で状況を伝えようとした。
しかし、老人は自身の頭部をかきながら溜息をついた。
「……んー……そこの兄さん、状況を手短に教えてもらえんかねぇ。」
なにを悠長な、そう思った護衛であったが、状況が見えないのであれば仕方ないのだろう。
それに痺れを切らしたのは野盗の手下であった。
「言ったろジジイ場違いだって、今から俺らはそこのお嬢ちゃんといいことする時間なんだよ!」
手下が握っていた刃を老人へ向かって振り下ろした。
レイチェルは思わず目を瞑る。
しかし、何故か手下の握っていた剣は刃が根本から無くなっていた。
「あぁ?」
野盗の頭は小さく呻く。
そして護衛は確かに見ていた、手下がその手を振り上げた時、そこには刃があったはずだと。
続いて護衛は思った、まさか魔術師ではないかと。
「ご、ご老体!私とそこの……レイチェル様はこの野盗達に襲われたのだ!!」
「はー……そうですか。ホント、嫌な場所にきちゃったなぁもう……。」
恥も外聞も捨て、希望となり得るかも知れない老人に向かって叫ぶ護衛の男。
その言葉を聞いて老人は、ただ、もう一度溜息をつきながらボヤいただけだった。
「……おい、何しやがったジジイ。」
「キミ達、年上を敬うって気持ちを知らないのかねぇ。」
「ちっ、おい!全員で取り囲め!」
「……まったくもう。」
護衛は見た。
今度こそ老人をしっかりと見た。
早くもない動きで杖らしき物を手に掴む、取り囲んだ男達から振り落とされる刃。
回避など間に合うはずもないのだが、気づけば老人は集団の後ろへと立っていた。
野盗の頭は戦慄した。
理解が追いつかない。
「な、なん……なんだよテメェは!!!」
「私かい……?」
信じられない物を見たような顔で老人にわめく野盗の頭。
その質問に対して、老人は少し悩んでみせた。
「そうだねぇ。靴を探しに来た爺さんさ。」
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源十郎がこの森に"飛ばされて"から、体感で二刻ほど経過した頃。
源十郎はすっかり参っていた。
「いやー……こうなってみると、本当に靴の有り難みが身に染みるねぇ……。」
源十郎の足裏は、日頃畳の上でクセになっている摺足のおかげで皮が分厚い。
現代社会の常人に比べれば、多少の小石や棘程度、さしたる問題でもないのだが。
それでも履物があるのと無いのとでは天地の差があるようで。
「水も持ってないのに、足が冷えちゃったらおしっこ近くなっちゃってやだなぁもう……。」
ここに至るまで、幾度か水場はあったのだが。
見ず知らずの土地で生水を飲むと言うのは、あまりに恐ろしい。
そもそも空気からして、自分の知らないどんな微生物や気体が含まれているかすらわからないのだが。
どうせ一度は死んだ身と、そこは諦めて歩んでいた。
大地から真っ直ぐに伸びたように、背筋は乱れる事なく歩む。
規則的に繰り返される呼吸のおかげか、汗すらかいていない。
そんな最中、風に靡く葉擦れの音に混じって声が聞こえた。
「……お、ようやく人に会えるかな?」
源十郎は少し安堵していた。
この地に彼を飛ばしたアリエスは、あの時かなり焦っていた。
もしかすると、そのせいで説明があった場所とは違う地に居た場合、生物がいるかすらわからなかったのだ。
ここに来るまでの間、生き物らしい鳴き声は幾度か聞いたが、言語らしき物が聞こえたのはこれが初めてであった。
だがしかし、源十郎は考える。
ここは地球とは別の世界だと、アリエスが言っていた。
その言葉の意味をしっかりと理解できたわけでは無かったが、少なくとも自分が住んでいた場所では無い。
となると、言葉が通じるのかどうかが一番の問題だった。
そんな事を考えて歩んでいると、聞こえてきた叫び声に我に返る。
気づけば源十郎はかなり声の元へ近づいていたようだ。
「……ふむ……考えていても始まらんか。」
結局、その集団に声をかけた。
状況は随分混雑としていたようだったが、言葉が通じる事を理解すると同時に、なんとも言えない気持ち悪さも感じる。
源十郎から見て、口の動きと聞こえてくる言葉が違うのだ。
感じずにはいられない違和感に溜息が漏れるも、矢継ぎ早に来る展開に悩むヒマすらありはしなかった。
振り上げられた刃を斬る。
状況の確認をする。
取り囲んだ集団を斬る。
そうして一人から飛んできた質問に対し、自身が今何をしているのか、そして何をしたいのかを改めて思い出した。
