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第一章

 ――夏。生ぬるい夜の住宅街を歩く姿があった。

男の名は春野依吹(はるのいぶき)。勤務する工場からの帰り道である。

彼が押して歩く自転車のタイヤはパンクして潰れ、ハンドルにぶら提がるスーパーのビニール袋がそれを慰めるようにがさがさと音を立てていた。

「安物買いの、銭失いってか……。次はもうちょっと良いチャリにしないとな」

 それでもため息を吐いて夜空を見上げてみれば、たまにはこういうのも良いか、と思わせてくれるちょっとした幸せがあったりもする。

「ああ、もうこんなに星が見える季節だったんだな」

空の上には知っている星座が二つか三つあるが、名前を思い出せない。そういえば流れ星というものを見たことが無かった。

「しっかし、時間の流れって奴は早いもんで……」

三年前に田舎から都会に就職し、一人で暮らすようになってからイブキは日々を退屈なものだと感じるようになっていた。

どうにかこうにか一人前に自立をすると、仕事とは働く前に考えていたほど大それたことではなく、学校よりも自分を大きく束縛するものだと知った。少なくとも、自分にはそう感じられる。

田舎と比べるといくらか多めの給金でも、世間一般からみれば底辺には違いない。これから増えていくのかも定かではない。ただ、今のままでも質素な生活を送る分には問題なかった。

よく似通った毎日を過ごし、段々と早く過ぎるようになる一週間に驚きながら、年齢の数字は増えていく。この年になるまでに達成したいという願望は今のところ、無い。

だから、こうして自転車がパンクして歩いて帰るしかない不運な帰り道でも、それほど気が滅入ってはいなかった。急いで帰ったところで没頭する趣味も無く、帰りを待ち望んでおかえりと迎えてくれる家族やその候補も居ない。

今この瞬間の気分が良い物であれば、別にそれでも構わない。澄んだ空気の夏の夜空にコオロギの鳴き声を聞きながら、とロマンチシズムに浸っていられるなら、そんなのもアリではないだろうか。

「なんだかなぁ……」

どうも寂しげな成長を続けている気がする。大人になるとはこういうことなのか。誰でもいいから否定してくれれば少しは気が楽になるというものを。

ずっとこんな調子で明日も明後日も続くのだろう。昨日や一昨日がそうだったように。たまには何かがあってもいいが……。

「――――?」

 どうやら今日は少しだけ特別なようだ。

「……おいで。チッチッチ」

 住宅街にありふれたアスファルトの道路と民家の敷地を隔てるブロック塀の上。

まんまるな光る二つの目玉が浮かんでいた。ビー玉にそっくりなそれの持ち主は真っ黒な毛並みに身を包み、こちらをじっと見下ろしている。

「まだ若いネコだな。ん? 逃げないのかい」

 そっと腕を伸ばしてみると猫はイブキの指先をくんくんと嗅ぎ、頬をぐりぐりと撫でられるのを嫌がらなかった。首輪はしていないが、どこかで人に面倒を見てもらっているのだろう。

「……可愛い奴だな、おまえ」

 一通り猫の頭を撫でまわした後、イブキはそれで満足して過ぎようとした。

 すると。

「――にあん」

 とっ、とブロック塀から降りた猫は意外にもイブキの後ろを付いてくるではないか。実家で猫を三代に渡って飼っているイブキにとってこれが嬉しくないわけがない。驚きながらも試しに猫を呼んでみる。

「そこの公園までおいで。良い物やるよ」

 その場所から片側一車線の道路を跨いですぐの公園。まるで言葉がわかるかのように猫はイブキの後を追う。

 およそ午後八時半。敷地内のベンチに腰掛けてみると他には誰も居ない。最近どうも浮浪者の駆逐作戦が行われたらしく、そこそこ有名だった段ボールと青のビニールシートで建造された秘密基地群はどこにも見えなくなっていた。

「缶詰、好きだろう?」

 ビニール袋から取り出した缶詰には調理された魚の絵が描かれている。人に飼われている猫ならば缶を見ただけですり寄ってくるものもいるのだ。イブキは缶の蓋を開けると、それを隣に置いて猫の様子を見ることにした。

