終章
「んう……」
楽しい夢を見ていた。
夢だとわかったのは目が覚めたからで、それが昨日イブキと過ごした日曜日の出来事であると思い出すのに寝ぼけた頭ではほんの少しの時間が必要だった。
「イブキ……?」
柔らかい声が朝の日差しに照らされた部屋に溶け込む。ああ、そうか今日は月曜日――。彼は仕事に行ったのだろう。時計の針は彼が慌ただしく支度をするくらいの時間を指しているが、今朝は余裕を持って家を出たらしい。
状況を理解したところで、猫は思い出したように動きを止めた。
――今日がその日だ。
ざわ、と胸騒ぎに毛布から抜け出す。考える間もなく向かった先は部屋の窓――。
そこからいつもなら焦り気味で仕事に出かける彼の背中を見送っていた。だが、もちろん彼の姿はそこにはない。
じわり、と汗が滲む。
ここである思考が声となって生まれた。
「これでいいのに……」
――あの人間はもうすぐ不幸になる。未練などない。始めからそのつもりで目を付けたのだから。
なのに、なぜこんなに胸が苦しいのか。わからない。
「イブキ……」
どうすることが正しいのかなんてわからない。ただ、我慢できない自分を抑え続けていると不安が湧くばかりでどうにもならなかった。
「…………ああ、もうっ!」
決断してからの行動は早かった。走りにくい靴など履かず、玄関を飛び出すと猫の姿で駆け出した。この体の良いところはとにかく素早く動けることだ。
彼の通る道は少しだけわかる。初めて出会った夜、そこからの帰り道までのそう長くない距離。それ以上遠くに行かれてしまうと探し出すのは難しい。
――お願い、間に合って……!
と、願った直後に猫の耳が遠方からの高音に跳ね上がる。
聞いたことのある音だ。動物の悲鳴に似ている。でも実際は自動車のタイヤがアスファルトを滑る時に出る音だ。
自分の親が轢かれた瞬間が脳裏に甦る。
「………………!」
まるで何日も食べていないみたいに体に力が入らなくなる。遅くなった足取りはそれでも彼のもとへと猫を運んだ。
「イブキ……」
見覚えのある人間が道に突っ伏している。
そこから遠くない場所のブロック塀にトラックが埋まり、場は凄惨としていた。背景と化した周囲の人間は彼を遠巻きに見ているだけで、何かしてくれているふうの者は一人、二人か。
いつの間にか人間の姿に戻っていたクロネは動かない彼を震える手で触ってみた。温かいがまるで生き物を触っている感触ではない。
「イブキ……うあああ……………………ごめんさい…………っ……」
集中治療室、とプレートの付いた一室。ぐるりと周囲を機械に囲まれた男がベッドに寝かされている。肌が直接見えるのは顔のわずかな面積だけ。椅子に座って俯く少女はもう泣くこともできなくなり、いつしか声を失っていた。
一時間ほど前、彼の仕事の上司が廊下で誰かと話しているのを耳にした。
『あんな交差点でもない見通しの良い場所であんなひどい事故が起こるなんて……』『通行人の話では、トラックは明らかにおかしい動きをしていた、と……。急ハンドルとかじゃなく、まるで何かに軌道を捻じ曲げられるみたいに突っ込んできたとか』『相手の運転手も原因がわからないと言っているそうです』『……彼女には本当に気の毒だ。精神的ショックで口が聞けなくなってしまったらしい』『医者もまだ彼が生きているのが不思議な状態だと……』
少女は考えていた。自分のやったこと。それがどんな意味を持っていたのか。
「…………」
間違ってなんていない。ずっと自分のために、幸せになるためにやってきたことだった。それがどうして今、まだ彼に付き添って悲しみに暮れているのか。もう用はないというのに。
三人分の幸せを取り込み、自分は人間になれたはずだ。猫の耳と尻尾も気が付けば無くなっていた。だからもう、人間になれた。なのに。
人間になれば幸せになれるはずなのに。
彼に買ってもらった服の裾を握り締めるこの手も、猫の自分が切望した人間の力だ。あの時に望んだすべてを手に入れたのに、幸せを感じない。
どうして、と胸につかえる。
答えは目の前にある。
いくら体を震わせても、もう嗚咽しか出てこない。
自分はどうすれば……。
「――――」
ふっ、と視界が真っ暗になる。
周りにあるはずの風景は見えず、自分の体だけがはっきりと認識できる。
『――猫。……いえ、クロネでしたね』
「君は……!」
頭の思考が声とは別のものとして外に出た。現れたのはあの時の光る猫……ではない。人の形をしている。それでも自分に禍福の天秤を与えた猫と同じ存在だと直感した。
