35話:ライク・ア・レイン
良い天気だ。
久々に屋上ラウンジに出て息を吸う。カラっと晴れた日差しが心地いい。レイ・ハンターは伸びをしてそれを味わった。
定期哨戒で飛んでいく戦闘機がちょっとあるだけで、今日は往来が少ない。空が騒がしくないのだ。時折吹く風がBGMとして最高か。
欧州の生む独特な気候のせいで曇りが多いドイツは、少しの晴れ間でも貴重だ。例えば久しぶりに晴れたから思い切って出かけよう、散歩しよう、となるくらいに。レイもそんな風土に馴染んでしまったので、無意識に同じ思考になる。じっとしているのが勿体ない、そんな気分。もちろん、だからこそ心に根ざす青空が、ここでは輝いて見えるのだ。
件の空域でバンディッツと交戦した事実を問題に上層部が頭の体操をしている間、僕らは真逆に『ちょっと休憩』なわけである。
必要ありません。私にそんなのは要りません。早く飛ばさせてください。
強い口調が駆け抜けてくる。どうやら揉めているらしい。というのも、最近新人が入った部隊があると言う。見覚えのある顔に、新人は女性。なるほど凄みがある。小柄なのが幸いしてハイGでも粘り強く耐えるのだとか。幾度とか飛んだことのある部隊なので、近いうちにまた会えるだろう。
リューデル中尉が珍しく外出しようと誘って来たので、僕らは繁華街に足を運ばせた。
基地から車で10分程度。瓦礫と赤茶けた大地から街が生えて来たかのように、風景が変わる。中世からずっと残ってきた街並み。三角形状の屋根を持ち、レンガで建ち、一軒一軒がカラフルに彩られる。空以外で何が好きかと問われれば、僕はこの街並みと答えるだろう。
路面電車を走る交差点を抜けて、いよいよ人混みも激しい。そろそろ日も落ちる頃だが、一層活気立つのだ。夜の市場、飲みの場、食事の場。現代に不釣り合いなアナログなネオンが、僕を惑わすのに十分な色で誘いに来る。
適当に歩いていると思ったら、相棒のギルベルト・リューデルの目当てに着いたらしい。気が付けば人は捌けて静かな通りに出てきていた。
「お前も来いよ。レイ」
「なんで僕が」
「別に減るもんじゃないだろ。”憩いの場”ってやつは、俺たちに必要なんだから」
「僕は別に必要じゃなくても良いんだけど・・・」
「つれないなあ。ならレイはどうするんだ。ここでいつ出てくるか分からない俺を待つ?」
「待つくらいだったらお前の部屋に石でも投げて遊ぶよ」
「全く面白くねえなあ。ま、後で会おう」
じゃあなと中へ消えていく。そういうのにあまり興味が無くても分かる。そこは娼館なわけである。
完全に何か食べるつもりで来たのが、思わぬ暇を食らってしまった。あいつめ。一人で行けばいいのに。
端末を起動して、付近のレストランでも探してみる。
「ハロー?」
ドイツ語の独特なイントネーション。ハを上げてロは下げるように発音する。英語と逆のハロー。
「もしもし?」
これは僕に言っているのだろうか。端末から顔を話して上げると、僕と背丈が同じくらいの女性が顔を覗き込んできた。大尉、と言いかける。それくらいには美人だろう。赤味がかった長髪に、黒のドレス。
こんなところを一人で何をしているのか、と続けて問われる。
「散歩」
レイはドイツ語で返した。が、何か気に障ったのか怪訝な顔をされる。
「変な訛りね。どこから来たの?観光客、ってわけじゃなさそうだけど」
「なら僕はストレンジャーってやつかな」
「・・・。シャイセエングリシュ」
困ったな。わざとらしく英語で返さなきゃ良かったと思う。
「あなた軍人さん?」
「いかにも」
「やっぱり。そういう英語には聞き覚えがあるの。でも嫌いじゃないわ。あなた喋れるみたいだから。どう、一杯」
「それは嬉しいお誘いだけど、僕はお腹が減っていてさ」