「にゃあん」

 しなやかな動きで猫もベンチに上ってきた。その視線が缶詰とイブキの顔を交互に往復し、「いいよ」と言うと猫は中身を舌で舐め始めた。

「……うちの猫もそれが好きなんだ。まあ、今年で二十歳の婆さんだけどな。おまえみたいな真っ黒なネコを六匹も産んだんだ。そいつらは人に貰われていったけど」

 無心に缶詰の容器に食みつく猫に、実家の化け猫もどきを重ねてみる。次に帰省する時まで生きているかわからない。なので寂しさを紛らわす相手には丁度良かった。

「おまえも長く生きれるといいな。猫の幸せがそれなのかどうか俺にはわからないが、……達者でな」

 腕の時計の針を見てイブキは立ち上がった。早く帰りたくなるような楽しみは無いが、あまり遅くなりすぎると家事が終わらない。体を使う仕事なので睡眠時間が削られるのは避けたかった。

 猫と缶詰をその場に残して帰路に着く。ゴミは明日またあの場所に残っていれば持って帰ろう、と決める。

 炭のように真っ黒な猫。幾らか離れてからふり返っても、その姿はもう視認できなくなっていた。

 そして家の、もといアパートの玄関前まで来てイブキはようやく気が付いた。

「おまえ……ついてきちゃったのか」

 しまったな、と悔やみながら腰を下ろすと、イブキは猫に優しく言い聞かせる。

「ごめんな、そういうつもりで餌をあげたんじゃなかったんだ。懐いてくれるのは嬉しいんだが……うちのアパート、ペット禁止だから。帰りな、餌はどっかでもらえてるんだろう?」

 これだけ毛並の良い野良というのは有り得ない。おそらくどこかで飼われているか、もしかしたら独り身の老人が餌を与えているとかそういうのかもしれない。

「うちじゃ面倒見てあげれないんだよ。ごめんな」

 理解したのかしていないのか、猫はきょとんと、そしてちょこんと座ったままイブキのことを見上げていた。

 やや申し訳ない気持ちを抱きながら、イブキは玄関の扉に手を掛けた。

 閉め出していればそのうち居なくなるだろう――。

 と、油断したその時。

「あっ、こら!」

 さっと機敏な動きでイブキの足元をかいくぐり、猫が室内へと侵入した。

「~~~~! ……ダメだって言ってるだろぉ……」

 やれやれとうな垂れてイブキも帰宅する。外を歩いた汚い足で部屋の中を走り回るのは勘弁してくれと言いたいが、もう遅かった。

「しょうがない奴だな……俺も飼えるもんならそりゃ飼ってやりたいけどさ……」

 暗がりの中、手探りで明かりのスイッチを押し、蛍光灯に光が灯る。

 さあ、これで隠れても無駄だ。

イブキがそう思った直後、頭に冷水を浴びせられたような衝撃が走った。

猫が隠れそうな場所なんてあそこくらいか……と脳内で挙げていたのが吹き飛び、目の前の光景にすべての意識が奪われた。

 何がどう、と納得できる答えが浮かばない。

 ただ、そこに居たのは猫ではなかったのだ。


「びっくりした?」


「…………っ」

 窓際に腰かけている少女。もちろん面識すらない。

 真っ黒のTシャツ一枚だけという格好はさすがに夏だからでは済まされない。下を穿いていないのだ。そして頭の上にあるのは……なんだろうか。率直な感想では耳のように見える。というよりも耳だ。それも獣の耳。そしてなぜか片方だけ。

 氷のように固まっていたイブキがやっとの思いで口を開く。

「おまえは何だ、泥棒か」

 咄嗟に想像できたケースではそれが一番有り得そうだと思えた。

 だが、それにしてはどうも様子がしっくりこない。本当にこいつが泥棒ならこんなに余裕を見せるものだろうか。家の主が帰ってきたらもっと慌てていたり敵意を見せてくるはず。

