36話:ブレイキング・ブルーⅠ
男が一人立っている。
空を見上げている。
自分が撃墜されたこと、これから捕まることへの絶望から見上げているのではない。視線はもっと高いところにあるように思える。例えば、何故この空に雨が降り続けるのか。のような。パイロットが地に墜ちて生まれる様々な感情には無関心なのだろう。きっとこの男は、後ろから撃たれても、それでも見上げ続けるのか。
自分がじっと見つめているのを横で仲間が逸る。銃を構え、剣を構え、震える脚で。そんな彼らを片腕で制し、俺が行く、と言う。雲の色に似たフライトスーツに冷たい感触。ここの空そのものと言える自分が、よそ者に歩み寄る。ぬかるみの音ですら、彼は無反応に立ちすくむ。
男の横に立つ。話しかけた。『何が見える』と。
男は答えた。
怒号。悲鳴。アラート。速呼吸。
『ブレイク!敵機後方!ブレイクライト!』
上昇してループ。さなかに見える天地反転の空。首を捻って後方を見る。肉食獣のように張り付いた戦闘機。敵機から光点、発砲。背面に衝撃。ガタガタと揺れる機体。発火。
『被弾した!コントロール不能、脱出する!』
コックピット、足元にあるレバーを引き抜く。キャノピーが吹き飛んだ。間髪入れずにパイロットが空中に放り出される。爆発するホーネット。濃青の視界は突如として白に漂白され、足元に広がっていく。飲み込まれるのは必然だった。
『見ろ!あいつらは例のドラケンだぞ!くそ、後ろに着かれた!誰か!』
深緑色に黒いパターンが入った敵戦闘機。J35ドラケン。三角形状の鋭い見た目が、捕食者よろしく食い下がる。ダイブ、右旋回。ローリング、左旋回。上昇、繰り返す。アラートは無常にも振り切れていないことを伝えてくる。
『俺がやる!』
味方機の1機が背後を取って食いついた。ガンファイア。だがドラケンはそれをバレルロールでかわす。同時に機首上げをしてブレイク。形勢が逆転する。ドラケンが発砲。同じく、ガン。
『くそ!』
悲鳴とアラートが入り混じった叫びが響いた。捥がれる翼を抱いて墜ちる。残る1機は逃げたらしい。追うことはしなかった。
「それで、これは一体何の報告ですか」
一時停止。スクリーンに映された映像を見て、ステラー隊隊長、クーパー大尉が尋ねる。スクリーンの隣に高官が苦々しい顔をさらに渋くした表情で立つ。彼は映像に映っていた航空隊の作戦指揮官だった。
「”ドラケン”だ」
「そんなことは分かっています」
指揮官は頭を掻いた。
「なぜ行かせたのですか。我々でも撃墜せないくらいは知っているでしょう」
「私が変わろう。これは少し特殊だ。君はそのままにしてくれ」
「ストークマン中佐」
「ごきげんよう諸君。久しぶりだ」
特別航空治安維持飛行隊の司令、ブルーノ・ストークマン。敬礼。
「司令。来ていたのですか」
「これはステラー隊の、ひいては国連軍全体の問題かもしれないのだよ。クーパー大尉」
「と、言いますと?」
「順番に説明しよう」
スクリーンが切り替わる。映し出されるのは北海からノルウェー海。ブリテン島とスカンジナビア半島の間だ。分割画面になった。衛星の気象図。そして今回の作戦機が飛んだルート。
「これは作戦機が撃墜された当時の天候と空域だ。数十分前まではこの空域の天気は晴れ。飛来と同時に天気が崩れ始めた。そこに、あのドラケン達だ」
「”遺産”ですか」
「その通りだ、エミリア大尉。カテゴリーはクラス2。レイ中尉、分かるか」
「気象兵器。人が神様の一旦になろうとした杖だ」
「裏付けは取れているのですか」クーパー大尉が言う。
「彼らの努力もある」映し出されるのはゴツゴツした戦闘服を来た兵士の写真。
