白の世界
そこは真っ白い空間だった。
白以外が存在しない場所。
俺は見知らぬ場所にいた。
――なんだ、ここは。
意識が覚醒した時、最初に浮かんできたのは自身がいる場に対する疑問。
ここは何処なのか。
思考がぼやけたまま答えは出ない。
――えっと……、俺はなんでこんな場所に……、俺?
次に浮かんだのは、自分という存在に対する疑問。
意識の海に漂う自己を掴みとろうと自我がもがく。
――俺って何だ。俺って……。
やがて海に漂う自己の破片を拾い上げ、霞がかった思考が徐々に晴れていく。
――あああ、そうだ。俺は……。
俺は人間だ。
名を煉城聖我。西港島中学に通う十五歳。
親は……。
――親、親は……。
ずきりと何かが痛む。だけどそれも一瞬の事。
痛みはすぐにひき、意識の奥底から記憶が溢れ出る。
――……思い出したぞ。
思い出した。
――俺は学校から帰るところで、それで……。
記憶がない。
自分の名、親も、学校も、小学校、保育園、ありとあらゆる過去の中に、学校の帰り道からこの空間に繋がる部分が抜け落ちている。
――夢?
夢を見てるのだろうか。
たぶんそうなのだろう。こんな真っ白い空間がそれ以外のどこに存在するというのか。
妙な事だ。いつのまに俺は眠ってしまったのだ。
帰宅の途上、歩きながら眠ってしまったというのか。
――おいおい、それはさすがにやばいだろ。
不健康な生活をしていた。健全な中学生とは呼べないひどい生活を。
俺はVRMMORPG『IROMO・SAGA』、通称イロモというゲームにハマり込み、学校と寝る時以外は、日のほとんどをそのゲーム世界の中で過ごす生活を続けていたのだ。それが祟ったのだろうか。
世の言う健全な人間とやらから見れば、有り得ない、馬鹿馬鹿しい事だろう。
俺自身、そんな生活を声高に大層立派なものだと主張するつもりはない。
だけど、俺のような人間は大勢いた。
イロモはあまりに魅力的すぎ、それはある種の人々を虜にしていた。
いや、ある種なんてせまい範囲ではない。
イロモは禁断の果実だ。
VRMMORPG。
ヴァーチャル・リアリティ・マッシブリー・マルチ・プレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム。
まるで異世界に本当に迷い込んでしまったかのような体験が出来る、多人数参加型のロールプレイングゲーム。
モニターを机の上に設置して、ゲームパッドやマウス、キーボードでプレイヤーキャラクター、PCを操作していた旧時代のMMORPGと違い、頭から装着する特殊な装置を使用する事で臨場感を劇的に向上させた新時代のMMORPG、……だった。
そう、イロモが登場するまでは。
イロモはそれまであったVRMMORPGを過去の遺物に変えた。イロモこそが新時代のMMORPGの象徴となったのだ。
イロモ以前のVRMMORPGも画期的な面白さがあった作品である事は間違いない。
映像やサウンドといった面での臨場感はかなりのものがあり、登場当時も大勢の人間に遊ばれていた。
だがしかし、所詮はゲームの域だった。
敵からダメージを受けても痛くはないし、どんなに美味しそうな料理を食べても味はない。
花の匂いも、吹く風の心地よさも、土の感触もない偽物の世界。
旧時代のMMOが、あらゆる娯楽商品がそうであったかのように、VRMMORPGもやがて飽きられ、下火になりかけていた。
そこに登場したのが『IROMO・SAGA』だった。
開発・運営会社であるイロモ社が独自に発表、発売したゲームに参加する為の特殊装置『ゲート』はこれまでの物と違い、ただ映像や音声を出力するだけでなく、装着者の脳を読み取り、またゲートから直接信号を送る事で超リアル空間の創造を可能としたのだ。
イロモには全てが存在した。
敵から攻撃を受ければ痛いし、美味い物は美味いのだ。
花も匂い、風は心地よく、大地を踏みしめる感触がある。
虚構とは思えない世界、イロモの世界は、もはや本物と呼べる出来だった。
無論、全てを現実的に再現していたわけではない。
レベルや攻撃力、防御力など旧時代からのゲーム的な要素は残されており、イロモの世界観の内にとりこまれてすらいた。その方がプレイヤー達にとって、都合がよかったからだ。
そしてゲームとして成り立たせる為にもっとも重要な差異は、攻撃を受ければ痛みを感じるが、それには限度があるという事だろう。
当然だ。
魔法の炎で身を焼かれて、現実と同じ炎に焼かれる苦痛を再現されたらと思うと、ぞっとする。
そんなゲーム、怖くて一部のイカれた人間以外、誰も遊ばない。
苦痛は抑え、快楽は再現しきる。
ある意味では現実よりも快適なこの世界に、大勢の人が呑まれていくのも当然の流れと言えるだろう。
イロモに対する反対運動もおこった。
イロモを危険視し、規制せよと。
だが、かつての酒が芸術が、小説が、漫画が、テレビが、ゲームが、そうであったように。
魅力的な物を淘汰する事など出来やしないのだ。
結局規制らしい規制などされず、イロモは国民的、いや世界的ゲームとなった。
――そうか。
俺はイロモのやりすぎで寝不足の為に、学校からの帰り道意識を失ったのかとも思ったが、もしかしたらここはイロモの世界なのではないか。
さっきから目覚めようと力んでみてるが、いっこうに目覚める気配がない。
記憶が少し飛んでるが、すでにあれから帰宅していて、イロモの世界にダイブしようとしてバグかなんかでこんなところに来てしまったのではないか。
おお、それも考えれるな。
――って、それって滅茶苦茶やばいんじゃねぇか!?
