8話:088の魔術師(1)
それからというもの、いつもの毎日が続いた。
レールガン砲台破壊作戦が成功したものの、欧州方面における損害が大き過ぎた。これによって作戦におけるほとんどの規模を最近は縮小していた。その代わり特別航空治安維持飛行隊にそのお鉢が回ってきて、普段は通常部隊がするような任務をさせられていた。
バンディッツの時、”遺産”に関わる時、今のこの状態にしても、これが自分たちにとっての”いつもの”に過ぎない日常だった。
今日は非番。レイは整備兵から貰った紅茶を淹れてくつろいでいた。なんとも不思議な紅茶で、ぶどうの香りがするのに味はしっかりと紅茶なのだ。それに美味しいのは重要な要素だ。こんなもの一体どこで手に入れてくるのだろうか。
小腹が空いた時用のお菓子を取り出して、合わせて食べる。こういうことをしたのはいつぶりだろうか。そう言えば長いことできてない気がする。何もないときはこうして一人で落ち着くのがレイの楽しみでもあった。
ややあって、重くなってきた瞼をこする。少し眠ろうか。横になる前にカップなどを片付けようと立ち上がると、ノックの音が聞こえてきた。
「はい」レイは目をぱちっと開いて返事をする。
「レイ、今大丈夫?」
「ちょっと待ってください…どうぞ」テーブルの上のお菓子類を整える。
「良い匂いね。紅茶かしら?」そう言いながら、長身で金髪の姿が見えた。エミリア大尉だ。
「そうですよ。整備兵からもらったんです。大尉もどうですか」
「ならお言葉に甘えて」
調子はどうとか、機体はどうとか、軽くそんな話を続ける。エミリア大尉が部屋に来るのは珍しいことではない。レイがこの部隊に配属されてからレイの教育係も請け負ってきた彼女は、ある種のカウンセラーのような存在でもある。こうしてたまにやって来ては、喋ってリラックスするのだ。
「ところで」
と、大尉が切り出してきた。本題なのだろうか。
「”088の魔術師”って知ってる?」
「”088の魔術師”?」
その聞きなれない言葉にレイは首を傾げた。誰かのあだ名かもしれないということは安易に想像がつく。こうした名前が付くということはエースか。
「そう。ロシア海軍のエースパイロット。10年前の大戦から飛び続けているベテラン。一人で戦えば数的有利を覆し、チームで戦えばその指揮能力で敵機を網にかける。魔術師ってつけたのは同じ軍の人らしいけど、まさにそういう戦いらしいわよ」
「凄いパイロットなんですね…。今は何を?」
「今は国内の対バンディッツ部隊を率いている。前は大型の戦闘機に乗っていたけれど、その部隊になってからはSu-33に乗っているそうよ。機体番号はあだ名の通り088、それが特徴ね」
なるほど。とレイは頭の中でその番号をつけた機体と、やや老いたパイロットを想像した。これなら分かりやすい。
ですけど、とレイは返す。
「その彼が何かしたんですか?そうして話題になっているってことは」
「最近向こうの戦略か何かで、東欧地域を飛行しているのが目撃されている。噂だけど、私たちSFSDの一部隊に彼の隊が加わる、もしくは連携するっていう話もあるの。近々それ絡みで本部を訪れるらしい。そうした話があちこちでもちきりなのよ」
「そう言えばロシアは国連軍の参加に非協力的でしたね。その流れでピリピリしているとか」
ロシアは基本的に国連軍の国際的な治安維活動には難色を示していた。自国の影響範囲などで独自の活動を行っている。その方向性で国連と揉めることが絶えない。
「そうね。そこで、私たちにお声がかかったというわけ」
「出撃しろと?」
「哨戒飛行をしろとね。なんで私らがって思うけど、司令部が引き受けてしまった。それも名指しで。この間の作戦の事も絡んでいるかもしれないけれど、良い迷惑だわ」
「バンディッツでないなら通常部隊でも出来るのに…何かあるんですかね」
「どうでしょうね。場合によってはエスコート役もあるかもしれない。それだけは一応覚えておいて」
「了解。他には?」
「今のところは以上よ。そう言えばこのあとレイは予定とかはあるかしら」
予定と言われても特には無い。非番の時や休みの時にすることと言えば読書をするか、ストレッチをするか、プールで魚のようにゆったりと泳ぐくらいだ。
「特には」そのように答えた。
「良かった。だったら散歩でもしない?」
外は暑かった。季節は夏だ。空模様は快晴。こういう日に飛ぶ空は気持ち良いものだ。
雷のような轟音を立てて一機の戦闘機が頭上をフライパスしていく。すらりと伸びた機首と肉付きの良い胴体、クリップドデルタの主翼、ドッグトゥースのついた水平尾翼、水平尾翼の間に埋まるようにして配置された強力な双発のエンジン。F-15だ。アフターバーナーに点火して、空へ吸い込まれていく。
