第三章
「ねぇイブキ、お魚はどこ?」
「そりゃ建物の中に入ってからだ。列から出るなよ」
受付の窓口から伸びる長蛇の列。開館初日の水族館は結構な人の入りようだ。
並んでいる客は大体が若者か、小さな子供を連れた家族が多い。こと若者に関しては仲睦まじげなカップルのデートスポットといったところか。
自分達も他人からすればそう見えるのだろうが、残念なのは連れの中身の幼さにある。
「ねぇ、イブキ……?」
「ん?」
「おしっこ……」
「…………」
自分たちが並んでいる位置はちょうど列の真ん中あたり。並び始めてから十分は経っているのでそこそこ進んでいる。
受付でチケットを買うまではおそらくもう十分は掛かるだろう。加えて係の者の対応も不慣れな感じがして列が止まるのもしばしばだ。
「参ったな……」
我慢はできそうか、目配せをするもクロネは即座に首を振った。
列を整理している従業員にトイレの場所を聞き、またこの場所まで戻ってくる――。せめてこいつが人間の小学生程度ならそれができると信じられる。
しかし最近まで野良の猫だったクロネにその過程でどんな些細なことが障害に成り得るのかは、全く予想がつかない。だから酷なようでも居候させる条件として普段の外出を禁じていたのだ。
飼う、とまではいかないにせよ、監督者としてサポートする義務がある立場を引き受けた自覚はある。
イブキは仕方ないと諦めると、列からクロネを連れ出したのだった。
「……手は洗ったか?」
「うん」
「その手はどこで拭いた?」
「えっと……」
言葉に詰まるのは失敗に気付いたから。
「ハンカチを渡しただろう? もう服で拭うのはやめろよ」
「うん」
チケットを買うための列に並び直すこと十数分、ようやく窓口に着いた。
「えっと……大人一枚で二千円か。さすがだな……」
「お金足りないの?」
「ばか。すいません、大人二枚で」
覚悟はしていたが入場だけで四千円は痛い出費だった。しかしここで金の心配をされるのも情けない話である。
「余計な心配はしなくていいんだよ」
癖っ毛の頭を軽く突いて館内の入り口へと進む。ここから先は建物の中を指定されたコースに沿って進むようになり、最終的には一周して別の出口から外に出る造りなのだとパンフレットに書いてあった。
つまり一方通行で一旦中に入ると戻れなくなるのだ。
「イブキぃ……」
駅でクロネが派手にクラッシュした自動改札機によく似た装置。人が通ると一緒にバーが回転して戻れなくなる仕組みなのだが、どうもこの手の機械が苦手になってしまったらしい。
「これはぶつからないって」
難なく通ってみせてクロネを呼ぶも、なかなか通ろうとしない。さながら長縄とびでタイミングが掴めずに立ち尽くしている小学生を見ている気分だ。後ろが詰まりだしてから、そしてイブキに手を引かれ、腰も最高に引けた状態でようやくクロネは入場を果たすことに成功する。
「おまえといると退屈はしないで済みそうだ」
「うん? ボクはもうなんだか疲れちゃったよ……」
皮肉も効かないこの相手には悪意や呆れの感情も風化させられてしまうのか。
「あ、お魚!」
そしてそのスイッチが切り替わる早さにはまったくもって振り回されてばかりである。
入場して始めに通りかかる水槽の中には挨拶代わりに小さめの魚が群れを成して回遊していた。大きな水槽が壁に埋め込まれ、窓から水槽の中を覗くような凝った造りとなっている。
ガラスに顔を押し付けて魚影を網膜に焼き付けたい気持ちなのだろうが、生憎と人が多くて接近を阻まれていた。頑張って背伸びをしている姿が実に微笑ましい。
「先に進もう。ここは入り口のすぐだから人も溜まりやすいんだ。奥にいけばもっと楽に見れるだろうさ」
いくつかの開けた部屋に特定の種の生物のコーナーがあり、その間の廊下にも壁から小さな水槽が覗けるようになっていて中々飽きさせない構造である。次第にイブキもその魅力に飲まれていった。
「これは何?」
