らぶみぃてんだぁ
病室の窓から見える風景はいつも同じだけど、梅が咲きはじめると冷たい風も不快を感じさせない。花には思惑なんかないだろうけど僕は随分救われた。整形外科の入院病棟の患者たちは他の病棟とは違い陽気さが溢れていた。ギプスで固められた手足に不自由はあるけれど基本は健康体なのだ。僕は左肩を故障して空手の継続が危ぶまれていたので他の患者とは違い憂鬱だった。骨がくっつけば良いというような負傷ではなかったからだ。空手の攻撃の恐ろしさを知った僕は半日以上に及ぶ外科手術を施され左肩から左手首にかけてギプスで固められていた。ギプスが外れてもリハビリが待っていた。僕の左肩は関節の周囲がコテンパンに破壊されたらしく神経まで切れていた。空手を生き甲斐のように感じていた僕にとって左肩のダメージよりも空手を続けられないかもしれない不安が大きなダメージだった。
「常盤君、小魚てんこ盛りだよ!」昼前になると同世代の看護師が僕をからかいにやって来た。カルシウムが必要なのはよくわかるけど毎日小魚ばかり食べていたような気がする。
「豚カツとかステーキとか食べたいよな」僕は看護師に言ってみるが「そんなの治ってから食べて!」と言われてしまう。世代が同じだからなのか何故か看護師とは仲良くやっていた。スキンシップも充実していた。毎朝挨拶代わりにお尻にタッチしていたので、その報復で僕のギプスは看護師たちの落書きだらけになっていた。僕のギプスには色鮮やかにポスカで『スケベ』とたくさん書かれていたので、病院内の売店に行くたびに笑い者になっていた。笑いを簡単に手に入れる日々を過ごしていると僕の性格や悩みとは無関係に人気者になってしまう。出来れば早く去りたい場所なのに方々からお声がかかるのだから困ったことだ。何しろ僕は悩んでいたのだ。
「常盤君はいつ退院するんだい?」同じ病室の四十過ぎのおじさんは交通事故で脚を折ったらしくあまりベッドから離れなかった。面倒なだけかもしれない。松葉づえで動きまっている患者はいくらでもいたのだ。このおじさんは山下さん。日曜日になると会社の部下らしき人たちが見舞いに来ていたが最近は見かけない。花瓶にも花はなかった。そんなものなのだ。入院したばかりだとお見舞いラッシュだけどそんなに長続きはしない。そんなわけなのか自然と入院患者同士で外界と隔絶された現実を忘れようと悲しい努力をしたりする。しかし、そんな努力も長続きはしないので退屈な入院生活の中から楽しみを得ようとしても特別なことはなく山下さんは僕の真似をして看護師のお尻に関心を示した。これがとてもいけなかった。僕はお尻に触れてもコンマ何秒だ。しかし、山下さんは一秒以上だ。これではスケベじゃ済まされない。どちらも同罪と思うかもしれないけどまるで違うのだ。スケベは明るく実践しなくてはいけない。顔を緩めてお尻を触るなんて言語道断なのだ。しかも一秒なんてとんでもない。山下さんのベッドに近づく看護師は皆無で検温の時でさえ手を伸ばして体温計を渡していた。こんな馬鹿なことしか特筆すべきことがない退屈な入院生活に梅の花以上に嬉しい出来事が訪れた。看護学生の研修だった。空手が出来ずに凹んでいた僕にとって特別な異性の登場は人生が一変するほど嬉しかった。空手漬けの日々から薔薇色の一目惚れ。やはり若い時分は恋愛モードで変わるのだ。
どの看護師のお尻でも遠慮なく触れていた僕が決して触れることが出来ない相手が現れた。それが看護学生だったのだから驚きなのだ。一目惚れなど信じなかった僕がそうなったのだから宇宙人でもアトランティスでも何でも信じられそうだった。そのコが女神だと言われてもきっと信じたに違いなかった。単純な僕は誰の目から見ても一目惚れしていたのだ。その看護学生がこの病棟に現れたのは僕のギプスが新しいものに変えられたばかりの時だった。いかがわしい落書きもなく真っ白なギプスに変える際に垢だらけの体を綺麗に拭いて気持ちも新たになっていた。そんなことで気分が一新するのだから、やはり僕は単純なのだ。気分が新たになったところに現れた看護学生は息を呑むほど神々しかった。あれはきっと女神に違いないと本当に信じてしまいそうだった。