「SSGが既に地上へ乗り出している。陸軍がゴーサインを出してくれたおかげだ。彼らの地上からの気象観測が証拠だな。簡易型気象レーダーもある」
天候、雲の推移。雨量。ホーネットが撃墜された時、一時的に雨脚が極端に弱くなり雲が海上へ流れていくのを見たという。あの雲全体が動いたかのように。地上戦力型の特別航空治安維持飛行隊のSSGがそれを観測したのならば、彼らの嗅覚も信じなくてはならない。曰く、あの雲には『コア』があるらしい。
「気象兵器の運用には、上空で発生させる装置と、地上で管制制御を行う二段階のシステムで使われる。今回の雲の正体も恐らくこれだろう。自由自在に動けて、なおかつ彼らの領土のようにそこへ居続けられる理由に最も適当だと推測できる」
そこで。と中佐は画面を切り替える。国連軍のマークが浮かび上がった。
「諸君たちに作戦を伝える。作戦名は、『ブレイク・ブルー』」
「良いね。真っ白で灰色しかない連中にぴったりだろ。なぁレイ」
「ブレイク・ブルー・・・」
「目標は例の雲、”白空”の排除。及び気象兵器の完全破壊だ。SSGとの共同作戦になる。どちらかが成功しても意味がない。陸空それぞれで破壊して初めて成功する。敵機が現れたらこれを撃墜して構わない。バンディッツと同等のものとして認識する。久しぶりの大仕事だ。ステラー隊、期待している」
打ち合わせに2日を要した。
機体はハンガーの外、エプロン上で待機していて、整備兵が走り回り、あちこちを触っている。武装はもう装着済みで、機外の最終チェックに余念がない。
ステラー隊の4人は、お互いに目線を交わして各機体へと歩みを進めた。
青空。コックピットに収まる前に必ず見上げる。飛ぶ空を見失わないように。肩幅くらいの空間。イーグルが待っていた。
エンジン始動、右から。イーグルに目覚めろと言う。イーグルは甲高い排気音で応える。続いて左も同様に始動。完全に火が灯った。続いて各種システムチェック。状態に異常なし。操縦桿を動かしてイーグルの翼を確認。異常なし。機外整備兵が異常なしを手で伝えてくる。両手の親指を上げて車輪止め外せ。整備兵が蹴り外す。武装の安全ピンが引き抜かれた。出撃準備完了。4機全機が発進できる合図。整備兵が敬礼。右手を挙げて応える。
滑走路へ。クーパー大尉、エミリア大尉がテイクオフ。短距離滑走で力強くズーム上昇。
テイクオフをコール。トゥブレーキを離す。双発のイーグルが力強く大地を蹴った。
「ブレイク・ブルー作戦を開始する」
管制機のウェザーマスターより通信。現在高度4000フィート。地上から約1キロと少し。亜音速で巡航。この高度なのは作戦空域に突入するのに最適な高さ、雲の高さを比較してはじき出した結果だ。各々は重たい増槽を積んで、濃青の海を飛んでいる。
全員が空対空兵装。クーパー大尉は地上攻撃用のミサイルを1発だけ、胴体に抱いている。地上の彼らが仕損じた時、威力は十分だと見込まれる大型のもの。ファントムには不格好だが、大尉は進んで搭載を承諾した。
気象兵器は、大戦で使われた兵器だ。使い方は実にシンプルで使いたい特定の地域の気象現象をめちゃくちゃにしてやること。短時間で最悪レベルの豪雨を降らして河川を決壊させたり、濃雲を発生させて航空機の侵入を遅らせたり。副次的に発生した竜巻や雷雨が最早災害レベルで戦場以外にも被害を生み出していた。その昔人類が一丸となって異常気象の食い止めに使っていた研究の結晶とも言うべきだった。だがそれを手にした時には、地に居ながらにして空を意中にしようとした手元に移った。この”遺産”は、ゼウスの杖と呼ばれる。