そんなバグ聞いたこともない。
イロモ反対派が脳と直接やりとりする『ゲート』を危険視していた時、俺は開発運営会社もテストしてるし、実際みんな遊んでるしと、気楽に考え、万が一の危険など鼻で笑ってたのだが……。
本当にバグか何かでこうなったのだとしたら、これからどうなるというのだ。
意識不明? 一生このまま?
「おーい!! イロモ社さあぁぁん!! 聞こえてますかあああ!!」
大声をだしてみるが反応はない。
徐々に恐怖心がわいてくる。
これが夢であるなら問題ない。でも事故でこうなったのなら……。
「おーい!! おーい!!」
何度叫んでも状況は変わらない。
――くそ!! 打つ手なしか!?
そして気持ちが折れかけたその時。
「ああ!! もう、目覚めてる!! はい、はーい!! 今行きますよ~!!」
どこからともなく声がしたかと思うと。
「それじゃあ確認とりますんで、ええ~と……」
ペラペラと紙の本をめくりながら、可愛らしい女の子が自分の前へと飛んでくる。
そう、飛んできたのだ。
俺の目の前に来た彼女の背には白い羽が生えている。
それをぱたぱたと動かしながら、彼女は浮遊していた。
――天使だ。
頭上に輪こそないが、自分が持つイメージまんまの天使が目の前にいる。
「えっと、あなたは……運営の人ですか?」
天使のキャラクターを使ってバグに巻き込まれた人などの救済をしているのだろうか。
――でも他のMMOと違い、イロモ社のサポート用のキャラクターなんて聞いた事がないな。
そうなのだ。古今東西あらゆるゲームと違いイロモは、バグが全く存在しないゲームとしても有名だった。
その為、操作するキャラクターが突然行動不能になる、はまりの状態などから救済にやってくる、いわゆるサポート対応する為のキャラクターがイロモの世界には存在しない、はずなのだ。
そして、それだけ完璧なゲームであったからこそ、脳と直接やりとりするという『ゲート』という装置を皆、気軽に装着していたのだ。
「はい、人ではないですけど運営側の天使ですよ~」
そうか、やっぱり運営の……。
――人ではない!?
人ではないとはどういう事だ。
ああ、そうか。
プログラムが勝手に対応してるって事だろうか。
イロモ世界のNPCは生きた人間が入ってるようなAIで動く事でも評判だった。
サポート用のプログラムがこれぐらい自然な対応をしても驚きではない。
何から何まで凌駕している、過去のゲームを、常識を。
――さすがはイロモ!! 最高のゲームだ!!
自分がはまりこんだゲームの素晴らしさに改めて酔いしれるのもいいが、問題は。
「あのう、それでどうですか。これって大丈夫なんですか? 何せこんなバグ初めてで、俺、ちょっと不安で」
不安のせいもあってか、人工知能で動いてるであろう天使に、ちょっと下手から尋ねる口調になってしまう。
でも、きっと大丈夫だ。
このかわいい天使はとびっきりのエンジェルスマイルで『もちろん、大丈夫ですよ~』と返してくれるに違いない。
「ハァ?」
だが、現実は予想外に絶望的で腹立たしいものだった。
え、何この人。もしかしてアホなん? 的な表情をこちらに向ける天使らしき物体。
「いや、ハァ? じゃなくて……、え? えっ?」
俺は何か変な事を言ったのか。
そんな事はないはず……。
天使は怪訝そうに手元の本を見て再確認する。
そして。
「あぁ~、死んだのに気付いてない系かぁ」
何かに納得したらしい顔を浮かべる天使。
――いやいやいやいや!?