「クラゲだな。どれ……パープルストライプドジェリー、というらしい。すげー名前だな。アメリカに生息してるそうな」
「綺麗だけど美味しくなさそう」
「クラゲは大概そんなんだろうよ」
「こっちもクラゲ?」
「ああ。この部屋の水槽はみんなクラゲっぽいな。……ハブクラゲ、猛毒を持つハブよりも強力な毒を持つ……か、こえーなクラゲ」
「ハブってどんなの?」
「ハブは蛇だよ。毒のある危険な奴だ」
「蛇なの? 蛇は美味しいけど骨が多くて好きじゃないなあ」
クロネの横で子供とクラゲを観賞していた母親がぎょっとしたので静かに退散する。
「もうちょっと見たかったのに」
「今のはおまえが悪い」
部屋を抜けて次のコーナーに進む廊下。
ここでクロネが口を開いた。
「そういえばずっと坂道だね。疲れて来たよ」
「ん? 言われてみれば……なんでだろうな」
館内は入場してから緩やかな上りのスロープが続いている。その理由はさらに先に進むことによって明らかになった。
「……すごいな、これは」
ここから廊下は一定のカーブを描きながら長い下り坂へと変わる。そしてその螺旋の内部を大黒柱のように貫く巨大な円柱があり、それがこの水族館の目玉だという。
直径十五メートル。それだけでプールと見まがうほどの大きさだ。それがなんと高さ三十メートルの巨大水槽になっていて中に大小様々な海洋生物を共生させているのだ。現在自分たちの居る場所がその水面付近の高さにあり、ここから廊下に沿って下りていくことで観察できる水深も深くなっていく。それはまさに凝縮された小さな生態系だ。
イブキが圧倒されたのも無理はなかった。
「クロネ。そろそろ……だな。先に進まないか」
一か所に張り付いて動かない連れはどうやらエイの子供にご執心のようだ。
「見てみて、付いてくる!」
水槽のガラス越しに手を近付けると小さなエイはそれに反応して近付いてはぶつかるを繰り返していた。他にも子供たちが似たようなことをすると別の魚は逃げたりそれを追いかけてくるくる回ったりと反応は様々で客を喜ばせている。
「あんまり意地悪をしてやるな。ほら、まだ先は長いんだから」
「はぁい」
水槽の底の高さまで降りてきてようやく廊下の斜面が終わった。どうやらこのあたりで軽く休憩できるらしい。開けた部屋の端には長椅子に飲み物の販売機、そしてトイレの案内が出ている。
「すまん、ちょっと待っててくれ」
「どうしたの?」
「……便所だ。おまえは平気か?」
「ボクはさっきした」
「だったな。じゃあ、すぐもどるから」
「うん」
イブキがトイレに入ってからクロネは長椅子に座って彼の帰りを待っていた。
すると。
「……っ……、……ひっく………」
「?」
人がそれなりに混んでいて決して静かとは言えない館内。だが、彼女の耳がある小さな声を聞き分けた。
「ママぁ……」
気が付けばクロネは人の間を縫っていた。イブキに待っていろと言われた長椅子から離れ、固く禁じられていた外での勝手な行動を取っていた。が、本人はそんなことを気にしない。
「どうしたの?」
「…………?」
それは猫が好奇心で面白そうな物に興味を示すのと同じだった。
「どうして泣いてるの?」
クロネがしゃがむと目線の高さは同じになる。
「ママと……お母さんとはぐれたの」
「そうなんだ」
親とはぐれたのか。
自分の常識なら親とはぐれた子の運命は悲惨なものだ。ただ、人間は少し違う。
普通なら同じ猫でも他を差し置いて自分が良いようにする。それはどんな種でも当たり前のこと。
でも、人間は互いに助け合って生きようとする。
自分は人間になろうとしているのだ。ならば、それに倣う努力はするべき、か。
「……じゃあ、お母さんを探してあげるよ」
「……おねぇちゃん……」
人間なら、どうするか。
これがイブキなら放っておきはしないと思う。
猫から人間に変わろうとしている自分がいる。
なんだか胸がドキドキして、楽しい。こんな気持ちは始めてだ。
本当の人間になれたらもっと楽しいんだろうか?