「はじめまして。稲光です。今日から研修でこちらに参りました。よろしくお願いいたします」その少女の挨拶だけで僕はクラクラしていた。
「よろしく」と言ったが決してお尻に手が伸びることはなかった。呼吸を忘れるほどトキめいた。こんなことは生涯に一度あれば良いとさえ思った。それは僕にとって女神降臨の時だった。体温を計るだけの時間が有意義に感じられた。ただ立って待っている彼女に後光が射していると思った。恋愛とはこんなものかもしれない。僕は彼女の名前が気になり「下の名前は?」と切りだした。すると彼女は「えっ?」と言った。おかしな質問に対する正しい反応だった。僕はもう一度聞いた。
「姓じゃなくて名前は何?」
「さなえです」と小さな声で答えてくれた。ここでこの反応でなかったら手がお尻に向かっていたかもしれなかった。しかし、僕はこの反応で脳内の血流が沸騰するほど盛り上がってしまった。僕は彼女に好き好き大好き状態になってしまったのだ。
その日から僕の人生の目標は彼女といかにデートをするかという一点に絞られた。それにはまず好意をもたれないといけないはずだがそんなことはまるで頭になかった。どうやって笑わせるか。いかにたくさんのことを彼女から聞き出すか。そしていつならデートしてもらえるか。こうなるとほとんどビョーキだった。処方箋無用の患いだった。名前が聞けただけで慈愛に満たされた気分だった。そんな僕を見て山下さんは「常盤君、大丈夫かい?」と言って心配してくれた。ご心配には及ばなかった。何しろ気分はハッピーだった。検温の時間が幸せタイムだったのだ。
多くの入院患者がいる以上、自分にとって不都合な人もいたりした。不都合な人とは僕にとって不都合なことをする人のことなのだ。その不都合なことが何かといえば、僕と同じ気分になってしまうことなのだ。同じ気分とは何かといえば、それは稲光さなえに惚れてしまうことなのだ。惚れるのはしょうがないのだ。それは彼女が魅力的だからだ。しかし躍起になって口説くことはやめてほしかった。僕が自滅するなら仕方がない。いや、仕方なくはないが泣いて諦めるのだ。しかし、どこの馬の骨ともつかない男にさらわれたら泣くに泣けないのだ。同じ馬の骨なら僕が良いのだ。
同じ整形外科の病棟にライバルが現れたことを教えてくれたのは仲良くしていた看護師からだった。
「常盤君、ピンチじゃないの。稲光さん、モテモテだよ」
「なにぃいいいぃ!」
「ライバルは三人もいるのよ」
「誰、誰、どいつ?」
「306号室の岩井さんでしょ。それから307号室の風間さん、それから同じ307号室の田村さん。風間さんと田村さんは妻帯者だから問題ないかも。奥さんが毎日来ているしね」
「岩井さんってどんな人?」
「社会人だよ。大学生の常盤君よりデート代は持っているよね」
「経済的には僕は不利ってことだなぁ」
「でも三十路だよ。女子高生口説くなんてちょっとなぁって思っちゃうよね」
「えっ!稲光さんって女子高生なの?」
「あれ、知らなかったの。そうだよ。高校二年生。常盤君って幾つだっけ?」
「今年二十一歳。でも今は二十歳」
「四つ違いか。まぁそんなに気にならないよね。稲光さんって大人っぽいもんね。チョット見なら常盤君のほうが年下っぽいし」
「そうなの?」
「お尻ばかり触っているようじゃガキよね」
「おっさんもしてるじゃん」
「あれは真正のスケベ。常盤君は違うでしょ」何で同じことをしているのに区別できるのだろうと思ったがスケベと思われていないことは良いことだった。ナースセンターで常盤君はスケベだよなんて噂が立ったら実に困るのだ。
「それだったらギプスに落書きしないでくれよ」
「それはそれ」と言って看護師は手を振って病室を出て行った。
