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第四章

 最近は不運なことが多い。クロネが家に住みつくようになってからよくそう思う。

 今日は何事も無く、大丈夫だったと油断したのが災いであった。

 ――帰りの電車。

「お客さん、終電になりますので……」

「ん…………?」

 よく回らない頭を起こすと、くたびれた中年の車掌が迷惑そうに自分の肩を揺らしていた。

 状況を理解するのに五秒ほど要し、ああ、と立ち上がるとイブキは謝りながら連れを起こして車内を後にしたのだった。

 ほとんど無人のホームを早歩きで出口を探す。

「随分と遠くの駅まで運ばれたらしいな……歩いて帰るのは無理そうだ」

 ふらふらとおぼつかない足取りのクロネの手を引いて乗り越しの清算を済ませ、ひとまず駅の建屋から外に出た。

 ひんやりと夏にしては心地よい夜の空気が身を包む。どうやらさっきまで雨が降っていたらしい。ところどころ水たまりができて真っ黒の天蓋を足元に映し出していて綺麗なものだ。足を乗せればどこまでも沈んでいきそうな、などと思う自分はまだ寝ぼけているのかもしれない。

「お家に帰れないの?」

 これからのことを思案していたイブキに眠たげな声が掛かる。あまり不安そうでないのはさすが猫といったところか。その気になれば野宿でもすればいいと思っていそうな顔だった。

「ああ。どうやらな」

「どうするの? ボク眠たいよ……」

 コンビニで立ち読みをして一晩を過ごすという案は口に出す前に否決されてしまった。眠そうな猫に起きていろと命令して叶う気がしない。

「となると……漫画喫茶ってのに行ってみるか。あそこは現代の木賃宿らしいからな。ネカフェ難民とはよく言ったもんだ」

 テレビで特集されているのを見た時はさすがに笑っていたが、こうして自分が途方に暮れてみると存外に馬鹿にできないものだ。

「ボクは眠れるならどこでもいいよ……」

「駅前なら探せばいくらでもあるはずだ。少し歩こう」

 座り込むクロネを励まし、鮮やかな光を放つ建物の群へと二人は歩いて行った。

「……ここも満席だってさ。これで三件目、住み着いてる奴でもいるんじゃないのか」

 予想以上に難民キャンプは拡大を見せていた。

 辛うじて空きがある店もあったのだが、同室は二人までで、それも異性同士だと使用できないと断られていた。まあ何となく理由はわかるものの、それでもクロネと別の部屋になるのは心配があり諦めた。

「イブキぃ……もう歩くの疲れたよ……」

 こうなったら長距離覚悟でタクシーにするかと携帯を取り出した矢先。

 不運とは続くものである。

「あっ」

 視界の隅で転ぶのが見えた。それだけなら良かったのだが、どうも地面に着いた時に嫌な音が聞こえた。

 擬音にするなら、ズバシャア! だろうか。泥の混じった水飛沫がイブキのジーンズにもかかった。

「あ~~あ……。やってくれたな……」

 怒る元気もない。ただやりきれない乾いた笑いのみが出た。

 状況はさらに悪化。

 時間は深夜。家に帰る電車はもう始発まで待たなければならない。よってここらで一泊できる場所を確保しなければ残された道は凍えるのみ。夏場とはいえ、それ故に薄着なのだ。

 最終手段のタクシーも潰えた。それに体の前面が泥水でびしょびしょの少女を乗せてくれる親切な運転手もここ都会ではあまり期待できない。そもそも、田舎だろうとタクシーとはそういうものだ。