レイは炭酸水、エミリア大尉はジュースを持って、基地の外周を歩いていた。周辺にあるのは、木々と、手つかずの建物の瓦礫と、舗装がまだ十分に終わっていない道路。街はあるが車で10分少々かかるところにある。故にここには人気が無い。
「まだ、元通りになるには程遠いわね」
瓦礫を手にした大尉がどこか悲しげに言う。
「ええ」頷いた。
「レイは、どう思う?これを見て」
「寂しい。ですかね」
周辺を見渡しながら言う。ここに住んでいたほとんどの人はおそらく難民キャンプか別の国に疎開していることだろう。
「そうね。私も寂しい。同時に悔しくもある」
「悔しい?」
「ええ。家に帰してあげられないことが。この場所を、空を守る立場にいるのに」
「住民にとってしてみれば、未だに大戦の壊れた時から時計は止まっている…。僕らでも少しは動かせる立場かもしれないのに。気持ちは分かりますよ」
「ありがとう。思えば私は、そう思い続けて飛んできた。こんな時だからこそ私が飛ぶことで誰かを救えたらって、手伝うことができたらって。レイ、あなたはどうかしら?」
大尉が振り返って尋ねてくる。
「僕は…」
この部隊に移ってもう長いが改めて考えさせられる。最前線で飛ぶことは、つまりこういうことなのだ。ただ飛ぶことを感じるだけではいけない、意味を持たないといけない。
口を開こうとすると大尉が「待て」と目配せをしている。
「大尉?」
「なんか焼けそうだわ。一旦基地に戻りましょう、また部屋に行っても良い?」
「そうですね。構いませんよ」
誰かいたのか、さっさと行こうと手を引かれながら基地に帰った。
部屋には戻らず、なるべく人目を避けてハンガーに向かうとクーパー大尉が整備の手伝いをしていた。
低翼配置のファントムは立ったままで作業というよりは、腰を低くした姿勢で作業している。改修されている機体だがベースが古いだけに一層力が入るようだ。パネルのネジに至るまで、これはこれと書かれたコーションマークやマニュアルを片手にするその風景は、普段こうしてじっくりと見ることがないものでその凄みを実感する。クーパー大尉も作業着がオイルまみれで顔にもついていた。
「クーパー大尉、隊長」エミリア大尉が呼びかけた。
「どうした」工具を置いて、タオルでオイルを拭いながらやってきた。
「話があります。ちょっとこちらで良いですか」
ハンガーの隅でなるべく人から離れたところに移動する。
「で、何かあったのか」
「最近何か感じませんか」エミリア大尉が言う。
「何かって、何を?」やや困惑したように。
「視線です。誰かに見られているような、目を付けられているような感覚がするんです」
「先ほど僕と外で散歩していたのですが、大尉が何か感じたようです。僕にはあまり分からなかったですけど」
「ふむ。エミリア大尉、それはいつからだ?ついさっきからというわけではあるまい。具体的なことを聞きたい」
「それは、えっと…。レールガン破壊作戦が終わって、数週間経ったあとからそんな気配が。もうあれから一月は経ちますけど、最近は特に」
「だいたいで良いが、どんな奴から見られていると感じる?それはこの隊にいると思うか?」
「いえ…。この隊にはまだそれは感じません。ただ、この隊の区画から出たら少なからずそう感じてくるようになります。おそらくは部外かと」
「そのさっき外にいた時は?」
「尾行られていたと思います」
そうか。と深いため息をついた。どうしたものか、と顔をしている。
この基地は広く所属部隊も多い故、人がかなりいる。絞り込むことは今のところ出来ないか。ただのエミリア大尉の思い過ごしで済ませる話ではなさそうだった。無論レイはそんなことは思ってもいないし、寧ろ信じている。
「とりあえずこの話は俺たちだけにする。リューデル中尉には俺から言っておく。それで良いな?」
「了解です。司令には?」
「頃合いを見てだ。今はまだ言わない。以上だ」
エミリア大尉とレイは了解。と返事。クーパー大尉はさっと機体に戻って行った。
レイは自分のイーグルを眺めていた。まだ整備は行われていないようだ。すす汚れた機体、国連軍の識別マークや判別用の白い帯のマーキングも黒くなっている。イーグルも疲れただろうなと、そんなことを思ってみる。
キャノピーは開かれ、外付けのタラップが付けられている。タラップを登ってコックピットを覗き込む。いつもの座る場所。自分だけの空間、空を飛ぶときはこの空間は自分と一体だ。ふと、エミリア大尉の話に出たパイロットを思い出す。彼のようなエースにはどういう風に見えるのだろうか。ここの景色は。