「ねぇ、きみのお母さんはどんな人なの?」
「背が高くて……とっても綺麗なお洋服。でも……ここにはいないみたい」
「そっか。じゃあもっと奥にいったのかも。探そう」
「うん……」
つい先日まで猫だった自分が、体は幼いが何倍も人の生活を歩んできた子供の手を引いて歩いている。
それがなんだか可笑しくて、猫は笑っていた。
――あとでイブキに怒られるかな。でも、きっと許してくれる。彼はそういう、良いヒトだから。
ふっ、と我に返る。
おかしな気分だ。人間に対して、いやすべてにおいても初めて抱く不思議な感覚。
なんだろう……悪い物でもない。
ヒトは自分が人間になるための栄養、成長するためのご飯みたいなものだ。イブキはたまたま今回の獲物だっただけで、それ以外の何でもない。彼が不幸になり、その幸運を貰って願いが叶うのだから。
「おねぇちゃん?」
「うん、なんでもないよ」
巨大水槽の部屋から二人が消えたあと。
長椅子の前でイブキは立ち尽くしていた。
『待て』は犬の躾だ。……それでもそれくらいは出来ると期待した、いや信じた自分が馬鹿だったのか。
人間の体に不慣れでしかも女のクロネならともかく。
男の小便など数分で戻ってこられる。事実こっちは数分で帰ってきた。なのに。
「なんでもう居ないんだ……」
うなだれるのも束の間、広い室内をこれでもかとばかり首を動かして探す。
が、居ない。
「どこ行きやがったんだあいつ……」
そういえば水槽の水面付近で熱心にエイの子供と戯れていた。あそこに戻ったのかもしれない。
螺旋状の廊下を下りていく人の流れに逆らいながら、イブキは走った。
これで見つけたらどうしてくれようか。
しかし。
「居ない……」
当てが外れてじんわりと焦燥感に駆られる。
本当にどこに行ったというのか。さすがに自分で先へ行くことはしないと思うが……。
「…………ああ」
そうか、なぜこれを先に思い浮かべなかったのか。
やれやれと取り乱した自分に呆れながら長椅子のところに戻る。
あいつも便所に行っただけのことだろう。
急に催すことは誰にでもある。人の姿になって日が浅いあいつなら尚更のこと。
なに、待っていればそのうち便所から出てくるさ。
しかし、十分が経過しても彼女が出てくる気配はない。
さすがにイブキも心配になってきた。近くを歩いていた女性従業員に事情を話して見てきてもらうことにする。
「どうやらお連れの方はトイレにはいらっしゃらないようですが……」
消えかけていた焦りが再び。
「そうですか……どうも」
無意識に携帯を取り出していたが、気付いてポケットに押し戻す。あいつに何か持たせておくべきだったか。いや、これくらいの約束も守れないクロネにそもそもの原因が……――違う、いまはそんなことはどうだっていい。
とにかく探さなければ。安堵も叱咤もあとの話だ。
ここにいないのなら、奥へ進んだとしか考えられない。待っていろと言ったのに。
「……まさか」
嫌な予感が走る。
性格も言動も小学生並みのクロネだが、その姿形は程よい甘みを帯びてきた年頃の娘だ。あまり意識しないようにはしていたが中々の美人でもある。
イブキがそれに対してあまり異性としての意識をしていないのは、彼女のあまりの幼さと人にあらず獣にあらずといった存在への畏怖の念を残しているからである。どんなに美人でもその不気味さは変わらない。
ただ、それを知らなければ。
外の世界には初対面だろうが気軽に異性に声を掛けられる不可解な人間が割といたりする。
――わざわざこんなところまでナンパしに来るやつがいるとは思えないが……。
それでも、言葉に乗せられてだまされてホイホイと付いていってしまうクロネの姿が容易に想像できてしまう。
