076
リントは低姿勢を保ち、左手を機体へ向ける。冷たい風雨に晒されながら、負けじと大声を張り上げる。
「神の名を借り、我ここに命ず。清き風の使いよ、汝の力を我に与えよ!」
リントがそう唱えると、全身がエメラルド色の光に包まれた。風の動きが手に取るように解る。辺りの風を掻き集めるような手振りで、それを一気に鋼鉄の鳥に放つ。すると、渦を巻く突風が機体の左翼を破壊し、それは煙を上げて急速に高度を下げて行く。
やった! と思った。その一瞬の隙が命取りだった。
死にぞこないの鳥が、まだ死んでいないレーザー発射装置でシルファ目がけて数発、角度をつけて撃ってきたのだ。
賢い撃ち方だった。正面、上方、下方、左、右。最後の足掻きだったのだろう。シルファを取り囲むように撃たれている。
リントの脳は完全に停止していた。こちらへ向かってくるオレンジ色の光が強く瞳に映る。
死ぬ!
近くを横切った灼熱の疾風、何かが失墜して爆破する音、焦げ臭さ。五感が、まだ生きている。
恐る恐るゆっくりと瞼を上げると、視界に映ったのは、遠くにいるはずの巨大ドラゴンだった。襲ってきた鋼鉄の鳥は島に墜落し、炎上している。
リントはドラゴンの紫の瞳をまじまじと見つめた。光など差していない今この瞬間ですら、その瞳は濡れたように輝いている。どこか懐かしく、少し愁いを帯びた瞳。似たような感覚を最近味わった気がするが、思い出せない。
「ありがとう」
リントはお礼を言って頭を下げると、巨大ドラゴンは島全体に轟くくらいの声で鳴いた。そしてすぐに、島から離れた戦場へ光の如く飛んで行った。
「リント――――っ!!」
母親の絶叫が聞こえ、すぐさまその方へ振り向いた。リントの瞳孔が拡張する。
ゲートが閉まりかけている――!?
完全に開いていたはずのゲートが徐々に内側に閉じていっていた。
「急げ――っ!!」
他の人たちも口々に叫ぶ。みんな声が枯れるまで必死にリントに訴えかけている。
「――――っ!!」
邪魔者がいなくなった今、シルファがゲートを包む強風に立ち向かうように、閃光の如きスピードで突き進む。
ゲートが閉まるまであと半分。中にいる人たちの顔が近くなる。あと八百メートル。
ゲートが閉まるまであと四分の一。中央にいる母親が顔をぐしゃぐしゃにして、喉が潰れそうなほど叫び、両手をリントの方へ伸ばしている。あと四百メートル。
「届けぇぇぇ――――――――――――――っ!!」
力一杯腕を伸ばし、手を伸ばす。母親の手を掴まんと掌を広げる。
「お母さん!!」
「リント!!」
届いた。
そう思った。
届くはずだった。伸ばした手は、母親の手を掴むはずだった。
しかし実際に手に触れたのは、閉じきった実体無き青のゲートだった。
「え……」
喉を震わせたのは、それだけだった。どうしようもない虚無感。六年間生きてきて、経験し得ない感覚。不思議となんの感情も湧いてこない。
ただ閉じて微動だにしないゲートの前で、それを見つめることしかできなかった。きっとそれがずっとそこに佇んでいたら、実感が湧いてきて、泣き叫び、ゲートを叩きまくっていたのかもしれない。
しかし、リントにそんな時間は与えられなかった。
ゲートは閉じてすぐ、眩い光を発した。空気が捻じ曲がるような、そんなうねりを残し、全てを無にするような力強さで光とともにリントを遠くへ弾き飛ばす。その際、バウンの体がリントから離れてしまった。直後バウンの吠える声が聞こえた気がしたが、愛犬がどうなったかは知る由もない。
レスカが入り込んだ巨大ドラゴンは、恨みと怒りを撒き散らすように大陸を炎で埋め尽くした。だが、いくらドラパートを唱えたレスカでも、どうしようもないくらいの数の敵に囲まれ、生きていられるはずもなかった。元々囮だったのだから、彼はその結末を覚悟していたのだ。
ドラゴンが断末魔の叫びを残しながら紫の瞳を閉じ、巨体が街に沈む。ドラパートは効力を失い、白い光の粒となったドラゴンは、そのまま昇天した。
その頃だった。敵を倒した歓喜に満ちた空間に、ゲートの光が届いたのは。
目も眩むほどの青い光は世界全体を包み――――、そして世界は改編された。
誰もシルドラ族を憶えていない。誰も戦争したことを憶えていない。生きとし生けるものは皆、世界の歩んできた真の道を知らない。
この世界は、シルドラ族が存在しなかった世界へと生まれ変わった。人間の記憶は辻褄の合うように書き換えられ、そして――
世界はその在り様を永遠に、変えた。
ゲートの力により彗星の如く弾き飛ばされたリントは、一つの小さな渓谷へ辿り着いた。シルファは一時的に力を失い、姿を小さく留め、そしてリントは今までの記憶を失っていた。