序章
ラファエルはライト兄弟の発明したという飛行機の実験場へと、恋人のセイラを誘って見物に出かけた。
飛行場は、少し乱暴な風が吹き荒れ、ラファエルは飛行するにはちょうどいい風加減だ、と微笑んだ。
セイラはスカートの捲れを必死で押さえている。
「ねえ、ラファエル! ほんとうに空が飛べたら、ステキじゃない」
セイラは帽子を押さえ、声を大きくしてラファエルに言った。
「俺がセイラを空に導いてあげるよ、イカロスの蝋で固めた翼じゃない。本物の翼で、太陽に近づけるんだ」
「ライトさんたちが成功したら・・・・・・次はあなたの番よ!」
ラファエルは、ああ、とニッコリ笑う。
「だが、きみは人間であって、神じゃない」
修道服を身につけた修道僧が、ラファエルの背後でもそもそとつぶやく。
彼は言いたいことだけを言って、その場を去った。
セイラは失礼な男だと、ぷんぷん怒る。
「でも、前にどこかで会った気がするんだ」
懐かしい、失ったものを取り返したような、不思議な感覚をラファエルはおぼえていたのだった。
「ただの、みすぼらしい坊さんでしょ。ね、ライトさん飛んだわよ」
「ああっ」
ラファエルは言葉を失うほど感動に浸り、瞳をうるませる。
ライト兄弟の乗った飛行機は、悠々と天空を駆けめぐり、ゆっくり着陸した。
記者団やらがわっと押し寄せ、ラファエルたちは蚊帳の外におかれてしまい、セイラと家に戻るラファエルであった。
かくして、ライト兄弟は、人類の夢『飛行』を、かなえた第一人者として、表彰された。
しかしラファエルは、じつをいうとオーヴィル=ライト(弟)よりも五十年早く空を飛んだ、ケイリー卿と言う人物に着目していた学生だった。
ケイリー卿はイギリス貴族で、鳥の観測をしながら飛行機の原型を練っていたという。
まあ、その話はおいておき、本編に話を戻そう。
イタリアのパルマという小さな村からアメリカのノースカロライナへ引っ越してきたラファエルは、このキティホークでライト兄弟が空を飛ばす実験をすると聞いて、飛び上がった。
ラファエルの夢はオーヴィルのように、青い空への招待を受けることであった。
ミルキーウェイを間近で見られるかも知れない、満月も三日月も、きっと目の前で見えるのだろう――。
そんな期待でラファエルの胸はあふれていた。
だが、昼間会った修道僧が気にかかる。
「きみは、人間であって神じゃない」
ラファエルは机に両手をついて、寄りかかる姿勢になった。
「あいつ、誰だろう?」
木造の粗末な家でラファエルは、開発されたばかりの車を整備しながら下宿していた。
それが、セイラの家だった。
セイラの両親は如才なく、ラファエルが飛行機の設計を考えていると知ると、喜んで迎え入れてくれた。
そして、ふたりが結婚の約束をしていることも知り、彼女の両親は許可してくれた。
ところが、空を飛ぶことが悪魔の所業と罵る教団が近所にあって、新宗教だったようだが、ラファエルを目の敵にし、ラファエルを追い出さないとセイラたちも無事ですまさないと脅していた。
その中心人物、教祖がギデオンといった。
ギデオンはセイラをいつかとらえ、拷問すると予告めいたことを告げる。
「私は平気よ」
気丈なセイラが虚勢を張った。
「ラファエルがいてくれるもの。何があってもだいじょうぶ・・・・・・」
整備士として仕事をしている最中のラファエルは、油まみれで真っ黒になった顔を腕でこすり、セイラを不安そうに見守った。
「俺はいつか独立しようと想うんだ。そしたらお前のとうさんやかあさんに、迷惑がかからなくなるだろ。せめてそれまでもってくれたらと、切に願うしかない・・・・・・」
「ラファエル、愛してるからね。迷惑だなんて言わないで頂戴!」
両手をくんで、セイラはラファエルと見つめ合った。
ラファエルはスパナを放り投げ、セイラを強く抱きしめてやる。
「ごめんな。あいつらは俺が、何とかする・・・・・・」
それは、一種の決意でもあった。