 なので質問を変えてみる。

「そこで何をしていた」

「……………………」

 少女は答えない。だがその顔はどこか可笑しそうであり、第一声を選んでいるようにも覗える。

「……答えないならそれでいい」

 イブキは携帯電話を取り出し、一、一、〇、と押下した。警察にかけるのはこれが初めてだ。たった三ケタで本当に発信できるのかすらも正直なところ不安がある。

 発信ボタンに親指が乗ったのと同時に、少女が口を開いた。

「やっぱりわからないよね。ボク、お兄さんに付いてきたネコだよ」

「あ? ……え?」

 携帯を手にしたまま固まるイブキに、少女が続ける。

「ボク、飼い主が死んじゃったから野良なんだ。お兄さん、ボクを飼ってくれない?」

 突然べらべらと喋りだしたかと思えば。

「何を言っている」

「ボクを飼って、って言ったの」

「? …………」

 携帯を閉じる。

そして玄関の鍵を掛けたことを記憶の中で確認し、キッチンから一番大きな包丁を持ち出した。もし何かが起こっても相手がすぐに逃げられないようにした上で詰問する。もはや尋問に近い。こんな夏の夜に何をやっているのかと馬鹿らしい気もしたが。

「おまえは何者だ」

「ネコ」

 さも当たり前のように回答された。しかしこれではイブキは納得できない。

「どこがネコだ。さしずめ家出かなんかだろう」

「そんなことない。ボクはネコ。今はちょっとヒトの格好してるだけ」

 予想を超えてまともではない返答にイブキは頭を抱えたくなった。なぜこんなのが家に侵入しているのか。おまけに自分は猫などとわけのわからないことを口にする。

 こういう相手は変に探るよりもやはり警察に任せるべきか――。

「おまえがネコだって言うなら、何かそれを証明できるものはあるのか?」

 これが最後の質問だ。まともに答えを聞くつもりもないが。

 再び携帯を開いて番号を入力し、呼び出し音を聞きながら、ふと少女に目をむけた。

「――――!!」

 思わず携帯を床に落としてしまった。拾うこともできず、イブキの視線は一か所に釘付けになったまま。通話中になった携帯からわずかに聞こえる呼び掛けにすらも気が回らない。

「嘘だろ……」

 くねくねと少女が手で弄んでいる黒い蛇、のようなフサフサの物体。どうみても猫の尻尾に違いない。が、猫のそれの大きさではないのだ。付け根は少女の腰に回り、得意げでこちらを見る少女の顔がそのまま答えなのか。

「触ってみる?」

 呆然と立ち尽くしたイブキに挑戦的な笑みが送られる。度胸を試しているのか。とにかくこのまま相手をつけあがらせてはいけないとプライドが声を上げ、一歩を踏み出した。

「…………」

 まったく気に入らない笑みだ。

 目の前まで近づいてみてもやはりその尻尾は本物にしか見えなかった。恐るおそる手を近づけると直前で撥ね、思わず怯んでしまったイブキは意を決してその尻尾を強く握った。

「あ……っ」

 少女はやや色めいた声を発してイブキを睨み上げる。

「……本物だ……動いてる」

 握った手からはみ出た先端が激しく暴れている。それはまさに猫の尻尾に悪戯をしたのと同じ反応だと幼少時代の記憶が甦る。

「あんまり強く握らないで……」

 尻尾を触られるのはむず痒いことなのだろうか。居心地悪そうに座りを直している少女の、今度は耳に手を伸ばす。このころにはもう疑う心は消えていた。

 獣の耳があるとはいえ、どうやら人間の耳も真っ黒の髪に隠れてはいるがちゃんと顔の両横に付いているらしい。その上でさらにもう一つ頭の上に片側だけ三角形の耳が乗っているのだ。これもやはり確かめたい衝動に駆られる。

「――ッ」

 髪よりも細い産毛に触れ、ピクンと指先を払った。

「まさか……本当におまえ、ネコなのか」

 言っている自分が馬鹿のように思える。

「うん。缶詰、おいしかったよ」

 その話を知っているということはもう信じてしまうしかないのだろう。

 しかし、ならどうすればいいのか。

 この少女が本当に猫が人になった姿だとして、彼女は何を要求した?