恋敵なる者と入院中に遭遇するとは思わなかった僕は足りない頭で思案した。何ひとつ良い方法など思いつかなかったが悩みまくった。年が近い僕が有利だと信じることにしてその日の夕飯に手をつけた。相変わらず小魚が目立つメニューだったが、この時の僕は何を食べても味がわからなかった。
306号室に行く用などなかったけど恋敵がいるのだから偵察は怠れなかった。岩井なる人物は甘いマスクの好青年といった感じだった。男から見ても好感を持てた。しかし、それではいけない。僕が好感を持ってどうするんだ。年の差が離れていてもあのマスクで迫られたら女性はイチコロかもしれなかった。大変なピンチだった。
「やっぱり気になったのね」僕の後ろから看護師の声がした。僕は取り繕うこともせず彼女に尋ねた。
「岩井さんってさなえちゃんを口説いているのかな?」
「冗談言って笑わせる当たりは常盤君と同じかな。でもいつも見ているわけじゃないからなぁ。いい線いってるかもね」
「マジで!そりゃいかん」
「あらら、でもこればっかりはどうにもできないからなぁ。来週で研修が終わっちゃうから決着はそれまでにつけないとね」
「来週なの?」
「そうよ」
「いかんなぁ。かなりまずいよ。こうなったら粉砕覚悟で突撃しかないな」
「いいねぇ。粉砕したらみんなで慰めてあげるね」看護師は楽しそうに笑った。僕は彼女のネームプレートを確認した。
「川崎さん。どうやって慰めてくれるの?」
「あら、名前で呼んでくれたのは初めてね。どうやって慰めてほしいの?常盤君」彼女は僕の首筋に指を這わせて怪しい笑みを浮かべてみせた。
「ベッドで慰めてほしい!」僕が言うと彼女は「旦那に殺されちゃうわよ」と言って僕のスネを蹴った。冗談でも言ってはいけないことがあるのだ。
僕は部屋に戻って色々と考えてみた。正攻法では勝てそうもないと思ったからだ。そこで僕は自分でも驚くような手段に出た。やはり奇襲ほど相手を驚かせる手段はない。
奇襲をかける作戦を思いついた僕だったが逆に奇襲を食らってしまった。それはギプスが外れる前日のことだった。見舞客も全滅した頃になって空手部の先輩がやって来たのだ。
「押忍。元気そうだな。左手の調子はどうなんだ?」久々に聞く押忍という響きに妙な懐かしさを感じた。僕を鍛えてくれた佐古先輩の声に僕はベッドから飛び起きた。佐古先輩は小柄ながらもテクニックを凝らした試合運びで、市や県の大会でも常に上位に君臨する強者だった。
「押忍。調子も何もまだ動かせないです」
「そうみたいだな」
「何かありましたか?」僕は突然の訪問の訳を尋ねた。
「実は二か月後に弟の道場と親善試合をすることになった。しかも団体戦だ」
「そうなんですか」
「弟の通っている道場は猛者揃いだ。しかもフルコンタクトでの試合を要望している」フルコンタクトというのはパンチもキックも当てて構わないルールだ。当たるととても痛いのだ。僕の左肩もこのルールで粉砕された。
「そりゃまた大変ですね」僕は他人事にように答えた。
「その試合の先鋒をお前に頼みたい」佐古先輩は訪問の訳を口にした。
「僕ですか?」
「そうだ」
「でも片手ですよ。リハビリもこれからなんですけど」
「そんなことはわかっている。しかし、フルコンタクトの試合に出せる奴はそんなにいないんだ」佐古先輩の目がマジで怖かった。こんな時は何を言ってもダメなのだ。それにフルコンタクトの試合を未経験者に頼むのは無茶があった。寸止めルールで強くてもフルコンタクトでは同じようには試合を運べないのだ。何しろとっても痛い試合なのだ。試合中は痛くないが終わった後は体中が痛くなる。その痛みを思い出すとそれまでの恋愛モードも粉砕された。
「わかりました。でも左腕が使えない前提で試合に臨むことになりますので、何か作戦を授けてください」僕は観念して佐古先輩の申し出に従うことにした。
「わかった。すまないな。退院の日には迎えに来てやる」と言うと佐古先輩は同室の入院患者に挨拶をして引き上げて行った。
