第二章
春野依吹のもとに猫が居ついてから一週間ほどが経っていた。
「あいつ、どんな顔をするかな」
自転車のハンドルに提げたビニール袋が今日も揺れる。
この日もイブキは仕事だった。週末の休日出勤を回避するために残業をした帰りであり、携帯電話の時計は午後九時を回ろうとしている。
「毎度のこと、うちの部署は納期が早すぎるんだっての。んで設備投資をしない会社は大概にしろってな」
ちなみに今日も徒歩での帰宅である。どうも最近自転車の調子が悪いのか、かれこれパンクを四回も繰り返していた。それに就職祝いに親から貰った腕時計も壊れてしまい修理に出している。不思議と身の回りの物が壊れることが多くなった。
「黒猫は不吉と言うが……まさかな」
そういえば、あいつに叩き壊された目覚まし時計も新たに買わなくては。いつか弁償させてやる。
などと考えているうちに安らぎのボロアパートに辿りつく。
「ただいま。飯だ」
部屋の玄関を開けと必ずそこに彼女が立っている。こいつはどんなに足音を忍ばせてもこうして待っているのだから面白い。
その猫は二本足で立ち、待ちきれない様子で前足を差し出してくる。
「おかえり。今日は何?」
「カツ丼と餡かけ弁当だ。好きなほう選べ」
「こっちの袋は?」
「それはまだ開けるな。飯を食ってからな」
「うん、わかった」
二種類のスーパーの袋を渡してやると同居人はそれをさも愛おしそうに抱えて居間へと入っていった。
「俺は先に風呂に入るから、タオルくれ」
「ん」
干してそのままの形の硬いバスタオルが飛んでくる。
「ボイラー……よし。着替え……よし。さて――」
指さし確認は仕事の癖だ。
「あ、待ってイブキ。これ開けて」
「なんだ?」
半裸になったイブキに弁当の小袋のソースが渡される。
「よく見ろ。『こちら側のどこからでも切れます』って書いてある」
「ヒトの文字なんか読めないもん」
破いたソースを返しながら言ってやる。
「そのうち小学生向けのドリルでも買って来てやるよ。ちゃんとした人間になるんなら、文字が読めないと困るだろうに」
目の前の小娘はぱっと見れば人間と変わりないが、獣の耳と尻尾を持ち、しかしながらそちらの区分からもはみ出した稀有な存在なのである。
なんでも、神様の使いが現れて猫から人になれる力をくれたのだとか。今はその途中だと言う。
随分な話だが、この三角の耳と尻尾のおかげでとりあえず信じてみることにしたのだった。
「ありがとう。イブキのお弁当も温めとくね」
なぜかこの猫、電子レンジと箸の使い方だけはいち早く習得していた。食い物が絡むと熱心になるらしい。
風呂から上がったイブキが肌着姿で戻ると、そこには空になった弁当空の隣で寝転がる彼女の姿があった。
「食べ終わったんなら洗って干しとけよ、クロネ」
それがこの猫の、人の姿での名であった。
由来はイブキがただ黒猫をもじってクロネにしただけであり、
「うん……イブキが食べ終わったら一緒に洗うから」
本人もまんざらでもないらしい。
どうやら今までに名前で呼ばれることがほとんどなかったからそれだけで嬉しいのだとか。
「そうか。ところで今日は何もなかったか?」
帰ってきて飯を食べながらクロネに留守番の報告を聞くのが日課になっている。クロネは片方しかない猫の耳をピクンと振ると、のそのそと四つん這いで部屋の隅に置かれていた紙の束を取った。
「お昼にピンポンが鳴った。出なくて良かったんでしょ?」
訪問者への応対はするなとイブキが言い聞かせている。クロネが事情を知らない他の人間と接触するのは色々と危険なためだ。
「大事な用件なら俺の携帯にでも掛かってくるからな。それ以外はろくな客じゃないさ」
