プロローグ
【0】
吹き抜ける春の風に、そろそろ衣替えかなと思い始めた頃のことだった。
ベランダに、小さな鉢植えが来た。
ちょっとオシャレな素焼きの鉢植えの中には、葉を細い茎から交互に伸ばした植物が植えられている。
細い茎が上に伸びていて、その先には小さな蕾をいくつかつけている。濃い緑色の葉はしっとりと艶を感じさせ、細く先のとがった形は気品に溢れている。
値段札を見ると「ミヤコワスレ」とプリントされた文字で書かれていた。その横に桜型のマークがつけられているのは、これが花だということだろう。名前だけはどこかで聞いた様な気もする。
「ミヤコワスレだって」
それをベランダの奥においてから、振り返って言うと、
「ふぅん」
と彼は言った。買った当人のくせに名札さえ確認していなかったらしい。何のために買ってきたのか、まったく不明だ。
春の風がやけに心地いいベランダで、私はミヤコワスレを眺めた。天気は快晴。一年中こんな日が続けばよいと思うほどののどかさが、逆に自分がどれほど毎日を喧騒に生きているかを教えてくれるみたいだ。大人になったら勉強なんてしなくて良くてもう少し楽なんじゃないか、なんて考えていた高校のころが懐かしい。
ベランダの一角を陣取りながらも、ミヤコワスレは花を咲かせる様子もない。蕾はついていても、しっかりと閉じられている。
「これ、いつ花が咲くのかな?」
知るわけもない彼に聞いてみると、案の定、さぁ? と返ってきた。
「今咲いてないんだから、夏なんじゃねぇの」
ぼそっとつぶやく。
明らかに手の抜かれた答えに、思わず笑ってしまった。何で笑うんだよ、と彼がちょっと不満そうに言う。
「おもしろいから、かな」
「なにが?」
君が、と言いかけて止めた。にっこりと笑って答える。
「――ミヤコワスレが」
彼がため息をついた。
お互い様だ。意味がわからないのは。
そんな私の態度に呆れたのか、後ろに手をついて、彼は空を見上げた。つられて私も見上げる。春の空は少しまぶしくて、わたあめじゃないけど、ふわふわとした雲が二三個のんきに浮いていた。
春休み前のたまの休日。こんなにのんびりと過ごせるのは、彼が隣にいるからだろうか。それとも、今が単純に春だからだろうか。そんな答えの分かりきっている疑問を空に向けて問い掛けても、返ってくるのは春風ばかり。
「なんで、これ買ったの?」
目を細めて空を見上げながら、聞いた。彼が何かを持ってくるのは初めてだったから。
「カンだね」
彼はさらりとそう答えた。
春風が吹いて、緑の葉を揺らしたのが視界の隅に映った。それが、やけに鮮明に私の記憶へと刻み込まれるのが分かる。彼といると、外と切り離されているような気がするのだ。まるで、私たちのいるベランダと、外とが完全に別の世界――画面を隔てて二つに分かれてしまったように。時間の流れが違う。もっと、濃いのだ。一つ一つの出来事が、手にとるように思い出せてしまうほどに。
それがどうしてかなんて、私は知らない。
ただそれが心地よくて、彼の足に頭をのせて目を瞑るだけだ。
春風がもう一度吹いて、彼といるときは常に少し火照っている頬を、優しく撫でていった。