『私は話す相手と同じ姿に見えるのです。あなたの願いが叶ったようなので禍福の天秤を返してもらいに来ましたよ』
いくつもの言葉がのどにつかえ、選びに選んでクロネはこう口にした。
「……イブキが死んじゃう! どうしたらいいの!?」
光る存在の性別すら判断しかねる端正な顔立ちは、この時ばかりはひどく冷徹な面持ちに見えた。
『あなたが望んでこうなったのでしょう。まさかここまできて無かったことにしたいのですか?』
「っボクは……、こんなふうになって欲しいなんて願ってないよ!」
『落ち着きなさい。クロネ、あなたは他人の幸せを奪って自分の物にしたのです。幸せを失った者には残った不幸が降りかかり、それには決して耐え切れない。それがわからなかったとは言いませんよね。あなたが度々、思い悩んでいたのを知っていますよ』
「――――」
『それでも自分のために二人の人間を死に追いやってここまできた。なのにどうして、彼の死だけを拒み、受け入れようとしないのですか?』
「それは……」
よほど幸運に恵まれているのか、禍福の天秤によって運気を操作されたイブキは死ななかった。とはいえ、風前の灯である。すでに悲願を遂げた自分がもう彼のそばに残る必要はなく、さっさと新しい人間としての人生というやつを謳歌しにいけばいいのだ。
それでもまだ自分がここに居る理由――。
「……わかってるんだよ。ボクは悪い子だって。でもね、ずっとだましてきたのに、その相手から『おまえは家族みたいなもんだ』、なんて言われたの、初めてだったんだ。ボク、ずっとひとりぼっちだったから……すごく嬉しかった。初めてもっと一緒にいたい、って思ったんだ……だからイブキは……イブキにはやっぱり死んでほしくないよ……。ボクが本当に欲しかったのは、人間になることじゃなくて、イブキみたいな家族だったんだ……っ!」
もう取り返しのつかないところへきて、ようやく悟った答えだった。
光る存在はそっと目を閉じ、やれやれと笑みを浮かべた。
『どうやらちゃんと人間になれたようですね。安心しました』
「…………?」
『クロネ。最後に手に入れた幸せは何か自覚していますか? 言葉。肉体。あと、ひとつ』
涙を拭い、赤く腫れた顔を上げて自信なくも答えてみる。
「……家族?」
『いいえ。ですが遠くない解答です。これは急に手に入るものではなく、ゆっくりと培うモノだったので自分でも気が付かなかったのでしょう。家族とは結果に過ぎない』
「………?」
家族ではない、自分が手に入れた物。
……あるのだろうか? 見当もつかず、降参する。
「わからない」
『以前のあなたに無かったのは、相手を思いやる優しい人のこころです。それがあるからこそ、さっきの言葉が生まれたのですよ』
クロネはきょとんと、その言葉を反芻した。
――人の心?
それがどういったものなのかどうもピンとこない。
『彼を大事に想うことができるのは、あなたが今人間であることの何よりの証明です。この禍福の天秤を渡した時、あなたがいたずらに欲しい物だけを手に入れて悪い人間になってしまうのか、――それともたとえ最後にでも人間らしい心を受け入れて良い人間として生まれ変わってくれるのか。そんな賭けを神様としたのです。もしあなたが道を誤れば、すべてを無かったことにする、という条件付きで』
通りでうまい話だと思っていた。要は試されていたのだ。
「ボクってそんなに信用されてなかったんだね」
『力を手に入れてしまうとどんな生き物も調子に乗ってしまいますから。仕方ありません』
「それはいいんだけど……」
『?』
話があまりにもずれている。
「ボクはイブキを助けられないの?」
その答えだけが欲しい。何かできるのなら、なんでもしたい。
『天秤がどのような道具なのか、ご存知ですか?』
「……ううん」
『あなたの皿に乗った幸せの分、あのイブキという人間の皿は不幸に近づいています。それをどうにかして幸せにもどしたい。……どうすればいいと思いますか?』
「えっ……と、ボクの幸せをもどしたら…………?」
『ええ。そのとおり』
「それってつまり……」
『手に入れた物を、失わなければなりません』
猫として生まれ落ちた自分が禍福の天秤を使って手に入れた物は二つ、いや三つになる。
言葉、肉体、そして人の心。イブキに足りない幸運を足してやるにはそのどれかを手放さなければならないらしい。
『……その前に、あなたに知ってもらわなければならないことがあります』
「嫌な予感がするけど……教えて」
