002
若草色が敷き詰められた草原を微風が駆け抜ける。サラサラと草の鳴らす音が心地良い。
「――いっ!」
臀部を羊に突撃されて、思わず声が漏れた。すぐに振り向き、当の羊をキッと睨みつけながら攻撃された部分を手で撫でる。
どうにも羊たちの扱いは苦手だが、不思議と嫌いにはなれなかった。
もう羊飼いの役を賜ってから随分経つのに、未だに慣れない。メエエェェと全く可愛げのないドスのきいた声を発するし、言うことは全然きかない。溜息をつきながら、ウールの中心で肩を落とす。
折角相棒であるシープドッグのバウンもいるのに、どうにもこいつは頭が悪くて困る。一生懸命なのは嬉しいが、全く仕事ができない。リントは自分が命名したからか、と首を捻る。
「おーい! リントぉ!」
呼ばれて、声の方に振り向いた。渓谷の村バレッジの方から走ってやって来たのは、村長の世話役の男性だ。
彼は羊を掻き分けながらリントの前まで辿り着くと、荒い呼吸を整えるように腰を曲げた。リントは彼の様子に首を傾げる。
「どうしたの?」
「村長様がお呼びだ!」
ただならぬ様子にリントは眉根を寄せる。だが、そんなリントに相反して、顔を上げた世話役の顔はニヤリと笑っていた。
「お前行きたいんじゃないか? フロンテリアに!」
リントの瞳が大きく見開かれる。自然と心が高揚し、顔が弛緩した。
フロンテリアはラスター領の首都である。同じラスター領でも田舎村のここ、バレッジとは全くの別世界。大が付くほどの都会で、様々な人間がいると聞く。リントは行ったことなどなかったが、噂話くらいは耳にしたことがあった。
フロンテリアには、みんながいる。
リントは嬉しさを堪えきれず、浮足立った。
バレッジを出て目指す場所といえば、同じ領内の首都であるフロンテリアが主流である。実際、この渓谷から旅立った仲間たちはみんな、まず初めにフロンテリアに向かったはずである。
リントは目を輝かせ、体を小躍りさせながら羊たちを押し退けた。リントの肩で羽を休めていた小さな白銀のドラゴン、シルファは、突然走り出したリントから振り落とされまいと服に爪を引っかける。
「じゃあ後は任せたから!」
その言葉だけを残し、一目散に村へ駆けていく。
「あ、おい! 必ずしもお前が行けるってわけじゃないからなー……って、もう聞こえないか」
世話役はふーっと息を吐いて、徐々に小さくなる背中を眺めながら微笑を溢した。
リントは六歳の時にバレッジに来て、それから八年が経過した。
彼はそれ以前の記憶を持っていない。どこかから彗星の如く青白い光に包まれ、バレッジの中心、水辺の砂利の上に到達したらしいのだ。
バレッジはラスター領最西の渓谷村である。川の両サイドの崖に洞窟のように家が彫られ、そこで約七十人が暮らしている。中段には向こう側へ渡るための橋も架けられている。
川辺に倒れたリントを発見したのは、彼と同い年の少年少女四人だった。青い閃光を見て、すぐさま光の到達点へ疾駆したらしい。
その少年少女がリントの大切な友達であり、仲間である。周りに誰も知っている人がいない、自分の出生すら分からない。そんな、孤独の中にいたリントを救ってくれた四人なのだ。
彼らは村のこと、そしてこの〝世界〟のことについてリントに教えてくれた。美しい白銀の髪、蒼海の如き双眸、怜悧な顔立ち、線の細い体躯。幼い子供だった彼らですら、外見からリントが普通の人間ではないことを悟ったのかもしれない。それに、リントは彼らが見たこともない白銀の生物まで連れていたのだから尚更だろう。
毎日、村の人に悪戯をしたり、村の外の草原を駆け回ったり、水流の洞窟の奥にある入江で海賊ごっこをしたり――笑いは絶えず、本当に楽しい日々だった。
だが、それも十一歳になるまでだった。
バレッジでは年が十一に達すると、村の外へ出て行く許可が下りる。そしてリントの周りから彼らはいなくなった。
ずっとバレッジの村しか知らずに育った彼らは、外に対する憧憬が尋常ではないほど強かった。元々好奇心も旺盛だったし、リントの元を去ってしまうことは、容易に想像できたことだった。
いてもたってもいられなくて、気づいたら村長の家目がけて全力疾走していた。急な階段から転げ落ちないように気をつけながらも、リントは速度を緩める気配はない。
呼吸を整えることもせず、村長の家の扉を乱暴に押し開けた。バタンという大きな音が響き、中にいた三人の男性の視線が一気に集まる。
思いのほか大きく鳴った扉のノブを握り、今度は静かに閉める。そして、肩を竦めながら空いていた椅子に腰かけた。
すっかり年老いた村長は細い目でリントを捉えると、小さく咳払いをしてから口を動かした。
「フロンテリアへ遣いに行ってくれる者はいるかね?」
前提が無く唐突に切り出された話に、リント以外の者は戸惑っている様子だった。