「…………まさか、な」
悩んでいる場合ではない。ここに居ないのならそう考えるべきだ。
と、足を踏み出した矢先。
「――うわっ!」
イブキは自分の靴の紐を踏み、その場で派手にすっ転んだ。
くすくすと聞こえてくる笑い声に頭を冷やし、起き上がると館内アナウンスが響いた。
「迷子のお知らせです。オレンジ色のTシャツを着た五歳の男の子を探しています。お見かけになった方は館内出口前、迷子センターまで……え? あ……この子? この子ですか? ――ああ~~、良かったですねぇ。――あ、…………ごほ、失礼しました。先程の迷子の男の子が見つかりました。では本日ご来館のお客様、引き続き水中の神秘をお楽しみ下さい……へ? ああ……、はい。では」
もはや不慣れでは許されないほどぐだぐだのアナウンスに客が注目し始める。あれで呼び出せばクロネも見つかるだろうか、などと考えた。
「続いてもう一件、迷子のお知らせになります。黒い半袖の上着を着た……イブキ様、お連れ様が迷子センターにてお待ちです。お腹が空いているそうなので早く来て欲しいとのことです。以上でした」
この時何よりも不運だと感じたのが、黒色の半袖を来ているのがそのフロアでイブキだけということだった。
「あの野郎……!」
さっき転倒した時とは比較にならない周囲の温かい視線に包まれながら、イブキは迷子センターがある出口まで顔を赤くして走り出した。
「――あ、イブキ!」
水族館の展示物に目もくれず、ひたすらに突っ切って迷子センターに辿り着いたイブキを迎えたのはすっかり暇を持て余したらしいクロネだった。
手にはうずまき型の棒付き飴を握り、こちらを見るなり大きく手を振った。
「…………その飴はどうした?」
肩で息をしながら山ほどある言いたいことを飲み込み、それだけ口にした。
「あのおばちゃんがくれたの」
指さす先には土産物売り場。迷子センターとは目と鼻の先にある。そのレジの女性店員の片眉が歪んだように見えた。
きっとサービスでくれた物だったのだろう。凄まじく殺気に近い波動を感じる。もしかすると独身なのかもしれない。
「そういう時はな、……『お姉さん』って呼ばなきゃダメなんだよ……」
とりあえずクロネをその場に待たせてイブキは飴の礼の意味を含めた適当な土産を買いに向かう破目になった。
水族館を抜けた先には、敷地内の駐車場を挟んで食事や買い物を楽しむための別館があり、その中のファミレスで食事をとることになった。
「つまりおまえが居なくなったのは迷子の子供の親を探してあげていたから、と……」
「うん。放っておいてもよかったんだけどね」
つんとして面白くなさそうな態度と返事が返ってくる。
これにはこちらに原因があった。
クロネを見つけてからというもの勝手に居なくなったことを追及して、それが少々怒り気味でしつこかったのが彼女の癪に障ったらしい。良い事をしたつもりでいたのに褒められるどころか怒られるのは確かに機嫌が悪くなるのもわかる。
ただ、こちらも散々心配させられた分には文句を言わせてもらいたい。
少なくとも、迷子を見つけてからすぐに探しに行くのではなくて、自分が戻るのを待つことだって出来たはずだ。クロネより自分の方が正しい判断が下せるのは間違いないのだから。
イブキはそれを言おうとして、やはりやめた。
「いや……まあ、そう言うなよ」
子供が善かれと思ってやったことに対してケチを付けるのは大人げないことだ。そもそも、迷子の子供よりも人生経験の浅いクロネに最良の判断を期待することがどうかしていると考えるべきだろう。
「何も知らずに怒った俺が悪かった。クロネの方が正しかったよ。ごめんな」
「…………」
ぶすっと外の景色を見たままこちらには目を合わせようとしない。