突然、スクランブルのアラートが鳴り響いてきた。無意識にコックピットへ飛び乗る。エンジン作動の手順に――。だがパイロットスーツを着ていないことに気づく。整備兵が慌てて駆けつけてくる。飛べません!と大声で手を振りながら合図してくる。
コックピット越しに緊急発進していく戦闘機を見届けて、レイは機体を降りた。
スクランブル部隊がレーダーからロストしたとレイが知ったのは、次の日のことだった。
ドイツのベルリンから旧ポーランドのヴロツワフを軸に半径約400kmを国連軍の早期警戒ラインとして――それは主にバンディッツに対してのものだが――、今回の件はそこの範囲内に近いところだ。
良く晴れた空。雲はややあれど、どこまでも青が広がっている。
「ステラー4、ランウェイ18、クリアードフォー・テイクオフ。グッドラック」
「ラジャー、ステラー4ランウェイ18、クリアードフォー・テイクオフ」
早期警戒ラインを軸に、撃墜されたスクランブル機のフライトレコーダーを合わせて設定したコースをステラー隊が飛ぶ。今回は単独だった。レイのイーグルの装備は短距離ミサイルが4つのみ。増槽は胴体下部に、できるだけの身軽な格好だ。
コース消化5割といったところで、なんだかレイは落ち着かない気分になってきた。逢えるかもしれないと突然にそう思う。いる気がする、僕を待っているかのように。
そんな気分に応えるようにレーダーに一つの反応が現れた。
レーダーが捉えた反応は正面。イーグルのNCTRと呼ばれる識別装置がレーダーと連動して解析をする。これは目標のレーダー反射特性を利用して機種を判別するもので、これにはエンジン前面の寸法、ファンブレードの枚数などが関わる。
イーグルのライブラリが導き出した機種はSu-27。いや、他のバリエーションかもしれない。もしかしたら…。なぜこんなことを思うのだろう。逢えたとして何をするべきなのだろう?
レイは定回文を読むように警告を発する。だが言うことは聞くはずもなく、加速する。30秒ですれ違うだろう。IFFの表示はUNKNOWNのままだ。
「こちらステラー4、不明機が警告を無視して接近中。どうしますか」
「ステラー1より4、そのまま対応しろ。俺がコースでは一番お前に近い。これから向かう。3分だ」
「4了解」
レイもイーグルの速度を上げた。自分だけ低速では危うい。
警告音が鳴り響く。そんな音をかき消すようにすれ違った。一瞬の出来事でも長い。その優れた動体視力ではっきりと捉えた。機体の機首の番号が”088”と書かれているのを。
とても特徴的な色合いをしていた。黒がベースに濃紺のスプリッタ―迷彩、機首は赤だ。カナードがあり、これはSu-33だ。
来たか。レイは右旋回。だがあの機体がいない。レーダーを見た。後ろ?
警告音。攻撃照準レーダーに照射されている。速度をあげてダイブする。引き起こし、ややきつめのインメルマンターン。
再度警告音が鳴る。まだ背後にいるのか。ビリビリと後方からプレッシャーが伝わってくる。フライトグローブに滲む汗。まだ会敵して1分程度しか経っていない。
速度を落とすのは致命傷に繋がる。スロットルを絞りながら高いGをかけて旋回、三分の二で切り返してを繰り返す。時折半径の小さいループも交える。だが振り切れない。3つあるバックミラーにその特徴的な機首がずっと顔を覗かせている。なんだこいつは。
急減速を使ってオーバーシュートか急旋回は却って危険だと判断する。ここまでの相手に速度を落とすような真似をすれば上手く躱されて一瞬後には堕とされるだけだ。
太陽の位置を把握する。右斜めか。機首を上げて太陽にブレイクする。機体を斜めに捻ってローリング。天地逆になる視界であの機体が下方を通過していくのを確認する。素早く水平に戻し、加速してダイブ。
マスターアームオン。搭載武装の全安全装置解除。ミサイルを選択する。RDY。
らせん状に降下していくのを追いかける。ミサイルのロックにはやや近すぎるがこれで付いていくのに精一杯なところだ。気流でガタガタと揺れる機体を押し付ける。照準の電子音が自身を焦らす。
一つ一つの動きが目に見えて自分よりシャープだ。旋回にしても速く鋭い。時折レイはやや大回りしていく程だ。だが簡単に振り切られはしない。落ち着け、そう言い聞かせる。照準が合う、ロックオン。
スピードブレーキ拡張。レイではなく”088”の機体だ。同時にバレルロール。思わずレイは上に逃げた。続いて右旋回。だが遅かった。
殺気。キャノピーに映っているのは自分の顔じゃない…。真横…?