 服が濡れていては公園のベンチで缶コーヒーでも買って一晩乗り切るというわけにもいかない。とにかく宿泊施設を確保してやらなければ風邪を引いてしまう。

「ごめんね、ボク、悪いことしてばっかり……」

 元気と好奇心だけが取り柄の者にこう弱気を見せられるとイブキも弱い。

「今はいい。だがもう場所を選んでいる余裕もないな…………」

 夜空に煌々と光る看板を見据えながら、覚悟を決めた。

 実は寝床を確保できる場所の候補はまだ残っている。おまけにシャワーまである。だがそこはちょっと料金が高いうえにごにょごにょした場所なのである。

 だがもう仕方がない。

「初めてだよ、こんなトコに入るのは……」

 受付で顔が見えないのは仕様である。事務的に手続きを済ませ、受け取ったカギのナンバーの部屋を探した。

「イブキ、ここってなんだかさっきまでのところとは感じが違うね」

 漫画喫茶やネットカフェはあくまで喫茶店の名目である。対してここは『休憩所』と呼ばれる施設だ。実質は感じが違うどころの騒ぎではない。

 部屋に入るとそこはやはり異質な空間であった。

 大きなベッドが一番に目を引き、明るいとは言い難い間接照明が醸し出す独特の雰囲気は、慣れない者にただならぬ緊張を呼び起こす。

「……ここが風呂だな。クロネ、服を洗ってやるから一人で入ってろ」

 一人で使うには勿体ないほどの浴場に彼女を残し、イブキは受け取った衣類を洗面台で手早く洗濯した。それを軽く絞ってからハンガーに通し、やれやれとベッドに腰を下ろす。

「何やってんだろうな……俺」 

 ため息を吐いて冷蔵庫の戸に手を掛ける。中身は割高で後から清算しなければならないが、何か飲みたい。酔ってすぐ寝てしまうのが一番だろう。

 英語ではない外国語の記された酒瓶を手に取り、やはり戻した。

 本人も自慢ではないが、イブキは酒がまったくといっていいほど飲めない。缶一本で顔が赤くなり、二本目で記憶を残せなくなる。ここで今こんなところに置いてあるような高い酒を飲めばどんなことをしてしまうか。

「何を考えてるんだか……」

 一番端に並んでいたコーラの瓶を取り、栓を開けると一気に煽った。

「度胸の無いガキにはこれがお似合い、か」

 世間知らずの子供より無防備な娘をこんなところへ連れ込んでおいて、と悪い心が嫌味を言う。やましい気持ちがあったのだろう、と。

 もし酒を飲んでいたらこの声が理性を押し倒してしまうのだろう。そうならないようにイブキは冷蔵庫を閉じてベッドに寝転んだ。

 落ち着かない寝床ながらも、うつらうつらとし始めたころ――。

「イブキ、ねぇ、イブキ?」

 ぼんやりと狭間の意識で見ていた電車の車掌の顔が若い娘の柔らかい輪郭に変わる。揺すられて起こされたのが原因か。不機嫌そうに体を起こして用件を聞く。

「のど乾いた。冷蔵庫のジュース飲んでもいい?」

 空になったコーラの瓶を見てそんなものがあると知ったらしい。おまけに上気した体にはだけたバスローブ姿などで迫られれば、どんな要求をされても首を縦に振ってしまいそうだ。

「ちゃんと前を閉じろ。……行儀が悪い」

 寝起きの眠たさが幸いして今ので妙な気を起こすことは無かった。ただこのままもう一度眠りに落ちるのは困難であり、一度風呂に入って頭を冷やそうと思った。

「言っておくが、一本だけだからな。何本も開けるなよ」

「うん。これだけあると迷っちゃうよ……」

 いい気なものだ、と呆れながら風呂に入ったのだった。

 そして。

「……おまえ何を飲んだんだ」

「えへへぇ……」

 風呂上りのさっぱりとした気分は、クロネの周囲から立ち込める濃厚なアルコール臭によって消毒された。

「こえ……いうきもほんだら?」

 その手にあるのはさっきイブキが手に取った酒瓶である。せん抜きを使わないと開けられないジュースの瓶の王冠よりも、キャップを回せば外れる酒瓶が手に取りやすかったのかもしれない。