そして外の方を向いているのに視線がまったく動かないのはおそらく何かを考えている証拠。
それが何なのかは彼女の性格を思い出せば容易に汲み取れる。
「――そろそろ、何か頼むか……?」
フードの小さな突起が僅かに動いた。どうやら正解のようだ。
「好きな物を頼んでいいから。何だったら甘い物もあるぞ?」
ようやくこちらを向いてくれた。しかめっ面を保とうとしているのがよくわかるが、残念ながらメニューの写真を見た瞬間にそれは崩れ去っていた。
「……どれが一番おいしいの?」
食い入るように、話す時でも目は離さない。
表記された文字が読めなくとも、写真を見ればそれがいかに美味そうなものであるかは大体わかる。ただ、このチャンスで食べられるのはせいぜい一品。二品頼んで半分ずつ食べるという荒業もあるが、食欲が支配する今の彼女にその発想は無い。
「ふむ……これなんかどうだ、『海の幸がたっぷりエビピラフ』……そのまんまだな」
「本当に? これが一番おいしい? こっちよりも?」
メニューを眺めて直感的に美味そうに見えるのはやはり鮮やかな色彩が目を引く、『超・海鮮丼』。そのお値段二千円也。ちなみに『海の幸がたっぷりエビピラフ』は八百八十円とこの一覧の中では非常にリーズナブルである。
「ああ……それは確かに見た目は美味そうなんだが……な、ちょっとおまえの口にはあわないかもしれない」
「食べたことあるの? ここって今日がはじめてじゃないの?」
「ん……そうだっけか」
「イブキ」
「…………」
「ヒトって嘘をつく時に胸の音が早くなるんだよ」
「っ」
「ほら、また早くなった」
じっとりとまとわりつくような眼差しが貫いてくる。
「……じゃあ俺はこれにするよ」
一番安いピラフと突き抜けて値段が高い海鮮丼がテーブルに揃ったのはそれから三十分ほどしてからだった。
それにしても、混雑しているとはいえ十分で運ばれてきたピラフと三十分要した海鮮丼の違いは何なのだろうか。おかげでクロネが海鮮丼に挑む頃にはピラフは半分近くをつまみ食いによって失われていた。『待て』ができるのは本当に犬と人間だけのようらしい。
それでも自分の分はぺろりと平らげ、デザートの写真を真剣に見比べる食欲はその体のどこからやってくるのか。
「そんなに美味いか?」
「――うん!」
幸せそうでなによりだった。
昼食を済ませると水族館での遊楽はそれで終いになり、まだ日が高いのでもう少し遊んで帰ることにした。
「この辺は海沿いの観光地で遊ぶ場所も多い。映画館やゲームセンターなんかもある。おまえが喜びそうな人間の文化みたいなものを見て回るのもいいかと思ったんだが……」
「うん。でもここが良かったの」
二人は海に来ていた。
じりじりと焦がすような太陽の熱射に耐えながら、なるべく人の少ない浜へと降りる。
一年で一番暑い季節にこの場所にくれば混雑しているのは目に見えていた。それでもここへ来たのはクロネがそう望んだから、以外に理由は無い。
小さな布を体に付けて楽しそうに波と戯れている人間や、わざわざ暑い場所へきて傘を広げて砂の上に寝転がる行為は彼女の目にどう見えているのだろうか。
それとも、自分も水に入ってはしゃぎたいと思うだろうか。
「――いいところだね。なんだか落ち着く」
クロネは砂を踏む感触を確かめつつ歩んでいく。
「おっきいんだね、とっても」
さざめく波から打ち返される陽光が眩しいほどだ。それを背景にクロネはこちらをふり返って楽しそうに笑っている。
「あまり服を濡らすなよ」
そう言い残して砂浜に放置された日よけのパラソルの下に寝転んだのだった。
いつの間にか寝ていたらしい。
「あぁ――」
そんな声で目が覚めた。
「……クロネ?」
