第五話
【5】
一週間たって、月曜日が訪れた。
天気は、やっぱり快晴。でも、入道雲が青い空に沸き立っていた。今年は遅めらしい梅雨が、もうすぐそこにまで見えている。
玄関には、綺麗に花開いたミヤコワスレが飾ってある。昨日の内にそこに移動させたのだ。ベランダに上がらなくてもいいように。
黄色い雌しべの周りを取り囲むように、円上の細い花弁が開いている。紫に加えて、青や、赤紫もある。シンプルで、すっきりしたコントラスト。何株か一緒に植えられているので、涼やかな緑の葉を背景にして、細い茎から花開いたミヤコワスレがよく映えている。
眺めていると、自分の背筋まで伸びてしまうような凛々しい花だった。
彼は、こうなることを知って買ったのだろうか。
ふとそんな事を考えたりする。
ミヤコワスレを見ていると、そのたびに今日が彼のいなくなる日だということを実感した。
それでも、何回でも目が行ってしまう。
彼が来るまでに、私は何回この花を眺めることができるだろうか。
そして、彼がいなくなった後、私はこの花をまた見ることができるだろうか。
私には未だ、彼がいなくなったあとの生活が想像できなかった。いなくなった後の生活と言っても、彼と過ごしたのは一週間に一回、数時間のものだ。合計しても一週間にも程遠い。でも、私の生活の中で、彼とすごす月曜日は本当に大切なものだった。
よく、大切なものは失ってからその真価に気付くというけれど、失わないとその価値が分からないようなものはいらない。今でも十分に幸せだから、失ってまでその価値を知ろうとなんか思わない。だから、これが神様の与えた試練だというなら、私は断固として拒否してみせる。そんなもの、絶対にいらないから。
けれど、これは彼が言ったことだ。
私は彼を信じる。彼なら、言わなくても絶対に帰ってきてくれる。たとえそれが何年先であっても。そう、信じる。だって、これは私の我儘だけど、何の根拠もない自信だけど、私が彼にあげられる最初で最後のものだから。
ミヤコワスレの傍にしゃがみこんで、ずっと眺めていると、家の中で時計が九回鳴るのが聞こえた。それと同時に、耳が足音を捕らえる。それは少しずつ大きくなり、やがて家の前で止まった。ゆっくりとミヤコワスレの鉢を持って、振り返る。そこには、予想したとおりの彼の顔。汗を少し額に浮かべて、眩しそうに眉をしかめている。
そんな彼に向かって、咲き誇るミヤコワスレを掲げて、私は笑った。別れるときは絶対に笑っていられないから、せめて今だけは笑っていようって。そう思ったから。
彼が、少し驚いた顔をした。
そして一瞬、僅かに口元をほころばせた。
彼の元へと歩いていく。手に鉢を持って。結構重いけど、落とすわけに行かない。
「はい」
そう言って手渡し、
「咲いたよ」
そう付け加える。
「ああ」
彼が、無愛想に答える。手に持ったミヤコワスレを見下ろし、不意に懐かしそうな表情をする。
「咲いたから――」
ずっと決めていた続きの言葉を告げた。
「行こう。初めて会った時のカフェに。いい?」
もし駄目だと言っても行くつもりだけど、一応確認を取る。
彼は答えずに小さく頷いた。
「じゃあ、取ってくるものがあるから、少し待ってて」
そう言って中に引っ込んだ。
すぐ取れる場所に準備してあるのは、あの時、彼にもらった書類が入ったクリアファイル。彼と再会するまでは、返したいと思い続けていたのに、いざ再会してみると、返すと言い出せない自分がいた。けれど、今日が最後。なら、もらった場所で、出会った場所でそれを返したい。そう思っていた。
クリアファイルを小さな手持ちのバッグの中に押し込み、玄関を開けると、彼がミヤコワスレを持ったまま開けたところに立っていた。壁についた小さな郵便受けに、少しもたれかかっている。
「それ、置かないの?」
と聞くと、首を横に振った。
カフェまでそれを持っていくつもりらしい。重くないのだろうか。
それ以上は聞かないことにして、歩き出した。
梅雨が近いからか、少し空気がじめっとしている。横を歩く彼の腕も少し汗ばんでいた。並んで道を歩くと、彼の背の高さを実感する。私が丁度目線を下げたところに彼の手があって、ミヤコワスレを抱えている。
これが、初めて彼と一緒に歩いた道なのだと思うと、特別なものに思えた。
次に彼とこうやって歩けるのは、いつの事になるだろう。
「ねぇ、この町好き?」
聞いてみる。
「……ああ」
彼は、一瞬迷ってから、そう答えた。
何に迷ったのかが気になる。肯定したその理由も気になる。けれど、私は聞かなかった。いろいろと聞くことをためておく、そして次に会った時に、まとめて聞く。ちょっとした願掛け。これくらいは許されると思う。
少し汗ばむ空気の中、二人並んでてくてく歩く。彼の一歩は大きくて、それに合わせて私の足がてててと三歩くらい動く。
同じ道でも、私の人生の道は先が見えないのに、今歩いているこの道は何も考えずに歩いていても、目的地についてしまう。ただ足を前に動かすだけで、目的地はどんどんと近付いてきて、何も考えてなくても、今日の終わりは着々と近付いてくる。変わらないのは、一歩も踏み出せないのは私自身だけ。
――君の歩いていった先には何があるの? その先できっと、また会えるよね?
隣の彼を見上げて、声には出さずに聞いてみた。
彼の歩みには迷いがない。
この先には未来が待っているんだと言うことを、信じきってるみたいに。
その未来のどこかに、私はいるかな?
すぐ傍でなくてもいいから、一週間に一度、いや一ヶ月に一度でも、ちょっとしたついでにコーヒーを飲んで喋ってくような、そんな関係でいいから、私は彼の未来の中に居たい。
私のベランダにあった、ミヤコワスレみたいにでいいから。
そう思っていることに、君は気付いてる?
ねぇ――