081
「どうして……」
ベルーナの声が震える。恐怖と混乱で脚も戦慄いている。逃げ出すことさえ叶わない。
ケルベロスの瞳がベルーナを捉えた。グルルルと腹の底から音が漏れる。
それからは、ただ一瞬だった。
青銅のように響く獰猛な声を轟かせながら、ケルベロスの中央の頭がベルーナを頭から捕らえた。恐怖に染まった彼女が瞬時にその場から姿を消す。鋭く大きな牙からは鮮血が滴り、バキバキと嫌な音を周囲に響かせながら、ケルベロスはそれを飲み込んだ。
アリアだけではない。その場でそれを見ていたシュタルク、セフュ、ルカも言葉を失い、戦慄していた。鼓動が太鼓のように大きく、速く鳴る。
長い舌で自分の口元を舐めるケルベロスは、次にアリアを視界に収めた。彼女は歯を食い縛りながら、震える体で身構える。
しかし、ケルベロスは襲ってこなかった。役目を終えたかのように、きらきらと白い残滓となり、消えた。
魔法円の光は止み、辺りが静寂に包まれる。雨が次第に弱くなり、遂には止む。
体の力が一気に抜け、アリアはその場に跪いた。瞳には自然と涙が溜まる。
きっとあの術式は人体蘇生を果たす上で完璧だった。だからこそケルベロスが現れたのだ。
死者を蘇らせることはできない。それは自然の摂理。できるとすれば、それは神の所業。神のみに許されるその法を侵そうとした者は怒りを買い、罰が与えられたのだ。神と人間の絶対的差。確実に引かれる境界線。それをまざまざと見せつけられた。
アリアが呆然としている横をシュタルクが通り過ぎる。彼はリントが入れられたケースに駆け寄り、開閉ボタンを探す。下の方に備え付けられたボタンの一つに触れ、透明なケースがプシューという音を立てて開かれた。中から気を失ったリントが倒れてくる。
シュタルクは彼を受け止め、その場に静かに横にした。
先ほどまで苦しそうにしていたリントの表情が穏やかになっている。
シュタルクはリントの口元に耳を当てて呼吸を確かめた。大丈夫、まだ生きている。
「リント、おいリント、聞こえるか!?」
シュタルクがリントの体を揺らすが、彼が瞼を開ける様子はない。何度も何度もリントの名前を呼ぶが、彼にその声は届かない。
シュタルクは硬く握られた拳を濡れた芝に叩きつける。鈍い音が鳴った。
「街の様子を見に行った方がいい」
背後からやって来たセフュに、シュタルクは、そうだな、と苦々しく呟いた。
「ルカ、リントを頼むよ」
公園の入口付近で小さく蹲っていた彼女にセフュが叫ぶ。ルカは彼に焦点を合わせると僅かに頷いた。先ほどまで一切出ていなかった涙が、すーっと流れ始める。
シュタルクはルカの横に来ると、一度立ち止まった。そして低い声を振動させる。
「話はセフュから大体聞いてる。どうしようもない状況だったってな。――けど、お前は間違ってる。もっとおれたちを頼れば良かったんだ」
シュタルクはそれだけ言うと、振り返ることもなく公園を後にした。アリアとセフュもそれに続く。
リントが横たわるクリスタルリング自然公園。彼から遠く離れた場所で、ルカは自分の頬に手を当ててぽつりと呟いた。
「ボク、泣いてるんだ……」
彼女は今し方泣き止んだ空を眺めて嗚咽を漏らした。