「常盤君、さなえちゃんどころじゃなくなっちゃったね」と山下さんが言った。
「それはそれ。これはこれです。押忍!」僕は頭が空手モードに戻っていて山下さんにまで押忍と言ってしまった。とんでもなく痛いのに試合に臨むとなると気力が充実してしまう自分に少々呆れた。山下さんが言うように僕の頭の中を百パーセント支配していたさなえちゃんが五割以下に低下していた。僕はしばらく稽古できていない体を元の状態に戻すためのイメージを思い浮かべた。空手のことを考えるとウキウキした。
ギプスを外す前日は来客が多かった。先輩一人だけでも空手モードになったのに、その僕に追い打ちをかける男が現れた。
「久しぶりだな」僕の不意をついて現れたのは碓氷だった。僕と同じく空手に全身全霊を傾けてしまった男なのだ。碓氷は恋人連れだった。
「ご無沙汰です」碓氷の彼女は高校時代から付き合っている由香ちゃん。どう考えても碓氷にはもったいない女性だった。彼女は気を利かせてお見舞いの花と僕が大好きな堅焼きせんべいを持ってきてくれた。
「ホントに左肩を故障していたんだな。それで試合に出るつもりなのか?」碓氷は試合のことを知っていた。
「なんでお前が知っているの?」僕は不信に思って碓氷に尋ねた。
「だって対戦相手だぜ」
「なにぃいいいいぃ!」
「知らなかったのか?」
「知らなかった」僕は高校時代の友人が対戦相手と知ってかなり驚いた。碓氷は僕より実践的な空手を学んでいた。フルコンタクトの試合なら僕が不利だったのだ。
「検温ですけど」僕が空手一色に染まりかけた時、さなえちゃんの声がした。
「おぉ、検温!検温しよう」僕の頭から空手の色彩が消え去って、さなえカラーに染まった。
「おっ、かわいい看護師さんだね」碓氷は彼女の前なのに余計なことを言った。
「バカ、茶化したら可哀そうでしょ」由香ちゃんに言われた碓氷は「ボクも検温したなぁ」と言って由香ちゃんに蹴りを入れられた。
「楽しいお友達ですね」さなえちゃんは僕の見舞客を見て面白そうに笑った。
「楽しいけど、バカなんだよね」僕が言うと「お互い様だな」と碓氷が言った。
「常盤君、彼女のこと狙ってるでしょ」由香ちゃんが僕に小声で囁いた。僕はかなり慌てて「なんで?」と聞き返した。
「見ればわかるわよ」由香ちゃんの目が確かなのか、僕がわかりやすいのか、それともその双方なのか、僕には判断しかねた。そんな僕を面白がって由香ちゃんが碓氷に耳打ちして何かを伝えた。
「かわいいナースさん、この男見た目はバカですけど、イイ奴ですよ。空手もボクほどじゃないけど強いし、根性は見上げたものです。是非、デートしてやってください」碓氷は僕の意向も確認しないで勝手なことを言った。さなえちゃんは「えーっ」と言ったが肯定も否定もしなかった。まったくもって面倒なことをする見舞客だった。
「お前、先鋒だろ。ボクも先鋒だ。試合の日までにしっかり調整しろよ」碓氷は勝手なことを言った。
「常盤さん、片手で空手の試合に出るんですか?」さなえちゃんに聞かれて僕はドッキリした。
「こんな奴、片手で充分!」僕が言うと碓氷は何も言わずに堅焼きせんべいの袋を開けていた。
「お前なんかこうだ!」と言って碓氷はせんべいをふたつに割った。
「そんなことしないでください」さなえちゃんが碓氷に抗議した。
「だったら、試合を見に来てよ。君が常盤の応援してあげてくれればいい勝負になるかもネ」碓氷はほくそ笑んでさなえちゃんに言った。
「そうしてあげて。このままじゃ常盤君がかなり不利だからね」由香ちゃんも碓氷に便乗した。
「えっ?」さなえちゃんは思わぬ展開についてこれなかった。その時、体温計がピピッと鳴った。
「平熱だね」僕は体温を確認してさなえちゃんに体温計を手渡した。
「あっ、はい」さなえちゃんは体温計を確認すると慌てて引き上げようとした。
「応援よろしくね」僕はさなえちゃんに言った。
「えっ?はい」さなえちゃんは動揺していたのか意思とは関係ない返事をした。しかし、その生返事を受けた僕は舞い上がった。