そう、源十郎は靴が欲しいのだ。
「あれこれ悩むのも終わりにするとしよう。」
手にしていた白木の刀で地面をトン、と叩くと、先程源十郎を取り囲んでいた集団の武器、防具、衣類が音もなく地面に舞い落ちた。
しかし、それぞれの靴のみ無事である。
どうやら水虫以外の一足を貰おうという魂胆のようだ。
身に纏うもの全てが一瞬で消失した野盗達は、自らの股間に両手を当てた。
「ひ……ひひっ!へへへへ……!!」
その光景を見た野盗の頭は、レイチェルの上から飛び退き、剣を抜いて源十郎と対峙した。
「ジジイ……さては戦技使いだろ。俺の目はごまかせねぇ。」
「……ふむ?」
「恍けたって無駄だ、なんせ、俺も戦技使いだからなぁ!!」
源十郎は首を傾げた。
勝手に理解が進んでいる野盗の頭が何を言っているのかわからなかったのである。
「いつ"詠み上げた"かは知らねぇが、残念だったな!『宿り、宿らせ、風を纏い、風と成る』」
「ご、ご老体!ソイツは風の戦技を使う気だ!!」
護衛が叫ぶ。
野盗の頭が戦技を引き出す為の詠唱を口にすると、手にしていた剣が光りだした。
「ヒヒヒ、これで俺に隙はねぇ!」
「……失礼、若いの。」
「今更謝ったっておせぇよジジイ!!」
「……いや」
「隙だらけだったんだが、斬ってもよかったのかねぇ……?」
「あ?」
そう、少し申し訳なさそうに聞いた源十郎に野盗の頭だけではなく、その場に居た全員が首を傾げた。
直後、ガラガラと音を立てて短冊切りになった刃が、野盗の頭の手から地へ落ちる。
初めて感じる気配と、詠み上げの最中の隙の多さに、源十郎は気づけば斬っていた。
「……ば……ばけもの……」
「……空気の読めないジジイで申し訳ない。」
源十郎の心に去来するのは、子供の見せ場を奪った大人げなさのような物だった。
野盗の頭の敗北と共に、崩壊した数の優位性と自信。
一人、また一人と後ずさりを始め、誰が上げたかわからない叫び声が伝播していく。
野盗の頭も同じように全力で逃げ始めると、防具と衣服が吹雪のように舞い落ちた。
源十郎は羽織をレイチェルへ被せて、独り言ちた。
「……幼子に見せていい光景ではなかったかもしれませんねぇ。」
「ご、ご老体……いやっ、先生……!本当になんと感謝を述べて良いか……!!」
護衛騎士の男が死に体の身体で必死に這いずり、瞳から涙を溢れさせながら感謝を告げる。
先生と呼ばれた源十郎は苦笑いしながらその言葉を否定しようとした。
直後、源十郎はピクッ、と片目をわずかに開く。
逃げ出した野盗達の悲鳴の質が変わったのだ。
それと同時に、野盗の頭が錐揉みしながらこちらへ飛んできた。
上半身のみで。
「なぁ……!?」
「……羽織、かけておいてよかったですよ。」
レイチェルに被せた羽織を確認して、源十郎は顔を顰めた。
これだけ大立ち回りを見せた源十郎も、住んでいたのは現代日本。
人の死ぬ姿を見ることも少なければ、人を斬ったこともないのだ。
次々に出来上がる死体の山を見て、笑顔で居られるような人生は送ってきていない。
木々をかき分け、死体を食い散らかしながら現れたのは、5mを超える魔物だった。
護衛騎士はガチガチと歯を鳴らし、その魔物の名称を呼んだ。
「さ……サーペント……タイガー……」
「……尻尾が蛇になってる虎とは……鵺のようですねぇ。」
護衛騎士が警告しようとした直後、サーペントタイガーは源十郎達に向かい咆哮した。
静かだった森に弾ける爆裂音。
源十郎は両耳に指を突っ込み顔を顰めた。
「……人の味を覚えてしまった動物と言うのは、もう処分するしかないか……やだなぁもう……。」
「せ、先生、ダメだレイチェル様を連れて逃げてください!アイツは特定の戦技しか効かないんだ!!」
舌なめずりをするサーペントタイガーに向かい立ちはだかる源十郎。
そのサイズの差はまるで象と猫。
尾から生えている蛇から放たれた毒液に、護衛騎士が死を覚悟のも束の間、毒液は源十郎達を避けて左右に飛び散った。
護衛騎士は理解する、斬ったのだと。
そして護衛騎士は知っている、その毒は鉄をも溶かすのだと。
「んー……先程から耳にするんですが……」
源十郎から溜息一つ。
絶対の自信を持って飛び込んでくるサーペントタイガー。
本日幾度目となるのか、護衛騎士は死への覚悟と拒絶を繰り返す。
だが、護衛騎士は理解"した"。
「あーつってのはなんですかね?」
縦に真っ二つになったサーペントタイガーを見て
この人は、本当に"斬っている"だけなのだと。