「貸せ」

 猫にマタタビをやると似たような症状になるが、人間がこうなると可愛げもあったものではない。

「洋酒……しかも五十度っておまえこれ……」

 小瓶とはいえかなり軽い。自分が同じ量を飲んだらもう死ぬほど長い眠りに就きそうな気さえする。

「……気持ちが悪くなったらすぐに言えよ。洒落にならん」

 睡眠中に嘔吐して吐しゃ物をのどに詰まらせて……という死因すら笑い話としてあるのだ。酒は飲んでも飲まれるな、とこいつに言っても理解できただろうか。

「うん……うん」

 こっくりこっくりと幸せな間抜け面、いや無垢な笑顔と言ってやる。

 そんな酔っぱらいを傍から見れば幼児でもあやすようにベッドに寝かしつけ、毛布を被らせる。照明を落とし、やれやれとイブキも背を向けて毛布にくるまった。



 土曜の次は日曜日。

 この休日が終わればまた忌々しい月曜日がやってくる。せっかく連れもいるということでイブキはもう少し遊んでから帰ることにした。

「さっきのすごかったね。がーん、ばりばりっ! って、ボクびっくりしちゃったよ」

「そりゃポップコーンを食べるだけのBGMとしちゃあ派手すぎたろうよ。せっかくおまえでも楽しめそうな子供向けを選んでやったのに。前半はほとんど見て無かっただろう」

「だって美味しかったんだもん。えいがかん、また行こうね」

「まあ……別にいいけどよ」

 どうやら映画よりも映画館そのものをアトラクションとして捉えたらしい。だが何も知らなければそれもそうか、と次の行先を決める参考にする。

「腹が減ってきたな。繁華街にでもいってみるか」

 ここにきて気が付いたことがある。クロネは人間になろうと努力している(らしい)身であるが、やはりまだ心、つまり中身は猫である。人間を変わった生物として、一歩下がった視点から観察している。

 これが突然人間になればどうなるのか。ラーメンに箸を使うことに疑問を抱くのはやはり人間ではないからであり、人からすれば当然の慣習である。

 ならば彼女が人間になった暁にはそれをなんとも思わなくなるのだろうか。猫と人間の差を段差に例えるとそれはもう『壁』に近いはずだ。

 なら、こいつは人間になった瞬間にクロネではなくなってしまうのではないか?

 そんな疑問が湧いたのだ。

「店員さんが間違えて俺のほうに置いたが……その大盛りを食べきったのはまだ数人しかいないそうだ」

 ボウルのような丼ぶりにこれでもかと濃厚などす黒いスープ。一日に必要な量を一食で摂取できそうな野菜。その下には並盛の麺が三玉沈んでいるらしい。

「ちなみに食べきったらタダなんだと」

 おそらく客引きのために作ったネタ的なメニューと思われる。それが運ばれてきたあたりから周囲の視線もそれとなく感じ始め、たまに携帯のシャッター音すら聞こえる。

「ごちそうさま」

 終始変わらぬ早さでぺろりと平らげたクロネの腹は多少ぽっこりと膨らんでいるが、それでも大部分が消失しているのは間違いない。きっと人間になったり不思議な力を持っているのでそれに吸収されたのだと納得しておいた。

「あんまり美味しくなかったね」

 去り際の無邪気なセリフに惚れたのは自分だけではなかっただろう。

「イブキ、次はどこにいくの?」

 子犬のように元気な連れを隣に歩かせ、日が暮れるまで思い付く限りの遊びをやって回った。普段は寝て過ごすだけの日曜にこれだけ運動をするとやはり疲れる。

 が、やはり楽しかった。

 こんな日がずっと続けばいい、とさえ考えていた。

それはもう、夢のように。

 楽しい夢が終わるのは、いつもそう思ってしまった時なのだ。

 夕焼けに染まる公園のベンチで佇むクロネのもとにイブキが戻ってくる。

 手には屋台のたい焼き。それを受け取りながらクロネは口を開いた。

「ねぇ、イブキ?」

「あん?」

 たい焼きの頭からかぶりつくイブキが視線で応える。

「もうすぐお別れしないといけない」

それだけ言ってたい焼きの腹にはみついた。

 ゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、静かな声が返ってくる。

「……それはもうすぐおまえが人間になれそうだ、ってことか?」

「うん」

「それはまた、……急だな」

「言おうと思ってた。けど、言いだせなかった……」

 一口目からはたい焼きを口にしないクロネの口調は重苦しい。イブキは缶コーヒーで口の中を流してからため息を吐くように言った。

「……寂しくなるな」

 ベンチに背を預け、赤みを失くして黒ずんできた空の境界を見上げた。

 しかし隣のクロネは少しだけ驚いたようにイブキを見返している。

「寂しいの? ……どうして?」

 ほんの少しだけ嬉しそうに見えるのは気のせいだと思った。

「そりゃおまえ……そんなに長く一緒だったわけじゃないが、俺は家族みたいなもんだと思ってたさ。いきなりお別れなんて言われたらそう思うのは当たり前だ」

「家族……」

 淡い期待が叶ったような笑みが浮かびあがり、それはゆっくりと夕焼けみたいに沈んでいった。

「……俺はなにか変なことを言ったか?」

 ちょっと恥ずかしい言葉を言わせておいてそんな反応をされると気になってしまう。

「――ううん。嬉しいよイブキ。ありがとう」

 こんなに幸せなセリフなのに、イブキは笑い返すことが出来なかった。昨日の初めて海辺に立ってふり返った時の笑顔と、はっきりとしない違和感を感じていた。

 


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