新聞のおまけのように大量についてくる広告に目を通し、その大半をゴミ箱に突っ込むとクロネが声を上げた。
「まって、これ」
「?」
自分が叩き込んだゴミ箱の中を漁り始める。
「要るものがあったのか?」
「これ。見て」
皺の付いた一枚の広告。何の変哲もない、少なくともイブキにはそうだった。
その広告に書かれた一番大きな文字を読み上げる。
「水族館……? ああ、新しくできたんだってな」
「お魚がいっぱい」
「まあ……そりゃ水族館だからな」
紙面の写真には巨大な水槽を泳ぎ回る無数の色とりどりの鮮やかな魚群が写されている。
じぃっとそれを見つめる彼女は、例えるならクリスマスやお正月前に届くおもちゃ屋のチラシをボロボロになるまで読み返す子供と同じ顔をしていた。
「……行きたいのか?」
僅かに緩んだ顔に確信を得る。
「でもおまえ……これは別に食べられるわけじゃないぞ? 見るだけのもんだ」
「えっ……」
その落胆した顔たるや、何故かこちらが申し訳なくなるのは猫由来の特権だろうか。
「しかし……レストランもあるそうだから……もしかしたら美味しい魚の料理とかもあるかもしれないな」
「! だったら……?」
がっかりしたり喜んだりと忙しい奴だ。それ以上に尻尾がぱたぱたとカーペットを払ってほこりが舞うのでやめてほしい。
「おまえもずっと家にこもりきりだから、どこかに連れてってやろうとは思っていたんだ」
普段は仕事で家に居ないイブキに代わって留守番をするクロネ。一体昼間はどうして過ごしているのかは知る由もないが、さすがに家から出るなと言いっ放しなのは可哀想だと感じていた。
「本当に? ボクのこと考えてくれてたの?」
「そりゃあな……で、だ」
先ほど渡したもう一つのビニール袋を取ってこさせる。
「おまえの服を買ってきた。いつまでも俺のお古ってわけにもいかないだろう」
「?」
クロネが最初に着ていた服は真っ黒の半そで一枚のみ。綿なのか化学素材なのかすらわからない奇妙な一着だけだった。さすがにそれで居候させるわけにもいかず、今はイブキの服を使わせている。そのせいでいまだ現役の高校ジャージを着た彼女の野暮ったさは尋常ではなく、学生だと言われれば信じてしまいそうな完成度がある。
「適当に店員に見繕ってもらったが……どうも派手な感じもするような……女の流行りはよくわからん」
特にこのホットパンツというジーパンの短いやつはちょっと過激すぎるんじゃないか。しかし駅前を通りかかるとこんな格好の女性を見かけたりもするのでやはりこういうものなのだろう……たぶん。
「これにあと薄いのを何枚か合わせただけで結構いい値段したからな。女の服は高すぎる」
一体どういう価格設定なのか。カードが無ければ恥をかくところだった。
物珍しそうにまじまじと調べていたクロネがとりあえず着てみることになる。
「あっちで着替えろよ」
餡かけ弁当を食べながら割り箸で背後を指す。飯を食ってる最中に着替えなど見せられたらたまったものではない。会話は小学生を相手にしている気でいるが、これでも一応クロネの外見は年頃の娘なのだ。見た目と中身がつり合わないせいでよく困惑させられる。
弁当を食べ終わり、お茶を淹れようと電気ケトルのスイッチを入れたあたりで衣擦れの音が止んだ。
「どう……かな。なんだか変な感じがするけど。イブキ?」
このタイミングで熱いお茶を飲んでいたら吹き出して火傷をしていたかもしれない。
「……トランクスは脱げ」
ホットパンツからはみ出た鮮やかなチェック柄の布地はイブキの着古したトランクスに違いない。それが扇風機の風にひらひらと吹かれていた。
「パンツ買って来るのを忘れたな……それは明日にするか」