ブレイク。機体を180度回転、スプリットS。
バリバリバリと機関砲の音が聞こえる。曳光弾の軌跡がイーグルを掠めていく。機体を回転させながら旋回降下、時折シャンデルなども交える。けれど振り切れない。常に自分が動くその先に瞬間移動したかのように待ち構えていた。その度に機関砲が掠める。わざと当てていないかのようだ。常に当てられるような動きをさせられているかのような…。
「ステラー4、レイ無事か!」
クーパー大尉の無線が飛び込んできた。上がりきった息で返事をすることができない。
「右に避けろ、撃つぞ!」
上から機関砲が飛んでくるのが見えた。”088”の機体はブレイク、大きく回ってクーパー大尉のファントムを刺しに行くような形で突っ込んでいく。
大尉がバレルロール。”088”の突っ込みをかわす。かわすと見るやレイの方向に転換するのが見えた。ヘッドオン。
“088”の機体が近づく。まだ撃たないのか。まだか。
そのパイロットと目があった気がした。太陽の光がバイザーを舐めるように反射する。煌めく主翼。陽の光さえ吸い取ってしまいそうなその色合い。負けたと思った。
「危ない!」”088”を追いかけてきた大尉と寸でのところですれ違った。
操縦桿を握る手が震えている。機体が左右に揺れる。何も考えられなくなった。
「くそ…」小さく呟く。
レーダーを見た。大尉が本格的な追撃に入る前に加速して離脱するようだ。大尉も諦める。
今はただこの状況が過ぎたことに感謝するべきだと、そう自分に言い聞かせた。
この交戦は特別航空治安維持飛行隊の内部報告のみで、基地司令にはバンディッツと交戦し追い払ったという話をでっちあげて、後はストークマン中佐に任せて報告を終えた。
レイはあのパイロットからしばらく頭が離れなかった。あの時自分の部屋で話したパイロットが目の前に現れて、圧倒的な力を見せつけて僕を完璧に封じたのだ。どうしようもなかった。
「そう思い煩うことはないわ」とエミリア大尉は言ってくれる。
自分をエースパイロットなんて思っていないが、それなりに腕があると自信は持っていた。だけど現実は残酷で、そんな自信を打ち砕くには十分過ぎるほどのものだった。
母も名実ともにエースと称えられた存在だったのだが、自分がこれではもうどうやって保てば良いのだろう。母ですら霞んで見える。捕まえられない蜃気楼のように。
「レイ、あなたは彼に堕とされずに帰ってきた。今はそれが一番重要なの。そう思わない?」
「そんなこと言われなくたって理解してますよ大尉。でも」
「エースなんていうのはね、そんなに難しいものじゃないのよ」
エースのエを言った僕の言葉を遮って、大尉が隣に腰かけながら切り出した。
「例えばエースとそれ以外を分けるボーダーラインがあるとする。向こうに行けるものってなんだと思う?技量とか経験とかたくさんあると思うけど違う。それはね、自分がこう飛びたいって思う願いよ。意志と言った方が良いかしら」
「こう飛びたい...、意志?」レイは首をかしげる。
「そう。自分にとって意地でもそう飛んでみせるっていうもの。私もね、昔は向こう側にいた人間だった。周りからも認められてちやほやされて。けどそれは周りから見た視点でしかなくて、自分の中ではどう飛ぼうなんて考えはもう無かった。その後で撃墜されていく僚機を見てようやく気付いたのよ。どれだけ自分の考えで飛ぶことが難しいかってね。あの魔術師は恐らくそれを知っているんだと思う」
聞き入って頭が冷えてくる。
「知っているからこそ、それを貫き通せるだけの飛び方ができる。経験や腕で説明できるものじゃないの。基地の外でも聞いたと思うけどレイ、貴方はどういう風に飛びたい?実は私まだ探してる途中」
透き通る青い瞳のエミリア大尉がいたずらっぽく笑う。僕はつられてしまいそうだった。
「私は振り出しに近いけど、レイは違うわ。きっと思ってることがある筈。それをまだ言葉にできないだけで。だからこそ忘れないで。彼に負けたからと言って自分の飛び方を再定義なんてしたら今度こそ撃墜される。心を強く持ちなさい。ああいう存在は彼一人じゃない。それに」
大尉が肩を掴んだ。女性に見合わない力で。
「レイだって一人じゃないんだから。良い?」
「はっ、はい...!」変な声が出る。
「よろしい。だったら今日のことはこれ以上考えないこと。良いわね?」
「了解...。すみません、大尉に当たったりしてしまって」
「スッキリしたし、罰としてPXで売ってる高いブランドもののアイスを買うように。これは命令」
「そんな!」
僕の背中をバンっと叩く。素早く立ち上がって駆け足。
自分がこう飛びたい想いか。あの"魔術師"と会って話がしたい。そうすれば僕にも分かるものがあるのだろう。そうすれば、
「今度こそ"魔術師"を墜とせるかな」
冷え切って落ち着いた頭で、再びそんなことを思うのだった。