第六話
【6】
カフェは相変わらず何も変わっていなかった。
寂れた雰囲気と無愛想なマスターは健在で、しばらく行っていなかったからかどっと懐かしさがこみ上げてきた。
マスターにコーヒーを二人分頼んだ。彼はブラック。私はミルクだ。最後でもそれだけは変わらない。受け取ってから窓際の二人席を選ぶ。あの時と同じ場所だ。そして、あの頃の私のお気に入りの場所でもあった。
向かい合う。
彼は相変わらずミヤコワスレを手に持ったままで、
「それ、いい加減に置いたらどう?」
呆れて言うと、彼は無言で首を横に振る。
「そう」
それ以上は聞かないことにして、それだけ言った。
彼は突然やって来て、未だになぜ私のことを知っていたのかも不明だ。それに、どんな人かも分からない。
でも、そんなことは知らなくても良いんじゃないかって、そう思うようになった。
どんな理由であったとしても、私のところに来てくれた彼は彼だ。それはどうやっても変わらないし、それが一番重要なことだ。
彼の顔を見つめる。
彼が目をぱちくりとさせた。
それがきっかけとなる。
「はい、これ」
私は、バッグの中からクリアファイルを取り出し、彼に手渡した。彼がミヤコワスレをついにテーブルの上において、受け取る。彼は一瞬、それが何かわかっていないように見えた。でも、中身を取り出すと、すぐに何かを察したらしく、視線をはずして私の方に向き直る。
「――今まで、本当にありがとう」
たくさん考えた言葉だけど、結局はシンプルに行くことにした。その中には、これまでの三年間も全てが詰まっている。だから、口から言葉が出ていったとき、寂しさが胸の中に沸き起こった。
「どういたしまして」
あの時と同じ言葉が返ってきた。
しっかりと。
今度は、その言葉が私の心を満たしていく。寂しさが、どんどんと暖められていく。まるで――心の一部を交換したような、そんな気分。心の中の温かいものが、胸を伝って顔まで登り、目から溢れ出してきた。
「はい」
彼の声がして、ぼやけた視界の中で、彼が私に何か差し出しているのが見えた。
慌てて目を拭うと、見慣れたものが目の前にある。
「……?」
少し疑問に思いながらも、ミヤコワスレの鉢を、私は受け取った。
それを見ると、彼は満足そうに頷く。
そしておもむろに立ち上がった。
――行くつもりだ。
直感的にそう悟った。
立ち上がりたい。どんな手を使ってでも、彼を止めたい。事前にあれだけ硬く決心したはずなのに、それはたやすく打ち破られた。
でも私は立ち上がらなかった。立ち上がれなかった。
彼に渡されたミヤコワスレが、不意に重くなったように私をそこへと留まらせていた。
彼がこちらを見下ろしてかがんだ。頭の上にぽん、と大きな手が乗せられる。そして、離れるまでは、ほんとうに永遠の時のように感じられた。
手が離れる。
彼がくるりと背を向ける。
歩き出し、いつの間にか手に持ったコーヒーカップをマスターに渡し、ドアを押し開ける。
私は後ろからそれを見つめる。
あの時と何も変わらなかった。
ただ、私の手の中にあるのが、書類からミヤコワスレに変わっているだけで。
――そして、彼は雑踏の中に消えていった。
私は膝に置いた手とミヤコワスレの重さを感じながら、ずっと彼が消えたそこを見つめ続けていた。
*
いつの間にか、窓から見える景色はオレンジ色染まっていた。
目の前に置かれた、冷めたミルクコーヒーを見つける。他人の入れたコーヒーなど飲むのは久しぶりだ。
口に含む。ミルクの甘い香りとコーヒーのコクが混ざり合ってまろやかになる。この味が昔は好きだった。いや訂正。今も好きだ。
でも、
「また合うときまでは――絶対にブラックで飲み続けるから!」
そう、聞こえるはずもない彼に宣言した。
「それに、冬だって雨の日に傘を差さずに歩いてやる! 帰ってこないと、ほんとにやるから」
ついでに宣言。
そういえば、どこかで彼が聞いているような気がして。急に牛乳を持って台所に現われたり、傘を持って走ってきたり、そんなことをしてくれるような気がして。
「それに――」
まだ宣言は続ける。
「帰ってこなかったら、私のコーヒー飲ませてあげないし、ベランダにも上げてあげない!」
もはや意味がわからなくなってきた。
でもいいのだ。
これは、私の一つの決心なのだから。
いつまでも、いつまでだって彼を待ち続けるという。
――あと。
心の中で、もうひとつ付け加える。
これが一番重要だ。
三年間の中での一番の発見だから。初めていま、当てはまる言葉を見つけたのだから。
『帰ってこないと――……』
この先は、彼が帰ってきたときに、真っ先に口だそう。
それまでは心の中にとっておこう、そう決めた。