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ベルーナは呆気にとられながら、目の前の結界がすうっと消えて無くなるのを眺めていた。
「な、なんだ、今のトリガーワード……。聞いたこともない」
「当たり前だよ」
アリアが得意げに言い放つ。
「あたしは〝演算魔法無効化〟の他に、この斧に四つの属性を付与してる。鍛冶職人に武器を作ってもらうときにお願いしたの。精霊に見立てて、トリガーワードを設けた。――アリスペルの開発者でも知らないでしょ? トリガーワードっていうのは、自分の演算した結果を正確に具現化するためのワード。だから、〝放出〟や〝守護〟みたいな型に嵌ったワードじゃなくても、術者が演算を崩さないようなワードであれば、有効なんだよ」
「…………!?」
「開発の際、最も術が上手く発動したワードがそういう直接的なものだったんでしょ。それを見た他の研究者たちも、そのワードが演算を崩さないものだと思い込み、固定化されたトリガーワードが出来上がった。少しは勉強になった?」
開発者であるベルーナが悔しそうに表情を歪める。
通常、武器には一つの属性しか織り込めないとされている。それは、複数の属性を付与したところで、それを術者が使いこなせないからだ。だが、アリアは各属性を確実にコントロールしている。それは、彼女がこの世の中で段違いに格上であるという証明だった。
ベルーナは焦燥を瞳に宿していたが、ふと何かに気づいたかのように余裕の笑みを取り繕った。
「確かにお前はアリスペルに関して私より上だ。それは認める。だが、もう手遅れだ!!」
彼女は手に握っていた遺伝情報の詰まった細長い小瓶の蓋を開けた。赤い液体がぬるりと揺れ動く。
「しまった!!」
苦々しい表情でアリアが全力疾走する。だが、それをあざ笑うかのようにベルーナは瓶の中の液体を魔法円の中心に向かって投げ入れた。どろっとした赤黒い染みが地面に出来上がる。
淡かった魔法円の色が徐々に濃くはっきりとし、今までより眩い光が辺りを包み込む。空気が一本の糸のように張りつめ、皮膚に刺さるように痛い。
魔法円に零れた血液はそれと融合し、地面に吸い込まれていった。人間の遺伝情報と膨大な魔力。それを代償とし、中心部から何かが隆起している。それは頭、体、脚と徐々にその姿を現す。
「これは……!?」
ベルーナの瞳孔はこれ以上ないほど拡張し、視線は魔法円の中心一点に釘づけ。呼吸すらままならない。彼女の顔は青ざめ、一歩二歩と後退する。
三つの犬頭、一つの体、蛇のような尾。鋭い牙の間から垂れる唾液、漏れる吐息。
「ケルベロス……!?」
意味が解らない。
初めて見る光景に、アリアもそれ以上言葉が出て来ないようであった。誰も想像していなかった来客に目を瞠る。
冥府の門番。どうしてそんなものがここにいるのか。あの魔法円は怪物を召喚するための術式ではなかったはずだ。