第二話
【2】
彼と出会ったあの日から、私が続けていることがある。
一つは、コーヒーをブラックで飲むこと。いつまで経っても慣れなくて、飲み終わるのに時間が掛かってしまう。でも、なぜだか止められない。
そしてもう一つは、雨の日に傘を差さないこと。
だから雨の日は、よほどのことがない限りぶらぶらと濡れて帰る。職場が家に近いからこそできることだ。もし電車を使っていたら、できるわけがない。
あの時も確か、こんな雨が降っていたと思い出した。ちょうど、三年前の今頃だ。
私は今、町角にある小さな和菓子屋で働いている。最近は、すこしずつ作る方も教えてもらえるようになってきた。彼にもらったチラシの中にあった一つだ。でも結局、彼とはまったく会えていない。アルバイトから認めてもらって就職した時には、もしかしたら現われるんじゃないかって期待したりもした。けれど、彼はまったく姿を見せず、一週間カフェに通いつめた私は、まったくの無駄足を喰らった。最近どこかで彼の面影を探している自分に、いろんなところで会う。駅の雑踏の中だったり、チラシのモデルの中だったり。そんな所にいるわけもないのに、ふと気付けば彼の姿を探して、ため息をついていた。
職場帰りの雨は、体から疲れを洗い流してくれているようだった。
早春なので、さすがに七時を過ぎればあたりも暗くなっている。家までは後もう少し。目の前の通りを右に曲がればすぐそこだ。こんな日はシャワーを浴びたら、その後にコーヒーを一杯飲むのが一番だと思う。最近ようやく慣れてきたブラックコーヒーの味を思い浮かべると、うずうずした。
早く家に帰りたい。
そう思って駆け出した。
――その時だった。
両側に立ち並ぶ家の軒先で、なにやら見覚えのある姿を見たような気がして、私は急ブレーキをかけた。もし私の目が正常なら、それは私が三年間待っていた人だった。
体が勝手に動く。
人影の方へと足を動かす。
それは見紛う事なき、あの時の彼だった。
「……就職浪人?」
その声を聞いたとき、彼だと重ねて確信する。
急に目元に浮かんできた熱いものを必死で押し堪えながら、私はとりあえず言わなければいけないことを言うことにした。
「もう――違うわよ」
それだけ言うのが精一杯だった。
無性に嬉しくて、気付けば彼の手を掴んで家へと走っていた。
彼は最初は驚いたように引きずられていたけれど、やがて自分で走り出す。どこに行こうとしているのか説明しようとしたけれど、うまく声が出なかった。でも、彼がついてきてくれているのが、嬉しかった。
ああ、でも。
変な人だと思われたのは確実だな。
*
かくして、私は彼と三年ぶりに再会した。
たまたまなのか、彼が会いに来てくれたのか。そんなことはいつしか頭から消し飛んでいた。
私はずっとよく分からないことを喋っていた。たぶん、今の職場の事だと思う。楽しいこととか、つまらないこととか。どうでもいいこと。でも、突然三年前に一回会っただけの人の家に押し込まれたと言うのに、彼は文句一つ言わずに相槌を打ってくれていた。聞いてくれていた。そして、私の出したコーヒーを、なにも言わずに啜っていた。
時計が九時を回る。安物の電池で動く振子時計は、それでもちゃんと九回鳴って、私を現実へと連れ戻した。その途端に申し訳なくなる。もう二時間も、彼にとってはまったく興味のないだろう話を聞かされているのだ。外は、完全に真っ暗に違いない。
「三年間会わなかったけど、何やってたの?」
これを最後にしようと思って、これならいいだろうと言う質問をした。彼は、少し困った顔をして、
「旅」
とだけ答えた。
「これからは、どうするの?」
思いつきでそう聞くと、
「そのうち」
そう答えた。
私はそれを、そのうちまた旅にでることだと勝手に解釈して、それ以上何も聞かなかった。でも、それは彼がしばらくはここにいると言うことだ。
なら――、という思いが弾ける。
自然に口が動く。
「ねぇ、お礼の代わりと言ったら何なんだけど、暇だったら、これからも――またコーヒー出すからさ。日曜日の夜七時以降と、月曜日は一日中家にいるからさ――」
また――来て、と。
答えはしばらく返ってこなかった。
もしかしたら困っているんじゃないかと、不安になる。突然言われても困るに違いない。
だから、
「じゃぁ、月曜日の朝、九時に」
そう答えが返って来た時、躍り上がるほど嬉しかった。
なぜ嬉しいのかは、よく分からないけど。
とにかく嬉しかったのだ。