「崩れちゃった」
「?」
体を起こすとどうやら隣で砂の山を作って遊んでいたらしい。それが波に持っていかれたのだという。
何か言おうとして寝ぼけ眼を擦り、はっと重大なことに気付く。
「……もう真っ暗じゃないか! なんで起こさ……」
言葉を飲み込む。これでクロネを叱るのは理不尽かもしれない。
――暗くなったら帰らなければいけないから、眠っている連れを起こさなければならない。
これがイブキの常識でも、クロネにはそれがわからないのだ。
視界の中には夕日の赤みがほんのりと海の彼方に漂うだけで、浜辺にいるのは自分達だけ。足して言うなら、もう少しで足が波に飲まれるところまで潮が満ちてきていた。
「ごめん。もうちょっと遊びたかったから……」
フードの下の耳がぺったんこに潰れているのがわかる。
イブキはすっかり砂にまみれた自分の服を払って立ち上がると、同じく湿った砂で汚れたパーカーの背中を軽くはたいてやった。一体どんな遊びをしていたのか聞くのが怖い。ただ、言いつけをきちんと守って耳と尻尾を晒すような真似をしなかったので許してやることにした。
「明るいうちに説明しておけば良かったが、海には満ち引きというのがある」
仄暗い海面からの穏やかな波の音に気を落ち着ける。
「明るい時よりも波が陸に近くなっているだろう。このまま寝ていたら……どうなったと思う?」
「うん……ごめんなさい」
「知らなかったなら仕方ない。でも、人間になるなら憶えておいたほうがいいかもな」
さあ帰るぞ、と踵を返す。軽い足音が追ってきながらこう問いかけてきた。
「ねえ、人間はみんなこれを知っているの?」
「ん? もちろんだとも」
「じゃあ、どうしてそうなるの? イブキにはそれがわかるの?」
どうして海の水が増えたり減ったりするのか。猫にはわからない。
「――あいつが海を引っ張ってるからだよ」
そう言って指さした先を見てクロネはこう言った。
「……へんだよ」
「?」
「イブキが嘘ついてるのに音が変わらない」
やや遅れて、心音で嘘がわかるという昼間の話を思い出す。
「嘘じゃないって」
「さすがにボクも騙されない。わかるもん」
イブキは額に手を当ててどう説明すれば納得させられるかと悩んだ。
月の引力の話などクロネには理解できるわけがない。さらに引力とは何なのか、どうしてそうなるのか、と突っ込まれればさすがに口で説明できる者はそういないだろう。
――悩んだ挙句、適当に返してうやむやにしてしまえとの結論に至った。
「いいか、昔、空を飛んであそこに行った人間もいるんだぞ」
「嘘だよ。ヒトは空なんか飛べないんだ」
「おまえの目がどのくらい優れているのかは知らんが、じっと凝らせばあそこに人間が立ててきた旗が見えるかもしれないな」
「本当に……?」
そういえばその話は嘘だったのではないかとか検証する番組も最近ではめっきり見かけなくなった。流れ星で願いが叶うとかいうのと同じ程度のロマンだけ残して、世間から忘れられてしまったのだろう。
月からの引力で潮の満ち引きが起こることや、何十年も昔の宇宙船が置いてきた旗。どちらも誰かが作った資料から学んだ知識に過ぎない。
そういう情報に触れたことが無いクロネが、人間だけが共有している情報に基づいた『答え』を教えられても首を傾げるのは自然な反応だ。信用できないから途中の計算式を求めるのは何もおかしくない。
そう考えると、自分で解明したわけでもなく、常識とされている現象の答えのみを憶えてそれをしたり顔でクロネに自慢しているのはあまり格好が良い物ではないな、とイブキは思った。
「――もしかしたら、な」
アポロが立ててきた『らしい』旗を、目を細めて真剣に探し始めたクロネをしばらく見守っていた。