第四話
【4】
自然が私に対して優しくないことなんて、とっくに知っていた。今まで月曜日に雨が降らなかったのも、どうせたまたまに違いない。私は今まで自然に対して愛なんて注いでこなかったし、注ごうと思ったことすらほとんどない。
でも――。
これだけは許して欲しかった。
もうミヤコワスレの蕾から紫色の花弁が零れ落ちているなんて、そんなことは知りたくなかったのに。
彼が「去る」宣言をした次の日の早朝、私は神様を呪った。
そんな事をしてもしょうがないなんて、分かっているけれど。
呪わずにはいられなかった。
私は三年待ったんだ。それに対する報いがこれ?
いっそのこと、ミヤコワスレをどこか遠くに捨ててきてやろうかと思った。代りに良く似たやつを買ってきて同じ場所において。そうすれば、彼が行くのをある程度は、止められるかもしれない。
そんな事を一日中考え続けた。
きっと、ひどい顔をしていたに違いない。
その日の晩、なかなか寝付けなかった私は、キッチンのテーブルに突っ伏して彼のことを考えていた。そして、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
少し前の――夢を見た。
月曜日。めずらしく雨が降っていた。なかなか激しい。朝から窓の外を眺めて、ベランダには出られないだろうなぁと思った。そして、雨に濡れて体温が下がっているだろうから少し熱めのコーヒーを入れて、もしもの時のために風呂場を整理しておこう、そんな事を考えていた。
家の片付けがだいたい終わった頃、振子時計が安い音を九回響かせた。
九時だ。外の雨は一向に弱まる様子がない。
玄関へと走って、ドアを押し開ける。けれど、彼はそこにいなかった。半身をだして少し遠くまで眺めても、彼らしく姿は見えない。
いつも違う方向から来る彼だけど、後れてきたことなんかは一度もないのだ。だから、不安になった。
クロックスを足に引っ掛けて、外へと飛び出す。激しい雨が体にあたって、音が体を包み込む。嫌いじゃない。この感じ。でも、それ以上に彼がこないことが嫌だ。彼だって、取り敢えずは人間だ。だから遅れる事だってあるはず。それくらいは分かっていた。でも私は、彼が誰か知らない。名前も特に教えてもらってない。(あまり呼ばないけど、呼ぶ時は「浪人君」と呼んでいる。外見がまったく変わらないから)それに、どこから来ているのか、何がしたいのかも知らない。
今この瞬間に、彼が他の所で時間を費やしているのかもしれないと思うと、自分でも驚くほど黒い感情が、胸の中に湧き上がってくる。こんなの知らない。でも、否定しようとは思わない。
結局、家の前に立って彼を待つことにした。
雨がどんどんと、体にしみこんでいく。今の気分に合っていると思った。彼がこない時間が長くなればなるほど、心の中に冷たいものが広がっていく。それに似ている。
彼を待ちながら、私はそれをずっと感じていた。
「……おい」
そう声をかけられて、はっと目を開けた。目に入る水を拭うのが面倒くさくて目を瞑っていたからか、まぶたから小さな水滴が飛んだのが分かる。
彼だ。
声で分かった。次に目でも確認する。彼の顔が間近にあった。
胸が一気に熱くなる。心臓が踊りだす。嬉しさと、怒りが同時に心の中に存在して、激しくぶつかり合った。
「…………」
答えられない。今、声を出したら、きっと泣いてしまう。だから、喋るわけにはいかないのだ。
彼は、私の心中を察したのかしなかったのか、急に私の手を掴んで家の方へと走り出した。引きずられるように後に続く。
彼がドアを押し開け、私を家の中に引っ張り込んだ。途端、体に悪寒が走った。
「風呂入れ」
彼が怖いほど真剣な目で、私を見て言う。
そしてすぐに視線をそらす。
「浪人君こそ、濡れてるから、先に入ったら? 私は着替えれるから」
「先に入れって、俺はいいから」
「でも――」
「いいったら、いいんだよ! 早く入って来いって」
彼はそう言って私の体を押した。
それに従って風呂場に向かいながら、そういえば彼がこんなに喋ったのは初めてかも、と場違いながら思う。
「――視……ないか……さ」
後ろで彼が何か呟いたのが聞こえたけど、何を言っているのかは分からなかった。
風呂場に滑り込んで、シャワーを浴びていると、体がどれだけ冷えていたのかが分かった。温めのお湯のはずが、熱湯のように感じる。
不意に嗚咽がこみ上げてきた。
シャワーの強さを最大にして、小さく泣いた。頭からシャワーを浴びると、自分が涙を流しているのかも分からなかった。
着替えて、急いで彼を探す。狭くてくらい家の中で、キッチンだけが明かりが点いているから、きっとそこだろう。彼に渡すためのバスタオルを持って、そちらへ向かうと、香ばしいマメの香りが漂ってきた。
もしかして――
思わず走ってしまう。
キッチンに飛び込むと、予想通り。湯気のたつコーヒーカップが二つ、机の上に置かれていた。
私が来たのを見ると、彼は手を止めて、机上のカップを一つ手に取る。そして、取っ手を持って私に差し出してきた。交換にバスタオルを差し出し、立ったまま、両手で包むようにそれを受け取る。中を覗き込むと、久しぶりに見る茶色の液体が、甘い香りを放っていた。
「あ、これ――」
「買ってきた」
彼がバスタオルを頭からかぶりながら、台所に置かれている小さなビンを指さす。
ああ、それを入れたのかと納得する。
「ジャージー牛乳。だから、無理するな」
「別に無理してなんか……」
「止めとけ。それに、それ美味しいから」
今日は、彼が良く喋る日だと思った。シャワーが心から冷たいものを全て洗い流して、彼の入れてくれたミルクコーヒーが、心から怒りを吹き飛ばしてくれている。
「もう……遅れないでね」
そう言うと、
「ああ」
彼が憮然と答えた。
「でも、雨の中でも待ってるのはダメだ」
同じ口調で付け加える。
彼が心配してくれているのだと思うと、自然に頷いていた。
そして、三年間飲まなかったミルクコーヒーを、飲む前に、彼に机の上のもう一つを勧める。
椅子に座って向かい合った。
「いただきます」
そう言うと、彼が頷いた。
カップを傾けて、中身を口に含む。
その味は――
そこで目が覚めた。
舌の上には、あの時のミルクコーヒーの味が蘇っていて、体の芯がじんと熱くなった。
思い返せば、彼とベランダ以外の所で過ごしたのは、あの日だけだったように思う。それ以外の日は、全部晴れていて、いつものようにベランダに上がって過ごしていたから。
寝ぼけ眼で見た壁にかけられた振子時計は、夜中の三時を示している。
ちゃんと横になって寝ようと、立ち上がった。少し頭がくらりとする。変な体勢で寝ていたから仕方がない。
階段を上りながら、眠りに就く前に何を考えていたのか、思い出す。次々と浮かび上がってくることは、我ながら恐ろしい。でも、今はなぜだか心が落ち着いていた。ささくれだった心が鉋をかけたように滑らかになっている。
彼なら、ただいなくなって帰って来ないという事はないだろう。
そう思えた。
なぜなら、彼は三年経ってもちゃんと帰ってきたのだ。
今までずっとそう考えれなかったのが、いつのまにかそう信じられるようになっていた。
心の中に、彼の優しさの様なものが満ちている。心の中でそれをずっと感じていると、彼が傍にいるような気がした。そして、ただ安心して、私は穏やかな眠りについた。夢は見なかった。