こうして休日の予定が決まったのであった。
――翌日。
土曜日とあって電車の席はそのほとんどが埋まっている。まだ涼しい午前中から休日を満喫しようという考えは誰もが同じらしい。このうちの何人かと行先が重なることもあるだろう。
「電車に乗るのもずいぶんと久しぶりだ。クロネ、俺が預かるから切符をくれ」
座席で膝立ちになって窓の外を眺める連れに言った。
「ねえ、あれは何?」
「ん……今度はどれだ?」
「ほら、あそこの丸い鳥みたいなの」
「ああ、あれは飛行船だ。鳥じゃない。人が乗ってるんだよ」
「へえぇ……」
こんな調子でさっきから何度も窓の外を指さしては答えるを繰り返していた。そろそろ面倒臭い。
「ったく、元気なもんだ」
アパートに転がり込んできてからクロネを外に連れ出したのはこれが初めてになる。
久しぶりの外の世界にはしゃぐ様子は本当に子どものそれと変わりない。
駅の構内でよそ見をしすぎて改札のバーにノックアウトされてから少しだけ頭を冷やしたようではあるが。
「あ――」
それまで楽しげにしていた声が妙な途切れ方をしたのと同時に車内が薄暗くなる。
「そとがまっくら」
イブキは手元の水族館のチラシに目を落としたまま答えてやる。
「トンネルだよ。確かこの先で……」
ぱっと再び明るさが戻る。
「わあ……! ――イブキ、見て見て」
やれやれと彼女の興奮に付き合ってやる。毎度毎度そのあまりの微笑ましい反応に周囲の乗客の関心を独り占めしていることに気付いていないのはもはや当人だけであった。
「空が……下にも!」
堪えた笑いがどこかから聞こえる。
初めて『海』を見た第一声がこれ。
「なるほどな。おまえは詩人に向いているのかもしれん」
自分とはズレた感性に素直な感想を述べた。
「イブキ、あそこに行きたい」
「言うと思ったよ。海くらいいつでも連れてってやる。ただ、今日は水族館だ。おまえが言い出したんだからな」
クロネに旅行雑誌でも渡したらきっと海外旅行をせびられるだろう。好奇心は猫をも殺す……とあるが、こいつに自制など無理な話だ。与える情報をしばらくは管理する必要があるかもしれない。
「ほんとう? 絶対だよ?」
「おまえが大人しく良い子にしてたらな」
猫の姿ならともかく、人でもない中途半端な境界に立っているクロネには面倒を見る世話役が必要に思える。風の吹くまま気の向くままでやっていけるほど人の世界は易しくない。
それからクロネは窓の外を指さすことは無くなった。『大人しく』の意味を過剰に捉えてしまったのか、それとも飽きてしまったか。
ふと肩に寄りかかる重さを感じ、どちらでもないことと悟った。
「まだ行きの電車なんだがな……」
ずれそうなパーカーのフードを直してやりながら、その下に隠された獣の耳を見た。
普段なら産毛の一本にでも触れればぴくんと反応する猫の耳。布地に擦れても動かないのはその主が眠っている証拠だ。
「これなら大丈夫そうだな」
視線を落とすと今度は尻尾の隠し場所。これは堂々と一目でわかるほど大胆で、腰に巻きつけてベルトのように見せているだけだ。傍から見れば悪趣味な装身具に見えなくもない。仮にそう見えなくても、まさか本当に尻尾が生えているとはだれも考えはしないだろう。
「まさか水族館とはねぇ」
一人で暮らしている間にそんなところに行こうと考えたことなどあっただろうか。仕事に疲れ、休みの日には寝て過ごし。たまに話題にあがる映画を見に行っては中途半端な満足を得てまた働きに出る。
久しぶりに遊びに行くという感覚を覚えた気がする。
でもなければ、こんなにわくわくなどするものか。順番に過ぎていく駅の風景の一つ一つに胸中で感想を述べながら、始まったばかりの休日に想いを馳せる。