「じゃあいい店を案内してあげる。来て、ここには詳しいから」
さっき僕に向かってくそったれと言った人とは思えないが、ここは一つ乗ってやろう。珍しく気が向いてしまったレイだが、なぜそんな気分なのかは分からない。
「ここは?」
看板らしい看板もなく、『本日のメニュー』と書かれた黒板が置かれているだけだった。一見これだけでは見分けがつかない。素通りしてしまいそうだ。
「私のお気に入りなの。良いから入って」
木製のドアが、思ったよりも重く開いた。
中へ入るとカウンターが一つ。4、5人ほどしか座れなさそうな長さ。椅子もそれほどしかない。自分たち以外に店内にはおらず、年季の入ったしわの深い老人が一人、カウンターに立っていた。
「マスター。私のお客さん。いつものを出してあげて」
僕には挨拶など無しに裏手に回っていく。少しすると何かを焼く音、切る音、つまりは料理の香りが響いてきた。
「ごめんなさい。彼人見知りが凄いから」
「良いよ。まるで”マイスター”みたいだ」
「あら、マイスターを知っているの?」
「知っているよ。バウムクーヘンとかパンとか」
「それだけじゃないけど正解。職人だけれど、匠ってやつね。彼もそうなの」
「へえ。それは期待しようかな」
代表的なドイツ料理が出て来た。肉厚のソーセージに、岩塩が降られたプレッツェル。じゃがいもとマスタード。彼女が追加で黒ビールを二つ頼んだ。
「じゃあまずは、乾杯」
「プロ―スト」
冷たいビールを一口。若干甘くてフルーティ。続けてソーセージを口に。塩加減が最高で、ビールの甘みとよく合う。口の中でふんわり交わる感覚は久しぶりだ。一言美味い。そう言葉が出る。基地でこれほどのものが食べられるかと言えば、ノーだ。
僕が満足そうに食べているのが顔に出てしまっているのか、彼女もにやけている。
「そう言えば軍人さん。お名前は?あたしはマレーネ」
「どこかの歌手みたいだ。僕はレイ」
「よく言われるわ。宜しくレイ」
「うん、宜しく」
「ここに来てどのくらい?」
「2、3年かな」
「どうしてここに来たの?」
「どうしてそんなことを?」
レイは首を傾げた。特に理由がないからだ。
「どうしてって、気になるから。それが私の仕事だし」
「じゃあこれは仕事?」
「わかった。プライベートってとこにしておく。それで理由は」
「飛行機を飛ばしに来たんだ」
「飛行機?戦闘機とか?」
「そう。こう見えて僕はファイターだ」
「どうりで雰囲気が違うと思った。かわいいファイターさん」
マレーネが僕の身体をなぞる様に空中にラインを描く。
「空はどう、いつも飛んでいるのでしょう?」
「気持ちが良いよ。もしかしたら僕を見上げていることがあるかもしれないね」
サー、と音が外から聞こえて来た。雨か。降る予報は無かったが、全くアテにならない。
同時に雨が放つ独特の香りが漂って来た。土っぽく、湿っぽく、下から上に抜けていく香り。ペトリコール。
「ねえ、雨は好き?」香水のように身体に乗せて、彼女は切り出した。
レイは手を止めて、そうだなあと目を閉じた。
「僕は、そこまで好きじゃないかな」
「ふうん、残念」
「マレーネはどうして雨が好きなんだ?」
彼女もそうね、と目を閉じる。
「雨は良いわ。全てを洗い流してくれるから。重い煩いも、身体の穢れも、雨が降る時だけ綺麗さっぱり。まとわりつく匂いもかき消してくれる。自由なのよ。全てが流れ落ちて、私が私としていられるの」
空のグラスから滴り落ちる水滴が、彼女の”衣装”に落ちては広がる。
「こうやって、身体に滴る雨がね。実際に浴びたりもしたわ。あたしが空に何か願うとすれば、好きな時に好きなだけ雨を降らせることができることかしら。地べたに這いずるあたしらしい願いでしょう?飛べない分のわがままってわけ」
