053
こいつはなんでこうも首を突っ込んでくるんだ、とレノは後頭部の髪を乱暴に掻いた。
クローン研究をしていることを知っていて、それに関係していると解っていながら敢えて質問を重ねる。
本当は彼女の言うことなど無視して部屋を出ることもできた。だが、なぜかそうすることが憚られた。自分でも理由が分からない。口の中に広がる飴の甘さがレノの口を軽くさせたのかもしれない。
「――この世に一人だけクローンが……」
ルカが驚きをその瞳に映す。それもそのはず。数年前に出来上がったクローンはとっくに死んだことになっているのだから。
レノは溜息交じりに彼女から視線を逸らし、飴が口から落ちないように気をつけながら話し始める。
「そいつはずっと研究所で育って、一切外の世界には出されなかった。偶然クローン技術の資料を見つけて、自力で研究所を抜け出すまではな」
眉間に皺を寄せるルカの表情は硬い。
「そいつは知ってしまったんだ。自分がある人間のクローンであるということを。そして街へ飛び出し、自分のオリジナルを探し始めた。勿論、当時の研究室メンバーも血眼になって探したらしい。けど、研究官たちが奴を見つけるよりも早く、コピーはオリジナルを見つけてしまった。それが悲劇の始まりだ」
そう、悲劇というものは、起こるべくして起こるのだ。
「自分と同じ遺伝子を持つ人間が、自分と全く別の人生を送ってる。片や研究所に閉じ込められた生活、片や家族と共に楽しそうに笑う生活。それを見てきっとコピーは思ったんだろうな。オリジナルの場所を奪いたい、と。そしてクローンはオリジナルを殺害、オリジナルにすり替わった」
「…………」
コピーはオリジナルの死体を遺棄し、数日間はオリジナルとしての生活を満喫。それから研究官たちに見つかり、殺人容疑で逮捕。ただし、殺害された人物や殺害動機についての真実を隠蔽するため、殺害動機は金銭トラブルの末の正当防衛ということにして、殺害された人物は海へ投げ捨てられたことにしたようだ。実際は、研究官たちがオリジナルの遺体を研究所で処分したらしい。
いくらクローンといえども、一人の人間としての意思がある。遺伝子上はオリジナルのコピーでしかなくても、自分の脳で考え行動する、立派な個体。オリジナルに取って代わりたいと思い行動したのが、その証明だ。
以前クローンを実験に使用すればいいという話も持ち上がっていたが、仮に培養器でクローンを成人まで一気に成長させられるくらい技術が進歩し、寿命も変わらない完璧なクローンを作ることに成功したとしても、意思がある以上、普通の人間を使用することとなんら変わらない。
「ちょっと待って」
ルカが何か考えに至ったのか、腕を組みながら口にする。
「今の技術ではクローンを急激に成長させることはできない。つまり、クローンは成長までに時間がかかる。だったらオリジナルとの年齢差を誤魔化せない」
レノはそのルカの質問を見越していたように、ああ、と頷いた。
「もうすぐ年齢まで操作できそうな技術が開発されそうだけど、そうだな、今はまだ年齢差は誤魔化せない。けど当時オリジナルは十五歳、クローンは十四歳。それくらいなら、見た目に大きな差はないだろ? 研究室のメンバーがフロンテリア北病院の院長と知り合いだったらしくてな。検診に来ていた子供の皮膚細胞を母親の許可もなく採取し、幾つか研究所に提供したらしい。皮膚細胞から胚性幹細胞を作り出すことに成功した研究官たちは、オリジナルと全く同じ遺伝情報を持つ胚性幹細胞を、核を除去した未受精卵に注入し、それを特殊な培養機器の中で育てた。そして生まれたのが、結果的にオリジナルを殺害したクローン、アドラ=ドラスキーという男だ」
ルカの瞳孔が大きく拡張したのが分かった。彼女はアドラについて何か知っているのかもしれない。だが、レノは特に詮索しなかった。
「これで分かったろ? どうしてオレが囚人の皮膚細胞を手にしているか」
「オリジナルの殺害を防止するため」
レノは首肯した。舐めていた飴はどんどん小さくなり、そろそろなくなる。
「オリジナルが既に死んでいれば、取って代わろうなんて発想はなくなる。だから既に実験の末に死んでいる人間の細胞を使おうとしてるってわけ」
「犯罪者のクローンが出来上がるのは危険じゃないの?」
「危険じゃないとは言い切れないな。けど、人間の性格は後天的な影響を強く受ける。だから育て方次第で犯罪に手を染めないように制御することは可能。――これで満足?」
じゃあな、と言ってレノが部屋を出ようとしたところで、もう一つだけ、とルカが白衣を掴んだ。レノは面倒臭そうに振り返る。
「まだ何か?」
「第一研究所から脱走した囚人。なんでまだ犯罪者収容所にいるの?」
ルカはどこまで知っているんだとレノは怪訝な表情を向ける。脱走した囚人の名前がアドラだと知っている者は極少ない。ルカの口ぶりから、彼女はその事実を知っているのではないかと思わせる。
「さあな。奴がどうなるかなんて、そんなのオレが決めることじゃねぇし」
アドラは唯一のクローンだ。そう簡単に殺されないとは思う。大方、研究所に戻してもらって、どこかの部屋にでも閉じ込めるのだろう。
そう……、と俯き呟くルカを見て、レノは眉を顰める。
「随分と御執心だな。奴に何かあんのか?」
すると彼女はレノから視線を逸らした。
「別に。ただ気になっただけ」
やっと解放されたと思って、やや疲れた様子でレノはドアノブに手をかけた。その時、ふとあることを思い出した。
レノは、今度は自分の意思で身を翻し、ルカを見据える。
「そーいえば、お前はなんのためにここに来たんだよ」
自分のこの一言で彼女の瞳から色が消えた気がした。何かとてつもなく重いものを抱えているような、壊れかけの人形のような、そんな表情をしていた。
レノは無意識に一歩後退り、口からは飴のなくなった白い棒が零れ落ちた。