 自転車のパンクから始まって些細な面倒からあまりにも衝撃的な出来事が続いたせいで思い出すのに時間が掛かる。

「……飼ってくれとか言っていたが」

 大きな目がこちらを見返してくる。よく見ると瞼の中の瞳の形が人とは違う楕円になっていると気付いた。まるで幽霊にでも出会ってしまったような気分である。人に近いが、違う存在。拭い切れない恐怖を抱きながら、答えを待った。

「ボク、ヒトになる途中なの。いっぱい頑張ってヒトの格好と、この声になった。でも……まだ足りない。ヒトになるのにあと一ついるの。それが見つかるまで、お兄さん、ボクを飼ってくれない?」

「……人になる途中?」

 話がちんぷんかんぷん過ぎてろくな返事が出来ない。

「うん。カミサマノツカイっていうのがボクのところにきてさ、ヒトになれるようにしてくれたの。だから頑張ってる」

「神様の使い……?」

 胡散臭い話だなぁ、と思いつつも目の前のコイツが立派な化け物なので一概に否定もできず、半信半疑に受け止めて一つ突っ込んだ質問をしてみる。

「なあ、人になるために必要なあと一つってのは、なんだ?」

 その獣の耳と尻尾を無くすことだろうか? 確かにそれならば一見して普通の人には見えるだろう。

「わからない」

「…………。わからないものを、どうやって手に入れるつもりだ」

「それは……ダメ。教えない」

「?」

 と、ここでイブキの腹の虫が鳴った。帰ってすぐに飯にするつもりが、とんだトラブルに巻き込まれたものである。

 思い出すと強まるばかりの空腹に耐えきれず、そちらを優先することした。少女の件はどうも悪意は無さそうだから大丈夫だろうと悩むのを止めた。

「まあ、話は飯を食いながらでもできる。飼うとかその辺の話は別だが、飯くらいは食わせてやるよ」

「ご飯にするの? ……カリカリが食べたいなぁ」

「? ――ああ、キャットフードか。あるわけないだろ我慢しろ」

 包丁を持って台所に入ると冷蔵庫からちょっと溶けた野菜を取り出し、軽く水で流してから適当な大きさにザクザクと切り揃えていく。本来ならば今日のような帰りの遅い日はスーパーの惣菜で済ませるのだが、缶詰を猫にやってしまったので仕方なく明日の燃えるゴミの日にでも捨てる予定だった野菜を炒めることにした。

「ちょっと忘れてたくらいですぐに変な汁を出すからなぁ……野菜は。それでも火さえ通しとけば大体は……イケるはずだ」

 一袋十円で買ったもやしにニラ、人参、ピーマンがフライパンに投下されていく。慣れた手つきではあるがそれは技術が高いわけではなく、炒める順序も適当である。これをきっと男料理と呼ぶのだろう。

 容器からごま油を垂らし、思い切って購入した一缶千円もする味覇を下味に加え、塩胡椒を大量に撒けば野菜炒めの完成だ。

「できたぞ」

 おっかなびっくりしながら背後で様子を見ていた少女を二千円で購入したちゃぶ台の前に座らせ、百円の大皿の上に野菜炒めを移していく。

「冷や飯をチンするからな……食うのは少し待て」

 電気代の節約のために五合まとめて炊いた白飯を電子レンジに入れ、橙色の光に照らされるのを見守る。換気扇の効きが悪いため部屋中にごま油の匂いが立ち込めているので食欲ばかりが増していく。少女が不器用そうに大皿を箸でつつこうとするのを窘めつつ、イブキも空腹に耐えた。

 お馴染みの電子音が鳴り、扉を開けて湯気の昇る白飯を茶碗と小鉢に分けてちゃぶ台の上に置く。

 驚いたのはイブキが言うまでもなく少女が行儀良く手を合わせていたことだった。

「知ってるのか? いただきますって」

「前の飼い主がこうしてたから」

 なるほどと納得しつつも、つまみ食いはどうなのだ、とも疑問に思った。

 何はともあれ、飯である。

「いただきます」「いただきます」

 そういえばこいつはさっきも缶詰を食ったはずなのだが。猫が人になると胃袋も膨らむのだろうか。

「うぅ……」

「……フォークを出すから」

 以前まで人のそばで生活してきた猫は道具の使い方や風習は知ってはいるものの、自分でやるのは初めてらしい。箸も使い方を知っているのは伝わってくるが、その苦労する様は見ていて手を貸してやりたくなるものがある。

