033
夜の九時を回った頃、ルカはトイレに行くため研究室を出て、隣の研究室から漏れ聞こえる声に立ち止まった。クラジーバ研究室の扉が僅かに開いていたのだ。ルカはそこからそっと中を覗き込む。
「監察の奴ら、第一研究所のこと何か掴んでるかもしれません」
研究官の一人がクラジーバに何やら報告している。整った顔立ちをして、清楚な印象を与える少年。中には、彼とクラジーバと、ルカの同期であるビビがいた。
「パース、それは一体どういうことだ?」
パースと呼ばれたルカと同い年くらいの少年は、落ち着いた様子でクラジーバの質問に答える。
「実は今日、変な男に『聴取内容を教えてくれ』と言われまして。A級監察官だと名乗るわりにA級に与えられている権限なんかも知らないんです。でもその理由が、『政府から特別に派遣された要員だから』だそうで。怪しいと思いませんか?」
クラジーバは顎に手を当て、難しい顔つきで唸っている。
「あれ? 今日研究所に来る日だったっけ?」
クラジーバが眉間に皺を寄せる横で、ビビが大きな瞳をパースに向ける。高い位置でツインテールに括られた髪、そして釣り目。彼女を動物に例えるならネコ以外に選択肢はない。
そんなビビの問いにパースが溜息交じりに返答する。
「俺がいちゃマズいみたいな言い方ですね」
「だってパース、研究官じゃないでしょ?」
「確かにビビさんみたいな高研院卒のエリートじゃありませんけど、クラジーバさんの目に留まった優秀な弟子ですよ、俺は」
勝ち誇ったように言うパースに、ムッとした表情で歯噛みしながら顔を背けるビビ。
「確かに怪しいな……」
二人の声を気にせず、ずっと考え込んでいたらしい。クラジーバは腕組みしたままの格好を保ちながら、ぼそりと口を動かす。
「政府からの要請となると、勿論第一研究所の秘密を知っていると考えられる。もしその怪しげな男が本当のことを言っているとすると、政府の目的はなんだ? 今更ながら第一研究所の罪を世間に公表し、それは第一研究所の独断で行われた許されざる行為として処理され、政府は第一研究所を切り捨てるということか? 恐ろしいが、有り得ない話ではないな……」
「フロンテリア政府が裏切るということですか!? そうなると、今でもまだ実験をしている我がクラジーバ研究室が血祭りにあげられる可能性が高い……。どうするんですか!?」
パースが唾を飛ばさん勢いで声を荒げる。
「どうするか……」
クラジーバは溜息交じりにそれだけ呟くと、突如何か閃いたように僅かに顔を上げた。次いでニッと意地悪い笑みを浮かべる。
「政府が第一研究所を裏切る気なら、その前に他の者にその罪を擦り付ければいい」
その台詞にパースは息を呑み、ぽつりと言葉を漏らす。
「まさか……」
「そのまさかだよ、パース。――ちょうど使えそうな奴がいるではないか」
えげつない、鳥肌が立つような笑みを浮かべるクラジーバを尻目に、ルカは彼の研究室から離れ、当初の目的通りトイレへ向かった。
ルカは釈然としない様子で思考を巡らせる。
もし彼らの考えが正しいとすると、政府が第一研究所を見捨てるということになる。別にそれは有り得ないことではない。やっかいな秘密を抱えた機関は早めに切り離しておきたいというのは当然のことだ。
でも、なんで今更?
アリスペル開発後からその話題自体が薄れてきている〝神隠し事件〟は政府が上手く操作したことでお蔵入りしている。それなのに、敢えてまた今その話題を盛り返す必要がどこにあるのか。
それにこのことを口外すれば、いくら第一研究所が独断で動いたことだと言い張っても、政府の施設である以上、袋叩きにされるのは免れないだろう。
政府は自分たちに得にならないことをするわけがない。だが、多少の犠牲を払っても第一研究所を切り捨てた方が良いと政府が判断する材料が一つだけあった。
アドラ=ドラスキー。
第一研究所から逃げ出した囚人は彼が初めてである。実際はルカが逃がしたのだが、それを知っている者はいない。アドラが自身の力で脱走したと思っている政府は、人体実験の材料が何かの拍子で外部に逃げ出し、世間にそのような極悪非道で残虐な行為をしていたとバレることを恐れているはず。それを考慮すれば、今このタイミングで第一研究所を処分しようと内々で動いているという話を必ずしも否定することはできない。
ルカはポケットからハンカチを取り出し、洗った手を拭いた。鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れているように見えた。