突然飛び出してきたとんでもない言葉に俺の頭は混乱する。
「えっ? 死んだ? 誰が? ってか何が?」
「君が、君という人間が死んだの。正確には君『だった』か」
天使は一切の躊躇いなく言い切る。
「俺? 俺が死んだの?」
「そうよ、さっきからそう言ってるじゃん!!」
「ナイスジョーク……」
「ノージョーク」
面白外人みたいな調子で言葉を返した天使は今だ混乱する俺にさらなる追い込みをかけてくる。
「物分り悪いわねぇ~、まだ半分呆けてるのかしら、この魂」
呆けてるというか、寝てるんじゃないでしょうか。
そうだ俺は眠ったままで、ここはやっぱり夢の中なんだ。
でも……。
「……ちなみに死因は?」
夢の中で聞いてどうにかなるようなもんでもないが、とりあえず聞いてみる。
「隕石よ」
驚きの連続である。
「まさか、巨大隕石が地球に直撃、人類滅亡……」
なんと壮大な出来事に巻き込まれてしまったのか。
だが有り得ない事ではないだろう。かつて地球を我が物顔でのし歩いていた恐竜達も巨大隕石の衝突によって絶滅したというではないか。
人もまた、彼らと同じ道を歩んでしまったという事か……。
「違うわ、極小隕石が後頭部に直撃、あなた死亡、よ」
どんな確率だよ!!
ていうかなんか、ちょっと馬鹿馬鹿しい死に様じゃないか!!
「当然、その隕石で死んだのは君だけよ」
聞きたくなかった。
夢の中とはいえ、そんな面白可笑しい死に様なんて聞きたくなかった。
「天使さん……なんかちょっと落ち込んだのでそっとしておいてください。……それから目が覚めても、あなたの事はきっと忘れないでしょう。天使は結構、面白トークの出来る奴だったと……」
思春期の繊細なハートをちょっと傷つけられ落ち込む俺に、天使は容赦なく言い放つ。
「いや、夢とかじゃないから。現実だから。手足ってか肉体ないでしょ、君」
「そう、ですね……」
今更気付いた。
そういやこの天使が現れるまで、視界に映るのは白だけだった。
いつもなら映っているはずのものがそこにはなかった。
「でも、夢なら別に手足がなくたっていいじゃないですか!!」
ちょっと泣きそうになりながらカマっぽい喋りになる俺。
「だから夢じゃないって言ってるでしょ!! ……あのさぁ、君もほんとは薄々気付いてるんじゃないの~? これは夢じゃないって、だってあるでしょ? 夢とは違う、妙な現実感ってやつがさぁ」
ぎくりとする。
そうなのだ。あるのだ。
あってしまうのだ。
夢にはない妙な現実感ってのが。
そりゃ今までもリアルな夢を見た事ぐらいはある。
起きてから夢だったと気付く事も、夢の途中で気付く事も。
そして夢の中で気付いたなら、力んだりしたり目覚めようとすれば、夢の世界はきっちりと終ってくれた。
それがどうにも今回は違う。
いくら力んでも、吼えても、何をしても、目が覚めない。
それどころか、現実感はますます増し、不安だけが心の内に広がっていくのだ。
「じゃあ、じゃあ!! 夢じゃなければここはどこなんだ!! 死後の世界とでも言うのか!?」
「そうよ」
あら、あっさり。
「うわああああああああ、死にたくないよおおおおおおお!!」
文字通り『魂の叫び』。
「もう!! うるさいわね!! ときどきいるのよね、この手の奴。 君も人間の男として生きてたんだし、もっとどっしりと出来ないの、どっしりと。……そうか、いっちょ死んでやるか、ぐらいの器量はないわけ? 情けないわね~」
「わけわかんねぇよおおお。いっちょ死んでやるかってなんだよおおお。死にたくないに決まってるだろううううう!!」
必死である。
もう死んでるけど。
「死にたくないって……」
またまた本に目をやる天使。
「両親は他界済み、今は近所で暮らしていた親戚の家に居候中だが、関係はあまり良好とは言えない。運動も勉強も苦手、幼少時から友人は少なく、小学校の時、女の子の着替えを覗き見しようとしたのを発見され、以後、いじめに発展。中学の二年の頃に同級生からの嫌がらせ行為は収束するものの、数少なかった友人は去っており、友達なしの生活を送っていた。『IROMO・SAGA』だけが生き甲斐の生活」
本に書かれた俺の過去を容赦なく、読み上げる天使様。
「なんだよ、だからなんだってんだよ」
「何って事もないけど、これで、こんな人生でも、そこまで死にたくないわけ?」
「当たり前だろ!! 何だよ!! こんな人生だと生きちゃ駄目なのか!? 生きていたいと思っちゃ駄目なのか!?」
「君って無駄に前向きなのねぇ。どこからそのエネルギーが湧いてくるわけよ」
「夢だ」
「夢?」