「ほら。よく噛んで食えよ」

 しかし猫が格好だけ人間に変わるとこうも大変なことなのか。まあ当然と言えばそうなのだが、これから完全な人間になることを目指すという彼女には苦難が多そうに感じられた。

「いいか、物を噛む時は口を閉じろ。咀嚼音に気を遣え。くちゃくちゃと音を出すのは最悪の食べ方だからな」

「……うん」

「喋る時は口の中の物を飲み込んでからな」

「ごくん。――今のは」

「ああ、今のは俺が言ったタイミングが悪かった。――それから、皿に顔を近づけて食うのは犬食いといって行儀が悪いからやめろ」

「……ネコなのに?」

「どっちでもいいわ。とにかく、人間になろうって奴が人間のルールを知らないってんじゃ話にならないだろう。お前のためでもあると思うがな」

「…………べつにいいもん」

 面倒臭そうに視線を野菜炒めに落とすと無言でフォークを動かした。

「ご飯と一緒に無くなるように食べろよ。あと肉ばかり食うな。おまえの体が人間のものなんなら、ネコの時と同じ食いかたをしてると体を壊すかもしれん」

「…………」

「……まあ、あんまりいっぺんに言うのもアレか」

 イブキも箸を動かし、今日の晩飯の出来栄えに我ながら唸る。

「ちょっと野菜が古かったのがな……」

 それにしても誰かと一緒に晩飯を食べるのはいつ振りだろうか。工場の社員食堂や気の進まない飲み会とは違う、本当の意味での食事。言葉を交わし、心の底から落ちつく時間。

 ――悪くない。

「……なあ、おまえを飼うかどうかって話だが」

 それまで黙々と食んでいた少女が顔を上げる。

「条件次第では考えてやってもいい」

「ほんとう?」

「食いながら喋るな。それか口を手で覆って見えないようにしろ」

「…………ん」

「おまえ、前は人と一緒に暮らしてたんだよな」

「…………。うん」

「ならわかると思うが。人ってのは家の掃除とか洗濯とか、とにかく家事をやらないと生活できない。そういうのをおまえがやってくれるって言うなら、うちに居てもいい」

 きょとんと間を置いてから、理解したのかぱあっと嬉しそうな表情が広がる。 

「まて、問題があると感じたらすぐに叩き出すからな。まだ完全におまえのことを信用したわけじゃない。明日になれば気が変わるかもしれん」

「うん、――ありがとう」

 べつに、と目を逸らしてペットボトルからお茶を注ぐ。

「……口のまわりに飯粒が付いてるぞ」

本当に良かったのだろうか、と頭の隅で聞こえる。今日会ったばかりの、得体の知れない人間ですらない奴を居候させるなどと。

だが、それ以上の魅力、懸念を振り切りだけの価値を感じてしまうのだ。

 視線が合わない瞬間を見計らって一瞥する。

 頭の上の獣の耳。そして床に張り付いた尻尾。そのどちらもがイブキにとって有り得なかった物であり、そして自分で本物と確かめた。

 こんな出会いが二度とあるのか?

 ただ追い出すだけでは必ず後悔する。

 これこそ自分が求めていた変化ではないのか。狂ったようにリピートするだけの人生から抜け出せる転機ではないのか。

「……ごちそうさま。もうおなかいっぱい」

幸せそうに寝ころがる少女に、イブキも箸を置いて食器を片づけ始めた。

「明日からは自分でやるんだぞ」

 二人分の食器をキッチンで洗う。いい加減にスポンジを買い替えなくては、と買いそびれを悔やんでいると少女に呼ばれた。

「何だ?」

「ピンポン、って鳴ったよ。出なくていいの?」

 玄関のチャイムが鳴ったらしい。水仕事をしていると聞き逃すことがあるため、こういうのは素直に助かった。――が。

「しっ……静かに」

「んえ?」

 足音を殺して玄関に忍び寄る。電話などの事前連絡の無い場合のインターホン。都会に出てきてイブキには遊びに来るような友人は居ない。

「物音を立てるな……奴らだ」

受信料という名目で突然訪れては金を巻き上げる行為を行う悪の組織がある。

一人暮らしの多い安アパートに狙いを付けては、新しく自立生活を始めたばかりの無知な若者を襲撃するのが常套手段であり、そしてあやふやな定義の契約書にサインを迫る。何時間にも渡って彼らは玄関に居座り、名前を書かせるまでは決して帰ることは無い。根負けしてサインをさせられたが最後、それから毎月生活費を蝕まれることとなるのだ。

