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世の中に天才は存在する。それはまさに天から授かった才能に他ならない。
十九年前、ノエルは二つ上の姉を失った。それは彼女と遊んでいる時だった。
海が近くに見え、草原が爽やかに揺れる穏やかな町。だからこそ、そんな悲劇が起こるなど、誰も予想していなかった。
当時五歳だったノエルは、庭で姉と一緒にかくれんぼをして遊んでいた。庭といっても、富豪の家に育った彼らだ。木も生え、隠れるところは山ほどあり、広い。姉が鬼で、ノエルが隠れる側だった。
日常だった。あの瞬間までは。
町長を務めていた父親を逆恨みした男が、刃物を持って敷地に侵入してきたのだ。
ノエルもおそらく姉も、不審者が入ってきたことにすぐに気づいた。だから二人とも、離れたところですぐに木の陰に隠れて、男の様子を窺っていた。
だが運が悪かった。
男が侵入してきたのは勿論正面などではなく、柵を越えた側面から。気づいて幹の影に隠れたノエルだが、男が通ると思しきルートにかなり近い。でも今更動くことなどできない。
男が徐々に近づいて来る。それに比例するかのように心臓がうるさく脈打つ。
男は周囲を警戒し、慎重に進んでいる。だからこそだろう、ノエルの予想していたものと違うルートで進んでくる。木の間を通るのだから当然と言えば当然だ。しかしこのままでは、ノエルは確実に見つかってしまう。
体が動かなかった。影に隠れる角度を変えないと、見つかってしまうのに。
それからようやく体が動いて、移動できた。だが、緊張に苛まれた体は思ったよりも硬く、芝の音が大きく響いてしまった。
本来であればそんな些細な音、誰も気にしないのだろうが、慎重になっていた男だからこそ聞き取れてしまったのだろう。彼がノエルの方に近づいて来る。涙が瞳を濡らす。
もう終わりだ。そう諦めた時。
「おじさん、誰?」
背後からの声に男が振り返った。ノエルから離れていく。
「手に持ってるそれ、何?」
姉が木の影から姿を出したのだ。ノエルから遠ざけるために。彼女の声は震えていた。
それからすぐだった。彼女は叫びながら屋敷の方へ全力で走った。
「誰か助けて!」
ノエルは体育座りで固まったまま、背中でそれらを受け止めていた。姉が走って行っても、すぐには恐ろしくて振り返れなかった。
「いや! はなして!」
その声が耳に届いた直後、ノエルはようやく立ち上がった。見つからないように木の陰を伝って近づく。屋敷の入口で、男は姉の首筋にナイフを当てながら、何やら叫んでいた。
屋敷の中から両親が出てくる。父親が交渉を試みる。メイドたちも横で悲鳴を上げそうになりながら、その様子を見守っていた。
だが、男に交渉する気はなく、初めから家族の誰かを父親の前で殺すことを目的としていたらしい。
男の手が動いた。
嫌だ。
ノエルは気づくと男に向かって走っていた。
「おねえちゃん!」
背を向けていた男が一瞬振り返る。彼の顔にはニヒルな笑みが浮かんでいた。男に抱えられた姉は止め処なく涙を流していた。彼女と目が合う。そして姉は震える口を動かした。
声は聞こえなかった。だが口元は確かにこう言っていた。
ばいばい。
直後、男は哄笑を携え、当てていたナイフを横に掻っ切った。
男はその場ですぐに殺された。だがそんな奴の命など、どうでも良かった。
あの時、自分さえうまく動けていれば、姉が自分の代わりに殺されることなどなかったのではないか。彼女はノエルを守るために死んだのだ。
到底耐えられなかった。
それからノエルは研究に没頭した。元々、科学に興味はあり、本はよく読んでいた。
初めは人体蘇生を考えたが、さすがに科学の領域で成し遂げることなどできないし、何より禁忌を犯すつもりはなかった。
そこで思いついたのが、当時まだその発想さえ得ている人間が少ないクローンだった。クローンなら科学で造ることが可能だ。
必要な道具は全て親に揃えてもらい、姉のクローン製造に全ての時間を割いた。幾つか失敗したが、約二年後、ノエルの努力は実ることとなる。
リズリード家常駐の医師の力も借りて、姉の遺伝情報を持った卵子を母親の子宮へ移動。そうして数ヶ月経ち、産声を上げた女の子。
「お姉ちゃん……」
彼女の名はアリアといった。
この時、ノエルは七歳。到底子供では成し遂げることができない所業。まさに天才の成し得る技だった。
だからこそノエルは、クローンを否定することなどできない。クローンを否定するということは、アリアを否定することだ。そんなこと、できるはずもなかった。
アリアは知らない。自分がクローンであることを。今彼女はクローン反対派だが、真実を知ったとき、果たしてどんな顔をするのだろうか。
「どうやってエルクリフは知ったんだ……?」
研究官長室で溜息交じりにノエルは呟く。あのことを知っているのは、リズリード家に所縁のある者くらいのはずだ。口止めはしていたが、事実を知る者の中で、漏洩した者がいるのかもしれない。
だが、そんなことはどうでも良かった。問題は、それをネタに揺すられたり、アリアにその事実が伝わったりしてしまうことだ。それだけは避けなければならない。
「ノエル官長」
扉をノックして慌ただしく入って来た秘書。ただならぬ空気に、ノエルはすぐに椅子から立ち上がる。
「レジスタンスが攻撃してきました。対象はSGF本部。ただしいつもと違うのは、向こうに人質がいるということです!」
「人質? それは一体……」
「それがその……」
秘書が言葉を濁した段階で嫌な予感はした。
「はっきり言ってくれ」
「……監察官長のアリア=リズリード様です」
頭が真っ白になった。今しがた危惧していたことがこんなに早く現実になるなんて。
「……すぐに行こう」
眩暈がしそうになるのを抑えて、ノエルは現場へ急行した。