『彼が事故に巻き込まれてから言葉を話せなくなっていたでしょう』
「事故のショックでしばらくそういうことがあるってお医者が……」
『すべての事象に科学で理由を付けなければ気が済まない人間には困ったものです。あなたが言葉を失った原因はそんなことではありませんよ。彼を救うために幸運として消費されたのです』
「……どういうこと?」
すでに幸運を一つ使っているらしい。もちろん、身に覚えはない。
『禍福の天秤はあなたの意志で動きます。彼を死なせたくないという強い気持ちに天秤が呼応し、彼に幸運を移したのです。ただ、それだけではまだ命を繋ぎとめる程度。本来ならば即死では済まず、来世でさえ苦しんだかもしれない。あなたが手にした人の心とは、それだけ大きな幸せだったのです』
ちなみにクロネがここで会話できるのは特別な精神体の空間にいるからだ、と光る存在は付け加えた。
『あなたに残された幸せは肉体と心。あとひとつ払えば彼を救えるでしょう』
「…………」
光る存在が言うには、言葉、肉体、心の順番で大きな幸せだそうだ。
この体を失うのは惜しい。裸になれば猫の審美眼からしても美しいとため息が出る。それでも……。
「ねぇ、ボクがもし人の心を無くしたら……どう変わる?」
『最初のあなたに戻るだけですよ。あの時のまま、肉体だけが残ります。ああ、記憶も残るので一応は人として暮らすことも可能でしょうね』
「…………」
揺らぐ――が、自分の言葉を思い出した。
「僕が欲しいのはそれじゃない」
『ええ。そう言ってくれると信じていました。では、ここから先はあなたひとりで。彼を呼び戻すことができるのは、あなただけなのですから』
ぱちん、と電気を消したかのように光る存在が消えた。それからすぐ、無性に走り出したくなってクロネは一目散に闇の中へと駆けだしたのだった。
どこから歩いてきたのやら。見渡す限りの真っ暗な世界。
しかし不思議と恐怖は無い。が、憶えていることはある。
「天国ってのはもうちっと綺麗なトコだと聞いていたが……もしかして地獄にでも落とされたのかな、俺」
いつもの通勤の道を歩いていると信じられないスピードのトラックが自分目がけて飛んできた。それっきりしか憶えてないので恐らく死んだものだと思っている。
「……まさか永遠とこのままってわけでもあるまいに」
自分の意思とは関係なく、足だけが勝手に動いて歩かせていた。それはずっと同じ方向で疲れることも無く、おそらくどこかに行く途中なのだろう。きっとこの先で天国やら地獄やらに辿り着くのではないかと予想している。
「あっけないもんだったなぁ……ホントに。親に子供の顔くらい見せてやりたかったが」
それ以前に彼女すらも、と言いかけて思い出した顔があった。
「クロネ……」
親とか友人に対しての先立つ不孝は置いといて、それが一番の心残りだった。
あいつはひとりで生きていけるのだろうか。
「…………」
飯の炊き方も、金の稼ぎ方すらまだ教えていない。電子レンジと箸の使いかたしか知らない見た目は大人中身は子供にこの先があるのだろうか。
それまでどうやっても止まらなかった足が、ぴたりと動かなくなった。
「クロネ」
ふり返って闇の彼方に目をむける。
神様が同情でもしてくれたのだろうか。ここへきてアイツの幻が見える。もう会えないというのに、余計に辛くなるではないか。
「…………っ」
未練を断つように、もとの方角を向きなおした。
「……………………イブキ――――――っ!」
「――――!」
幻聴で声まで聞こえ始めると、もう堪えることはできなかった。幻でもいい、最期くらい。
「……クロネっ!」
もう一度振り返ると、走ってきていたクロネの体がそのまま飛び込んできた。
「イブキ、ごめん! ごめんなさい……!」
「クロネ……」
なにがごめんなさい、なのだ。どうでもいいかと抱きしめたまま頭を撫でてやる。
「僕のせいで……こんなことになって……! ごめんなさい……っ!」
「またなにかやらかしたのか? しょうがない奴だな。許してやるよ」
たとえ相手が幻でもこれが最期なら笑っていて欲しい。
「なにもわかってないくせに……っ、もっと叱ってよイブキのばか……」
「…………? 幻じゃないのか? おまえ」
「ちがうもん! イブキを連れ戻しに来たんだよ! それ以上そっちに行ったら、本当に帰れなくなっちゃう!」
「? 帰るって……生き返るのか? そもそもなんでそんなに詳しいんだ? わけがわからないぞ」
「わからなくていいから、ほら、こっちに歩いて」
