045
夜十時半。白く光る雲が僅かに欠けた月にかかる。
少ない星が散らばった夜空の下、ジャンヌは家を出て地下鉄に乗った。西区から南区へ向かう電車は混んでいたが、ジャンヌの乗る西区方面行はそうでもない。空席は幾つかあった。だが、ジャンヌは扉の横に立ったまま、車内の窓に反射する自分の顔をぼんやり見つめた。自然と吐息が漏れる。
十分程電車に揺られ、ジャンヌはESOの最寄駅で下車。地下から地上に出て、オレンジ色の街灯に照らされた道を西に歩く。この時間になると人通りは少なく、明かりのついたオフィスも数少ない。フロンテリアで遅くまで働いているといえば、研究所や監察などの政府管轄機関くらいだ。
あと二分程でESOに着くというときになって、二十歳くらいの男が四、五人、路地から姿を現した。彼らは嫌な笑みを浮かべながら、ジャンヌの道を遮るように屹立する。ジャンヌは男たちを睨みつけた。バッグの肩掛けを握る手に自然と力が入る。
「そこ、退いてくれるかしら」
すると、男たちは可笑しそうに互いに顔を見合わせた。
「いや、退かねぇな」
ジャンヌが眉根を寄せる。
「ここは公共の道路よ。あなたたちがわたしの行く手を阻むことはできないわ」
「おお、ご立派ご立派。ここはみんなの道路だもんなあ」
男たちは気持ち悪い笑みを浮かべていたが、中央に立つ一人の男からふっとその表情が消え去った。
「でもなあ、そんなこと関係なしに俺らがあんたを襲う理由があるんだよ。分かんじゃねぇの? 〝神速の魔女〟さんよお」
「――――――っ!?」
一瞬にしてジャンヌの表情に狼狽、焦り、困惑が滲む。
なんでそのことを……!?
夜にしか姿を現していないし、仕事をするときはポニーテイルにしているし、この男たちは知り合いでもない。どこからか情報が漏れてしまったのか。
ジャンヌは奥歯を強く噛んで、ピンクゴールドの指輪が嵌った右手を前に差し出す。
この状況がどうやって出来上がったのかは分からないが、こうなっては仕方がない。アリスペルでこいつらから逃れるしかない。
「エミッ――」
「こんなところにいたのか! 随分探したぞ」
トリガーワードをジャンヌが唱え終わるその直前、金髪の男がいきなり大声でジャンヌたちの間に割って入って来た。男たちは眉を顰め、ジャンヌは瞠目する。
「キルス?」
現状を理解できないまま小声でそう漏らすと、キルスはジャンヌの右手首を掴んで引っ張った。
「奴らの思うツボだ」
呟かれた言葉の意味が解らないまま、彼女はキルスに付いて行く。しかし、男たちがそんなことを許すわけがない。
「おい! テメェ、ふざけんなよ!!」
勿論男たちは追ってくる。しかもその指にはアリスペルの指輪。
「放出!」
男の指輪が刹那赤い光を帯び、彼の右手前には指輪と同じ色に光る半径十センチほどの魔法円が瞬時に視覚化された。その魔法円からは真っ赤な炎が飛び出す。
「守護!」
走りながらもキルスは度々後ろを見ては、身を守る。
おそらくはキルスも気づいているはずだ。彼らは強くない。炎を放出するアリスペルは、初歩中の初歩。高度になるにつれて、水、風、雷、氷と威力が増す。それぞれの属性でも業火や吹雪など、更にレベルは分かれるが。
男たちは意外としつこい。執拗に二人を追い回す。
「こっちだ!」
キルスがジャンヌの手を引いてビルの間の細い道に入り込む。その勢いのままジャンヌを引き寄せ、左手で抱きかかえるような体勢のままトリガーワードを唱える。
「反射!」
ジャンヌは駆けって上がった呼吸を静かに整えるように、大きくゆっくり息をする。だが、こんな体勢では落ち着かない。脈の速いキルスの心音が耳に響く。僅かに顔を上げると、真剣に通りの方を眺めるキルスの顔が目に入った。
複数の足音が徐々に大きくなる。すぐ近くにいるのは間違いない。
「くそっ! どこ行きやがった!?」
男たちも息を切らしながら左右を見回す。ジャンヌたちのいる路地も覗くが、二人に気づく様子はない。焦燥と苦しさの混じる表情を見せて、すぐに彼らは通りの向こうへ走って行ってしまった。