 記憶によれば同じ階の住人が最近入れ替わった。それをどこからか嗅ぎつけてきたのかもしれない。ここに来るのはそのついで、ということだろう。決して玄関を開けてはいけない。

 一度だけ彼らの標的にされて玄関を開けてしまったことがある。その時はあまりに横暴な態度に嫌気がさして、今から出かけるからそこをどいてくれないと警察を呼ぶぞと脅してお引き取り願ったものである。

 玄関の覗き窓から連中の顔を拝むだけして居留守を決め込んでやろう。

 対処法はそれしかない。

「…………え?」

 小さな除き窓から見えた外の人影に思わずそんな声が出た。イブキが想像していた相手ではなかったのである。

 もう一度インターホンが押される前に、イブキは自分から玄関を開けていた。

「春野さん? 警察の者ですが」

「え……はあ」

 そこに立っていたのは二人組の警察官だった。思考を巡らせ、さっと血の気が引いた。

 ――しまった。

「あなたの携帯からの百十番通報があったんですがね。何かありましたか」

「あ……ええっと……」

 あの少女のことで警察を呼ぼうとして、繋がったまま放置していたことに気付いた。

 通報の連絡があったにもかかわらず、何もこちらから喋らないとあれば警察も何か事件があったものと考えるのは当然のことだ。恐らくそこから携帯の管理会社経由でこの住所を特定したのだろう。

 さて、どうしたものか。

 久しぶりに泣きたいと思った。

「――本当に申し訳ありませんでした」

 結局、イブキの悪戯ということで頭を下げる道を選んだ。下手に嘘を吐くよりも、大人しくこっぴどく怒られて収集を付けるのが最善だろうと判断したのだ。

 どうせバレないと思って無言電話を掛けました、と口にする勇気に今日の残りの気力のすべてを使い果たした。

「……あんたねぇ、若いけどもう成人してるんでしょ? 大人なんだから、こんなことして――云々」

 もうすぐ日付が変わるという時間帯に警察官二人にしこたま説教をされ、ようやく解放されたイブキが部屋に戻るとそこに少女の姿がなかった。

「……どこ行った?」

 もしかしたら疲れて幻でも見ていたのかもしれない……。

と、イブキが探すと少女はすぐに見つかった。

「ったく、気楽なもんだな。本当にネコみたいだ」

 この部屋には名前だけのロフトが備わっている。布団を敷けばそれだけで一杯になる程度の広さしかない、寝室として使っているだけのその場所。

毛布を抱き締めるように丸くなって眠っているこいつを叩き起こして自分が喰らった分の説教の八つ当たりをお見舞いして……と考えたが止める。

「…………ふん」

 その寝顔があまりにも満たされていて、どうでもよくなってしまった。

 猫として生まれ、何の間違いか人間になる力を手に入れたという。それまでにどんな苦労をしたのかは想像もつかない。

「明日からはこんなに甘くないからな。ったく……」

 自らも就寝の準備を整え、ロフトに上がると少女の体を押しのけて毛布を被った。その時に触れた少女の着ている服が見たことも無い素材で作られていることに気付いたが、今さらあまり驚きはしなかった。

「今日はとんだ災難だ……」

 おかしな少女と出会い、警官に説教を喰らい、寝床さえいつもの半分を強いられる。そうだ、自転車のパンクも直しておかなければ。目覚ましを早めに掛けておこう。

 しばらくイブキはこのネコだと言い張る少女の境遇について色々と考えたりして見たが、やがて睡魔に誘われて暗い意識の底へと落ちていった。 


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