クロネが背中に回り込んで体を押すと、驚くほど簡単にそれまでとは逆の方向に歩き出すことが出来た。
「……なあ、聞いてもいいか」
背中を押されたまま歩くのでクロネの姿は見えない。ただ、その両手から伝わる温もりを感じていた。
「俺は死んだわけじゃないのか?」
「……あのまま歩いてたら本当に死んでた、……んだと思う」
感情のわからない声が返ってくる。楽しそうなのもおかしいが、違和感を覚えた。
「じゃあ生死の境を彷徨ってた、ってわけか。そこでおまえが助けにきてくれたと」
「うん……そういう感じになる」
「そか。なら――ありがとうな」
「――ふり向かないで!」
突然の叫びに思わず怯んだ。が、その後にクロネが震えた声で言った。
「ごめん……絶対に後ろを、僕を見ないで」
「…………?」
そう言うのなら従わざるを得ない。しかしようやく分かったクロネの感情が悪いものだと知ってしまった以上、ほっとくわけにもいかない。
「……隠し事があるんなら言えよ」
「………………うん」
「……言ってくれ。頼む」
「…………きっと嫌な気持ちになるよ。知らなくても済むことだから」
「おまえの辛そうな声を聞いているより嫌なことがあるのかよ」
「っ…………ばか…………」
そしてクロネはぽつりぽつりと言葉を発し始めた。相変わらず震えながらの、ひどく怯えたような声。節々でごめんなさいと背中の手が震え、それをすべてそうか、と一言で済ませた。
「……それで全部か?」
「うん…………もうボクのこと嫌いになっちゃったよね。居なくなるから、それで許して」
くるっとふり返って頬を叩いてやりたかったが、どうも姿そのものを見られるのを恐れているので代わりに前を向いたまま。
急に立ち止まり、クロネが背中につんのめる。
その後ろ頭に手を回して自分のうなじに顔を押し付け、言ってやる。
「ずっと俺のそばに居ろ。それが罰だ。いいな」
クロネの後頭部を触ったはずの手の感触が妙に毛深かったが気にしなかった。
返事はなく、そのまま数秒が流れると目の前が真っ暗になった。
いつの間にか閉じていた瞼を開くと視界は一気に明るく、白い無機質な天井を捉えていた。
――ここはどこだ?
がばっと起き上がると始めに自分の周りに置かれた医療関係の機材、そして体に繋がる無数のチューブ、花瓶を手から滑らせる瞬間の看護師の姿があった。
白衣に身を包んだ女性は蒼白な顔をして口をあわあわと動かすが中々声が出てこない。
「せ、先生……っ! 先生――っ! 二〇三号室の、患者さんが…………先生――――っ!」
看護師が絶叫しながら花瓶の水で足を滑らせて廊下をドリフト走行で走り去った後、イブキはしばらく面倒な目に遭わされた。
トラックに轢かれてぼろきれ同然だった体が、一晩でかすり傷ひとつなく、どころか欠損していた部位まで新しく『生えて』いたという。
医者でなくとも普通の人間の推理なら別人に入れ替わったと疑うだろう。ただ前日の手術の際に残っていた血や皮膚の成分から、そして仕事の関係者などの証言もあって本人に違いないとの結果が出たそうだ。
おかげで奇跡の再生能力を持つ男として新聞屋に晒し者にされそうになったものの、取材を一括して追い払ってくれた上司には頭が上がらなかった。そうやって有名になっても嬉しくは無い上に、おそらく二度目はないとわかっている。
姿が見えないのも、結局はそういうことなのだろう。
あくる日、イブキは無事に退院を迎えた。
事故から病院での精密検査も含めて一週間。脅威的な回復現象の他には何も異常が無かったのと、本人の強い要望からの早期退院であった。
病院の敷地を抜け、イブキはバス停を通り越すと歩いて帰路に就いた。病院の場所は自宅のアパートから会社の延長線にあり、途中で寄り道して上司に退院を報告し、家へと向かう。
その途中。
バスではここを通り過ぎてしまうのだ。
とある民家の、ブロック塀の上。
まんまるな目玉が二つ、こちらを見下ろしている。
手を伸ばすと逃げることも無く、頬を撫でても嫌がらなかった。
「待たせたな。お腹も空いただろうに」
猫はにあんと鳴き返し、体を斜めに伸ばして欠伸をした。
ちゃんとそこに居てくれたことに感慨深くイブキは笑いかける。
「帰ろうか、クロネ。愛しのぼろアパートに」
彼が呼ぶと猫はとっとっと、と後ろを付いて歩き始める。
お気に入りの声も体も失った。
でも、その猫はようやく自分の一番ほしかった幸せを手に入れたのだった。
ここまで読んで下さった方、お疲れ様です。ありがとうございました。