074
「お父さん早く出て行っちゃったんだね」
リントは母親と手を繋ぎながら、町への道を歩いていた。家に一人でリントを置いておくのは不安だからと、母親と一緒に織物を提供しに行くことになったのだ。
右側には樹木が立ち並び、左側には牧草地や農作物が広がる。空はダークグレーの雲が覆い、今にも雨が降り出しそうだ。今は不快音は止んでいるが、いつまた攻めてくるか分からない。
細かい砂利と土の混じった道を歩きながら、母親はリントに目を向ける。
「お父さん、この島を守るために一生懸命働いてるのよ。だから仕方ないわね」
苦笑する母親に納得せざるを得ないリント。そっか、と呟いて俯く。
暫く歩いていると、正面から一人の小太りのおばさんが姿を現した。深緑の三角巾をしているところを見ると、いつもパンを提供してくれているおばさんだ。息を切らせ、苦しそうな表情をして全力疾走している。
彼女はリントたちの前まで来ると、両手を膝に着き、腰を屈めた。だが呼吸が整う前に顔を上げ、二人に叫ぶ。
「南西部の広原に急いで! もうあんたたちが最後だよ!」
尋常でない様子に心がざわつく。
「え、一体どうしたんですか?」
そう問う母親の手首を無理やり掴み、おばさんはぐいっと引っ張って走り出した。
「説明は走りながらするさ! とにかく急いで!!」
訳も分からずリントも走らされる。まだ母親と繋いだままの右手が強く引っ張られ、肩の付け根が痛い。
「どうやら〝時空移動〟をするらしいんだ!」
「〝時空移動〟!?」
母親はその単語の意味を正確に理解しているようだった。彼女は目を見開いてそれだけ言うと、何やら黙考を始めた。
そんな母親の邪魔をしても悪いとは思ったが、単語の意味が解らなくては話についていけない。リントは遠慮がちに口を開く。
「ねえ、〝時空移動〟ってなんなの? それってそんなに大変なことなの?」
息子の声でハッと我に返ったようで、母親はリントを一瞥してから苦々しい表情を見せた。
「一言でいうと、この世界を捨てて、全く別の世界にみんなでお引っ越しするってことよ」
「そんなことできるの!?」
この世界を捨てるという意味はよく解らなかったが、それでもみんなでここから引っ越して助かるなら、そんなにいいことはないと思う。それなのに、どうして母親はそんなに辛そうな表情をしているのか。リントには理解できなかった。
「坊やの言う通り、みんな助かるんだよ!」
押し黙る母親を見かねてか、おばさんが代わりに答えてくれる。
「引っ越しって言ってもちょっとの間でしょ? またこの島に戻って来るよね?」
シルドラ族はずっと昔からこの島で生きてきた。世界を捨てると言っても、引っ越すだけならまた戻って来ることも可能なはずだ。リントはそう思った。だが、おばさんは首を縦に振らなかった。
「残念ながら坊や、もうこの島には戻って来られないんだ」
「え……」
思わず声が漏れた。
この島に戻って来られない? 二度と?
リントは母親が握る手を振り解き、彼女に背を向けた。そのまま元来た道を引き返す。
「リント!」
母親が必死に叫び息子を追いかけようとするが、おばさんの力は強かった。手首に爪の跡でもついているのではないかと思うほど、きつく握りしめていた。
「すぐ行くからお母さんは先に行ってて!」
息子はそれだけ叫び、小さな体で家への道を戻って行く。徐々に小さくなり、やがて見えなくなった。
「どうして止めるんですか!?」
母親は涙の溜まった瞳でおばさんを睨みつけ、責め立てる。だがおばさんは、手首を握る手を緩めなかった。
「あんたが行ったところで余計遅くなるだけだ。あたしたちは坊やがすぐに戻って来ることを信じて広原で待つ。心配なのは解るが、遅くなればなるほどみんなにも迷惑がかかる。それくらいのこと、あんただって解ってんだろう? 息子が振り解けるような力でしか繋ぎ留めていなかったあんたの落ち度だ」
「………………」
母親はそれ以上何も言えず、ただ歯を食い縛って、おばさんと一緒に南西部の広原へと向かった。