052
エルクリフは犯罪者収容所から出ると、真っ直ぐに中央区へ向かった。今日は午後からある約束があるのだ。だがその約束の前に行くところがある。
彼が地下鉄を乗り継いでやって来たのは、法務棟。入口の両端には、天秤を携えた白い女神の像が拵えてある。
エルクリフは十段ほどしかない幅広の階段を上り、法務棟の中へ入った。法務官証を提示し、エレベーターで五階まで上がる。
スーツを着こなしたエルクリフは、〝法務官長室〟と書かれたプレートが設置された部屋の前に来ると、腕時計で時間を確認してから、扉を三回ノックした。中から返事が聞こえたのを確認して中に入る。
部屋は横長で、左奥に広々としたデスクがある。その前に悠然と佇む一人の女性。今日は彼女に会うためにここに来た。
三十半ばくらいだろうが、年齢を感じさせない若さと気品を備えている。よく手入れされたショートヘアは、仕事が出来る印象を与える。
「それでエルクリフ、話とはなんですか?」
言われてエルクリフは彼女の前に進んだ。
「イリー官長、例の件でご報告がございます」
例の件とは、勿論〝神隠し事件〟のことだ。ロバートと名乗る怪しい研究官に会った日、エルクリフはそのことを報告しにここを訪れた。フロンテリアの功績であると同時に闇に葬り去りたい過去を持つ第一研究所を切り捨てる方法も添えて。
エルクリフは法務省の人間である。犯罪者収容所は法務省の管轄で、エルクリフは囚人移送の秘密を知る人物として犯罪者収容所に派遣された。守衛官の制服を身に纏っているものの、あくまで監督の役割しか与えられていない。
正直、囚人が実験材料にされようがどうされようが、エルクリフにはさしたる興味はなかった。しかし、アドラ=ドラスキーが脱走したことにより、人体実験をしている研究室を切り捨てた方が良いという話が上席者の間で浮上した。その話がエルクリフに下りて来て、対応策を考えるように、とのお達しが下ったというわけだ。
エルクリフはどうにかしてクラジーバ研究室を切り捨てる方法を考えていた。そしてたまたま当番でやって来たロバートと名乗る若い研究官に、自分はやりたくて囚人移送をしているわけではない、という話をしたのだ。今後、クラジーバ研究室のことが露呈したときに、少しでも自分の立場が有利になるように。結果、随分と大物が釣れたとエルクリフは思っている。
ロバートという男が第一研究所にいるのは確かだった。しかし、研究官データと照合すると顔が違う全くの別人だったのだ。なんのために彼が身分を偽ってまで犯罪者収容所にやって来たのかは知らないが、こちらにとっては好都合だ。この機会を利用しない手はない。
ただ、引っかかるのはロバートが実際に第一研究所の人間と仕事の話をしていたことだ。研究所へ行くことになったのは、彼にとって完全に予想外のことだっただろう。だから、怪しまれないように仲間を研究所へ配置するといった手の込んだ真似はできなかったはずなのだ。彼は一体何者なのか。
「監察は〝神速の魔女〟を〝神隠し事件〟の首謀者の疑いで逮捕しました。ですがおそらく、監察は〝神速の魔女〟が犯人だと思っていません。その証拠に、本日これからアリア監察官長からのお呼び出しで、監察へ顔を出してきます」
今回アリアから、第一研究所と犯罪者収容所が繋がっている件について話を聞かせてほしい、と言われたのもロバートからの紹介ということだった。彼という人物が計り知れない。監察官長とも知り合いとなると、監察のスパイであるという線が有力であるとエルクリフは思っている。
「〝神速の魔女〟が犯人だと思っていないのに、敢えて逮捕した。そのことに必ず意味があります。監察は第一研究所と犯罪者収容所が繋がっていることを掴んでいます。人体実験のことも既に知っていると思われます。だとすると、監察はどのような手を使ってでも、その証拠を掴みたいはずです。おそらく今日アリア官長とお会いしたら、こうお願いされるでしょう。『次に犯罪者収容所から第一研究所へ囚人を移送するときを教えてくれないか』と」
イリーの眉が吊り上がる。口元を歪め、一言でエルクリフを促す。
「それで?」
「そこで監察に囚人を運ぶタイミングを教えて、第一研究所に立ち入り捜査させます。ただしその前に、イリー官長から研究官長にこの計画についてお話しいただき、研究省と法務省の連名で監察に調査依頼をしていただくのです。第一研究所が人体実験を行っているのではないかという情報が入って来たと言って。それにより、研究省も法務省も悪行を暴く意思があると世間に明示できます。あくまで法務省は第一研究所がそのようなことを行っていることは知らなかったと白を切り通すのです。監察が捜査を開始する前にそう明言していれば、法務省に火の粉が飛んでくることもないでしょうし、人材調達を行っているクラジーバたちが何を言っても監察を欺くことは容易いでしょう」
「なるほど……。そうして人体実験を行っていたクラジーバ研究室や他の研究室の者たちを切り捨てるのですね。法務省の知らぬところで行われていた悪行……」
イリーの口元が僅かに上昇する。
「解りました。ですが、犯罪者収容所と第一研究所を繋ぐ通路はどう説明するのです?」
今度はエルクリフが笑みを浮かべる番だった。彼に抜かりはない。
「確かに監察はあの通路のことを調べ上げ、誰が設置依頼をしたのかを、証拠である請求書から導き出そうとするでしょう。ですが、既に改ざんしてありますし、第一研究所自体の改修工事のときに作った通路ですから、その時を狙ってクラジーバ研究室が秘密裏に業者に依頼したものだと見せかければいいのです。改ざんした請求書はクラジーバ研究室に隠します。研究省にお話しすれば、彼らがいない間に改ざんした請求書を隠すことなど造作もなく行ってくれるでしょう。業者が持っている請求書の控えですが、ちょっと伝手があって、そちらも改ざんしたものと永久的にすり替えていただくよう既に依頼済みです。――囚人の移送を行っていた私は、クラジーバに脅されて仕方なかったと証言します。実際に実験を行っていたわけでもなく、脅されていたのだとすれば、軽い罪で済むでしょう。服役もしなくて済むと思います」
多少の罪は致し方ない。それよりもフロンテリア政府に泥を塗らないことの方が重要だ。
イリーは満足げに何度も頷き、微笑んだ。
「エルクリフ、あなたの言う通りにしましょう」
そこで一度切ってから、彼女は世間話をするように何気なくエルクリフに一つ訊ねた。
「そういえば、まだ犯罪者収容所に捕らえられているアドラ=ドラスキーという男はどうなっているのですか?」
脱走した後、第一研究所へ再送しようと思っていた囚人。だが第一研究所の要求により、彼はまだ犯罪者収容所にいる。家族には病死と知らせているため、外に出すわけにはいかない。再送拒否の理由は詳しく聞けなかったが、このまま犯罪者収容所に留めておくわけにもいかない。そろそろ彼の処分を決める頃だ。
「第一研究所側に問い合わせてみますので、お電話をお貸し願えますか?」
エルクリフは了承を得てから第一研究所へ連絡。明日、彼を移送することになった。
法務棟を後にし、監察へ向かう。その顔には僅かに笑みが浮かんでいた。
アドラ=ドラスキーという男の正体、同時に暴いてみせますよ。