僕はあの空に一度関わった以上、逃げられないのかもしれない。そう思った。普段嫌と言うほどに接してきた雨やそれにまつわる現象が、今は日常生活でさえ追いかけてきている。
それで、レイは?と考え込む顔を覗き込んできた。
「翼が濡れるのが嫌だから」
「翼が?飛行機のってこと?」
少しおかしな目で返してくる。
「鳥が自分の羽毛が濡れるのを嫌がって飛ばないように、僕も同じ理由だ」
「自分は濡れないのに?」
「イーグルは僕の一部だ」
「”イーグル”っていうのね」
「そう。文字通り、鳥さ」
「なんだか、昔あなたみたいな人がいたのを思い出すわ。彼もパイロットだった。けどおかしな人で、あたしみたいに雨の中を飛ぶのが好きだって言うの。どうしてだと思う?」
「自分は海鳥だとか。彼らは濡れても平気だ。空というよりは水が近いだろうから」
「詳しいのね。確か、『俺はガネットなんだ』って言ってた。雨とか雲から見える景色は、普通の空を飛ぶより特別だそうよ」
レイは、その彼の飛び方が気になった。参考になるかもしれない。雨の、雲の飛び方が。濡れても飛べる翼が手に入るかもしれない。
食い入るように聞いてしまった。マレーネは少々驚いた様子だったが、同じ人種であることを思い出したのか、そっと笑ってみせた。
「飛ぶことには変わりはないけれど、同時に泳いでいる感覚を持つ。雲と雨の空を飛ぶときは、翼は広げないで畳んで飛ぶとか。羽ばたくよりは真っ直ぐ、突き抜ける。空が低いから速く飛べない奴はどうたら。そんなところかしら」
「翼は畳む、真っ直ぐ、突き抜ける。か」
「レイには出来そう?」
「分からない。僕は高空を飛ぶ為の人間だから、低い空がどんなものかはまだかな」
難しいのね。と彼女は一杯煽った。
「ところでそのパイロットは今どこにいるのだろう」
「さぁ・・・。どこか自分が飛べる空を探しに行くって。でもそれは何年も前よ。飛んでいるのかすら分からないわ」
「いや、良いんだ。どこかで会える気がする。今じゃなくても」
「それは敵として?味方として?」
「敵じゃないことを祈るよ」
切に思う。真面目な顔をして、そう返す。
食べる間だけかと思っていた距離は、物理的にも近くなっていた。知らない人とこれだけ話し込んだのだ。時計を見れば、ここに入ってから1時間以上経っている。雨はまだ止まない。ずっと一定リズムを奏で続けている。
それが子守唄にでもなったのか、レイは唐突に眠気を覚えた。眠い。横にならせて欲しい、そう言うと都合よく裏手にベッドがある。転がるように身体を任せた。
「ねえ、空を飛ぶのは好き?」
「勿論、好きだよ」
「なら、また来てくれる?」
「うん。行くよ」
「きっとよ。約束」
傍らに重量感を感じて、レイの瞼が落ちた。
風が吹いている。キャノピーを開けたまま飛んでいるように風が殴りかけてくる。冷たい。
「起きたか」
ベッドで寝ていると思ったのに、寝ているのは車の座席だ。
「ここは?」
「おいまだ寝ぼけてんのか。もう基地に着くぞ」
「そっか・・・。おはよう」
全くこいつはと呟かれる。空はどんより曇り空だが、気分は良かった。上空を速く流れていく雲たちは、また次の雨を運んで来る。灰色がかっているのは水分が多いからだ。
特別航空治安維持飛行隊の区画について一段落入れれば、エミリア大尉らがやってきた。
「レイから良くない匂いがする」
「なにもないですよ、やましいことなんて」
「さては女か、この」
痛い。寝ぼけた頭に響く。大尉は何故かこういうことに容赦がない。無さすぎる。
ほのかなジェットの香りを乗せて、雨がまた降り出してきた。