「人間はな。叶えたいと強く願う夢さえあれば、どんな過酷な人生も耐えられるのだ」
天使の表情が変わる。
「……そうね。そうかもしれないわね。どんな願いであろうと、それがあるだけで人は強く生きていける……。君の事、ちょっと誤解してたみたいね。そこまでの情熱を内に秘めていたなんて」
「いいよ別に、誤解される事には俺なれてるし」
「ちなみにどんな夢なの?」
「一度でいいから」
「一度でいいから?」
「一度いいから、かわいい女の子の柔肌の温もりをリアルで感じてみたかった……」
空気が凍った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺の渾身の訴えは天使のハートには響かなかった。
「馬鹿じゃないの、この変態野郎」
「ありがとうございます」
かわいい天使の罵倒についお礼を言ってしまう。
でもそんな事はいいんだ。彼女に軽蔑されるとか、呆れられるとか、罵倒されるとか、そんな事はどうでもいいんだ。
重要なのは。
「でもどうにかなりませんか、天使様。ほんとうにまだ死にたくないんです」
「どうにもならないわよ。しつこいわね~」
露骨に嫌悪感丸出しの天使。
「じゃあやっぱり、天国行きってやつですか」
「君、その魂の汚れ具合でよくそんな事言えるわね」
「えっ、そんな……、地獄行きなんですか……」
「地獄に送ってやりたいところだけど、残念ながらそんなものないのよね」
「天国でも、地獄でもないって、俺どうなっちゃうの……」
「転生よ」
――なんと!!
「転生って……」
「転生は転生よ。輪廻転生、それぐらいお馬鹿な君でも聞いた事あるでしょ。まぁ人間の間で言われているのとはちょっと違うんだけどね。でも基本は一緒よ、基本は。前世で善きを行えば、より良き生を得、悪しきを為せば、業深き生を得る」
「転生……。つまり、俺は生まれ変わり新たな生を得るというわけですか」
ごくりと唾を飲み込んでしまう。……肉体ないけど。
「そうよ、君は今から生まれ変わるの。ここはその為に用意した場所」
「そうだったのか……。ちなみに人間の前って俺なにやってたんですか?」
「ゴミムシよ」
「はい?」
「だからゴミムシ」
「冗談ですよね?」
「何で私がそんな冗談言わなくちゃならないのよ」
「本当なんですか……」
「本当よ。だってこの本にそう書いてあるし」
天使が手にする本の中には俺の、あれや、これやが詰まっている。
ちょっと前に読み上げた俺の過去もだいたいあってた。
これも真実なのだろう。
「ゴミムシって……。いや、ゴミムシって……えぇ……」
てか、ゴミムシから人間って。
ゴミムシ時代にいったいどんだけの善行を積んだんだ、俺は……。
「でも珍しいわね。ゴミムシから人間に大出世なんて初めて見たわ」
おお、天使も驚く俺のサクセスストーリー。
「天使様も驚く快挙ですか!!」
「う~ん、そうなんだけどね~」
なんだか煮え切らないご様子。
「でもこれ、たぶんミスだわ」
「へ?」
「時々あるのよ。係りの子がミスちゃって予定と違うのに転生させちゃう事。まぁでもよかったじゃない。そのおかげで一気に人間になれたのだし」
天使の仕事えらくてきとうだな、オイ!!
そんな突っ込みをぐっと堪えて。
「ははは……、でも人間って輪廻転生の段階の中でもいい方ですよね?」
「そうね」
そんな人間から一体何になるというのか。
「人間からさらに転生してしまうって……、まさか天使の仲間入りですか!! 新入りとなりますが、精一杯頑張りますので、ご指導よろしくお願いします、先輩!!」
「なわけないでしょ!! 君、あんな人生歩んでおいて上にあがれるつもりなの? ここまでくると呆れるを通り越して、感心すらするわ」
「ありがとうございます」
「いや、褒めてないから」
「……俺、下に落ちちゃうんですか、ゴミムシからやり直しですか?」
「私はその方がいいと思うけど、残念ながらそうはならないみたいよ」
「えっ、じゃあいったい……、もう一度人間ですか?」
天使は首を振り否定する。
「もう!! それじゃあ俺はどうなるんですか!! もったいぶらず教えてください!!」
「別にもったいぶるつもりなんてないわ。君がぎゃあぎゃあ喚いていたらから話が進まなかっただけよ。それに最初に言ったはずよ。私は運営の天使だって」
そう言えばそんな事を……。
運営の天使。
――運営!?
「少しは理解出来たようね。いい? 私は天使ミカエル。神々に仕え、今は『IROMO・SAGA』の運営に携わる第三十七天使」
天使っていっぱいいるんですね。
「そして今からあなたは、IROMO・SAGAのNPCとして生まれ変わるのよ!!」