「OKってことだね。やったぁ!」僕は片手で派手にバンザイをした。僕は碓氷と由香ちゃんの支援を受けて、さなえちゃんの応援を約束したのだ。単に断れなかっただけだとは思うけど。
入院生活を楽しく過ごせると思わなかった僕は人生で最高の時を手に入れようとしていた。だからといって、その時には気付かないのが人生かもしれない。その時は言葉の意味さえ分からずに口にしていた。僕はただ勢いに乗っていただけだった。それでも若い時分は乗り切れるから不思議なものだ。
自分の気持ちを伝えることを難しいと感じるのは相手への好意が強いからだと知ったのはさなえちゃんのお陰だと思う。繊細さのカケラもない僕が詩的な言葉を思い浮かべるはずもなかった。非才が災いとならないのが僕の強運だ。言葉がダメなら奇襲しかないと考える単純さが幸いしたのだから運というヤツはわからない。
「常盤君、最近無言だねぇ」と山下さんに言われた。
「そうですか?」
「全然しゃべらないじゃないか。さなえちゃんのことで悩んでいるのかい?」
「えっ!わかります?」
「誰だってわかるよ。看護師の間じゃ毎日の会話になっているよ」
「僕ってそんなにわかりやすいですかね?」
「かなりわかりやすいな」
「そうだったんだぁ」僕は無言でいることで要らぬ噂が蔓延していることが気にいらなかった。
「さなえちゃんにもバレバレだろうね」山下さんは無遠慮に言った。
「それは、それでいいんですけどね」僕の悩みが恋煩いだけだと思われていたことは良かったと思った。人の本心が簡単に分かるはずがない。
「常盤君、さなえちゃんにはちゃんと話したの?」
「何をですか?」
「だから、好きだってことをだよ」
「あぁ、言いますよ」
「いつ?」
「まだわかりませんねぇ」
「なんだよ、照れないで教えてくれよ」山下さんの好奇心はそのまま顔に出ていた。
「退院までには言いますよ」
「なんだ。はっきりしないな」山下さんは不満気に言ったが意識している相手に簡単に言えないのは当然のことだった。年を重ねると人はそういうことを忘れてしまうのだろうかなどと思った。
桜が蕾を広げようとして陽光を浴びている頃、病院の中では僕がさなえちゃんにいつ気持ちを伝えるかで盛り上がっていた。看護師の話題を独占できたことは光栄だったけれど喜べるものでもなかった。看護師の川崎さんは僕のリハビリの為に腕に電流を流す拷問器具のような医療器具を持参して毎日現れた。その度に同じことを尋ねた。
「今日はさなえちゃんに言うの?」こういった話題が好きなのは女性の大きな特徴なのだろうと知った。他人の恋愛の何が面白いのか僕にはさっぱりわからなかった。今でもそう思う。しかし、毎日同じことを多くの人に聞かれた。それは楽しいコトではなかった。周囲の人間が突撃レポーターのように感じた。左腕が不自由なままで空手の試合に臨むことを僕は苦い思いでいたのに周囲の話題は恋愛のことばかりだった。
しかし、人の思いに心を配ることができる者だっている。それが自分にとって最も望ましい人物だったのだから、やはり僕は幸運だった。
「常盤さん、大丈夫ですか?片手で試合に出るつもりですよね」この言葉を僕に言ってくれたのがさなえちゃんだった。僕の中で恋慕の念は更に昇華して彼女が理想郷の住人のように思えた。
「ありがとう」とだけ答えたがそれ以上言葉がでなかった。特に慰めを必要としていた訳じゃなかった。だからこそ意表を突かれた。言葉はそれを言うタイミングでその効果を強くするものらしい。その時の僕にとって彼女の言葉は天啓のように尊い響きを備えていた。心が晴れないにしても雲間から射す太陽の光のような眩しさがあった。どんなに強がって自分を欺こうとしても耐えられないことはある。空手に対する熱意を奪いかねない左腕の不自由は試合を意識すればするほど暗澹たる思いにさせていた。そのことを察する人物が天使のように思えても不思議なことではなかった。