「全機に告ぐ。上空のコアの候補地をHMDに表示させる。そこを目指して飛べ。なお単独戦闘は禁止。必ず2機で行動しろ」
「なんて数だ・・・」
「方位030から060。ステラー1より全機、ブレイク」
マップ上に映るブリップの数が尋常じゃない。これだけの候補地から杖を探し当てなければならない。それも視界ゼロで。目標方位に転進、尾翼のラダーを動かして方向転換、機体はほとんど水平。真っ直ぐ目標は見据える。
「ステラー隊。エンジン音が聞こえて来たぜ。こちらビショップ。これより作戦行動を開始する。地上で動きがあれば追って伝える。コールサインはロメオ0-1。ではまた後で」
空域に到達したことを警報が教えてくれた。陸地と小島、そして山。頭上に雲。目標地点が出て来た。ヘルメットのバイザーに投影される視覚情報をマップモードに。細かい文字だが地上部隊も映る。
「ステラー2よりステラー1、散会しますか」
「ノーだ。全機隊形をトレイル。速度はそのまま、レーダーを注視」
「了解」
横開きの隊形から縦一列に変わる。これが違う空ならば、綺麗な編隊飛行だろうに。
「ウェザーマスターよりステラー隊。最新の情報をアップロードする。方位060から120を、120から150に修正」
候補地が数個消えた。最初のポイントまで、30秒。雨量が濃い。機体に纏わりつく雨粒がまるで固形のように揺らめいてみえる。ノズルからは気流の動きがはっきりと見て取れた。煌めくノズルから円錐状に伸びるアフターバーナーの炎。その周りをぐるぐると風が流れ行く。
上昇。雲の中へダイブした。視界ゼロをイーグルが叫ぶ。HMDのビジョンを変え、味方機がハイライトされるモードへ。高度6000フィート。見えない空を突き抜ける。速度は落とさない。直線的に飛ぶ。短時間決着。それが課せられた最大の任務だ。
しかしながらこの任務は海に沈んだ針を探すように困難であることを理解するのに時間は要らなかった。作戦時間は無限じゃない。地上の彼らは施設に突入したらしい。報告の合間に乾くも湿った消音器の銃声が聞こえる。
「ロメオ0-1よりステラー隊」
「こちらステラー1」
「地上で動きがある。ハッチが開く音だ・・・エンジンが聞こえる。敵機が出てくるぞ!」
「なんだ、どこからだ!?」
「ウェザーマスターよりステラー隊、君たちの側だ!コンタクト、180!」
第3候補地。山々が切り立つエリアだ。奴らはそこに隠している。レイには分かった。濡れた翼を誰とも知らずに休める場所。止まり木はそこにある。
「こちらロメオ0-1、敵施設・・・突入・・・。飛び立つ・・・!」
「こちらステラー1聞こえないぞ、どうした!」
激しいジャミング波を感知。これはまるで、バンディッツだ。
敵機が、来る。
『なぜ来た』
ただ、雲の使い手の騎士達だけが鮮明な声で語りかける。雲の不明瞭な視界とは裏に、こいつらだけが酷くクリアに見える。
『なぜ来た』
レーダー照射警告。接近警報。敵機攻撃態勢。
『ならば、お前たちのやり方で証明しよう』
マスターアームオン。全搭載武装の安全解除。操縦桿を持つ手が震えるのが分かる。
上下左右の無い空で、イーグルを大きく羽ばたかす。それだけが、生き残るたった一つの方法。どんな空であろうと、こいつらより速く飛べなければ地上が待っている。
各機のステータス表示がENGAGEに変わった。交戦状態。
接近警報。レーダーでは目の前。力いっぱい機体を浮かせて横転させる。視界ゼロのヘッドオン。見ようとするな、見ろ。
レイのイーグルは上下反転。
その真下をドラケンが通過する。垂直尾翼が触れ合わん距離で。レイは真下を、かのドラケンは真上を。
1秒後、雲に翼が溶け込んだ。