自らの意思に従わない左腕を見つめながら僕は片手で対戦する相手を思い浮かべた。碓氷は良い友人だが試合では敵になる。対戦予告をしに来た彼の考えを察すると悔しさがこみ上げた。碓氷は完治させることを望んでいたはずだった。対等の試合を望んでいたのだ。その思いに報いるには時間が少なすぎた。しかし、そんな僕に気力を与えたのがさなえちゃんだった。
「手が駄目なら足があるじゃないですか」彼女の言葉は核心を突いていた。
「そうだよね。その通りだよ」僕は思わず右手で彼女の手を強く握りしめた。自分でも予期せぬ行動だった。彼女は痛がりもせず笑って応じた。
「今度は左手でも握りしめてくださいね」彼女の言葉が全身を貫いた。白衣の天使とはよく言ったものだ。
桜の蕾がほころび始める頃、僕の運気も花開こうとしていた。何事も気力があれば新たな展開が訪れるものだ。悲観しているより遥かに望ましい。万事うまくいきそうだと感じていた僕はさなえちゃんの研修最終日に彼女を病院の中庭に呼んだ。実行に移せなかった奇襲の時だと勝手に思ったのだ。
中庭のベンチは幾つかあったが桜を正面に見据える位置が人気だった。僕はそこを陣取って彼女が来るのを待った。ナース姿ではないさなえちゃんが現れると僕はベンチから立ち上がりベンチの埃を掃って手招きをした。「なんでしょう?」彼女は要件さえ言わなかった僕の誘いに応じてはくれたけど警戒心がなかったわけではなさそうだった。僕は彼女が座るのを待ってから答えた。
「僕と結婚してくれないかな」どこからこんなセリフが沸き出てくるのかと思うほど意外性満点だった。これこそ奇襲だった。
「え?」と言うと彼女は口に手を当てて大笑いした。奇襲は成功したのか失敗したのか。彼女の笑いはとまらず僕はその様子を眺めているしかなかった。
「まだ付き合ってもいないですよ」彼女の笑いはとまらなかった。
「じゃあ、付き合おう」僕は間髪入れずに言った。
「それを先に言ってよ」と言って彼女は右手で僕の左肩を叩いた。リハビリ中の左肩をだ。
「痛えぇ」僕は思わず叫んだ。
「あっ。ごめんなさい。大丈夫?」彼女は僕の肩をさすった。それで痛みがひくわけではなかったが心地よかった。プロポーズは断られたが交際は始まった。連絡先も聞けたしデートの約束も叶った。何事も押しが重要なのだ。ちょっとだけ変な押し方ではあったけど。
三分咲きの桜がそれまでになく美しく見えたのは自分の心模様によるものだった。生涯に一度は一目惚れをしてみるものだと今でも思う。
「常盤君やったねぇ」山下さんが自分のことのように喜んでくれた。
「常盤君のスケベもこれで治るかな?」看護師の川崎さんは僕をからかいながらも成就した一目惚れを喜んでくれた。
「でも不思議よね。どうして彼女のお尻には触れなかったの?」川崎さんに聞かれてそのことを僕も不思議に思った。好きになると出来ないこともあるらしい。僕にはわからなかった。
その謎を病室に置いたまま僕は退院した。退院の日に碓氷と由香ちゃんがやって来た。新学期が始まったばかりのさなえちゃんと再会したのは病院の近くの喫茶店だった。
「ここが噂のヒュッテなんだネ」彼女は嬉しそうだった。彼女を出迎えた風景は僕には懐かしく、彼女には新鮮だった。人の出会いも同じだと思う。相手の知らない場所に案内するようなものだし案内されるようなものだ。お互いが知る真新しい風景はやがてお互いの風景になる。累積した過去の風景を一変させる出会いは、その先の未来さえ変えてしまうのだ。時を経て思い出す甘美な恋も季節と同じだ。同じ花を咲かせながらどこか違うのだ。今年の桜が去年と同じだと思うのは何故だろう。そして何故かきっと来年も同じだと信じている。お互いを見つめるのではなく同じ方向を見ようとした時、初めて同じ歩みを始める。同じ未来を見つめる先に来年の桜があるかどうかを言葉で確認したりせずともわかりあえる関係。それを教えてくれた恋を今は懐かしく思い出す。
おしまい