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海の民

弥生時代に漢の国から韓の国経由で倭国に渡ってきた。それの運搬をしたのが倭国にいる海の民でした。

第二部 対馬海峡

第二章 海の民

第一節

 泰凛とプー子は、阿那に会うため吉野ヶ里を後にして、那珂の里に向かった。

 「ひろりん、那珂の里ってどんなところでしょうね」

 「行ってみないと分からないけれど、久しぶりに海が見える」

 泰凛とプー子が脊振山の山里に沿って歩いていると那珂川の上流に出た。すると、下流から丸太舟が10人位乗せて、河岸に着けた。

 「おぉーい、そこの人、これから吉野ヶ里に行くのだけれど、この道を行けば着くかね」

 「私達も今まで、吉野ヶ里にいてました」

 「この人達は、韓の国から扶桑の国で生活したいと言って、この舟で海を渡り、この川の上流に我らの仲間がいてる吉野ヶ里に」

 「韓の国から」

 「あなたたちは、これから何処へ」

 「韓の国に渡るために、那珂の里にあなさんに会いに行きます」

 「あな、それはわしだ」

 「吉野ヶ里のとうけいさんが」

 「とうけいが、わしに会うようにとな」

 阿那の祖先は、縄文時代から丸木舟で大分県の姫島の黒曜石の採取や場合によれば、糸魚川まで行って翡翠の採取もしていたかも知れない。阿那は、縄文人の海の民の末裔だった。紀元前200年頃の海の民は、朝鮮半島南部の金海市にある鉄鉱石を狙っていた。青銅器は、吉野ヶ里のように、朝鮮半島から渡って来た人達が広めていったが、鉄器についてはまだまだでした。

 「それで、あなたは」

 「ひろりんと言います」

 「では、この舟に乗りな この川を下って那珂の里まで行くから」

 「ありがとうございます」

 那珂の里は、那珂川の河口に広がっている港町でした。現在の福岡市中央区那の津辺りにあった里で、紀元前200年頃は集落があって、ムラの形態でした。それが、この地で他国との貿易が行われるようになって、紀元前後の頃には、奴国と言う小国家にまで発展しました。奴国が建国された頃は、この那の津辺りでしたが、海岸線上に那珂川から御笠川辺りまで広がり、後漢の光武帝から57年に『漢委奴国王印』を奴国の大王に与えられたことには、拠点を福岡県春日市に移した。

 「ひろりんさん、那珂の里に着いたよ 海を渡るまで色々と準備があるので、私ところに滞在するかね」

 「あなさん、その準備を手伝いましょうか 丸木舟のことなら詳しくですよ それに、塩作りもしていました」

 「ひろりんさん、塩作りもされていたのですか」

 「塩売りもしていましたよ」

 「そうなんだ その塩を用意するための準備です ひろりんさんも手伝ってくれますか」

 「プー子と一緒に手伝います」

 日本の塩生産は、弥生時代中期から岡山県の児島半島で始められたと言われています。しかし、朝鮮半島では、良質の塩は出来なかった。勿論、岩塩もなかった。本格的に塩の生産が始まったのは、15世紀の季氏朝鮮王朝になってからです。

第二節

 泰凛と楓杏は、荷揚げされた塩を阿那の集落に運び、掘立柱建物に収納した。この中から、一部を韓の国に運ぶことになる。

 「ひろりん、この塩、私が作っていた塩よりもいいね 何処で作っていたのでしょう」

 「この塩かい ここから西に内海があって、児島というところでできた塩だよ」

 阿那たちは、丸木舟で瀬戸内海を通って、河内湾まで航海し、その沿岸に立ち寄って物資の交換をしたり、情報を共有したりしていました。

 弥生時代中期に日本では、塩作りが始まったのですが、土器で煮炊き物をする中で、海辺では海藻を煮ることがありました。それを煮詰めてしまって、海水がなくなり、海藻の表面にわずかな結晶が出てきました。それが塩です。この方法を藻塩焼きと言います。少量しか取れないので、高価な商品だったのは確かです。

 前漢の宣帝の時代、紀元前81年に塩鉄会議が開かれ、『塩鉄論』としてまとめられた。これは、武帝時代に匈奴との戦いで財政が悪化したため、朝廷は物価が下がった物資を買い上げ、高く販売する法律、均輪法と価格が下がった物資を朝廷が買い上げ、価格が高くなった時に市場に流す平準法と塩・鉄・酒を専売制にしたため、庶民の生活が苦しめられていた。そこで、均輪法、平準法の廃止と専売制も塩・鉄だけにした。その会議が、塩鉄会議であり、塩と鉄だけを専売制にしたのを『塩鉄論』という。このように、塩と鉄はその当時、なくてはならない物でした。

 阿那たちの海の民は、韓の国に対して、高価な塩とその当時必要な鉄器の原料、鉄鉱石との交換を目的のため、那珂の里と勒島を行きいきしていた。

 「あなさん、韓の国に持って行って、どうされるのですか」

 「ヌクト(勒島)に私達の仲間がいて、韓の国の物資と塩を交換するのさ」

 「那珂の里にはない物資だよ たとえば、鏡とか鉄剣」

 「鏡と言えば、青銅器の鏡ですね 私、持っています」

 「ひろりんさん、持っているの」

 「これです」

 「何処で手に入れたのだ 高価な品物なのに」

 「青銅器の塊を漢の国で手に入れて、吉野ヶ里で作ってもらいました」

 「ひろりんさんは、漢の国から来たのか」

 「漢の国と言っても かなり昔ですけれど」

 那珂の里は、弥生時代中期には現在で言う貿易港になっていた。この地域では、後期旧石器時代から黒曜石を求めて、石器人がこの地に立ち寄っていますが、本格的に集落が生まれたのは、縄文時代晩期で、早くから水田式稲作を始めました。土地の利点もあって、朝鮮半島に近いことにより、大陸の文化が入って来ます。弥生時代中期には、縄文人の海の民がこの地に進出して、今まで住んでいた縄文人、農耕民族との争いを経て、商工地として変貌しました。商業地になった那珂の里は、紀元前後に新漢との交流もあって、新漢の王莽が14年に発行した貨幣が流通していたようで、福岡市の遺跡から20枚程度の『貨泉』が発掘された。その後、広島県福山市の遺跡からも、さらには弥生時代後期には、淡路島の遺跡からも土器の中から発見されている。このことは、海の民が韓の国の勒島だけでなく、那珂の里を起点にして、瀬戸内海を運航していたことが分かる。

阿那が海の民に声を掛けた。

 「準備ができたので、ヌクトに出発しよう」

 泰凛と楓杏は、阿那の丸木舟に乗った。

第三節

 泰凛は、久しぶりに丸太舟に乗った。蓬莱で育って、父親と一緒に素潜りで魚を採ったのを思い出していた。しかし、その当時、紀元前2000年の頃と違って、阿那の丸太舟は、櫂が10本もある大型の丸太舟でした。

 「ひろりんさん、櫂を使ったことがあるかね」

 「はい、あなさん 私、親が漁師をしていたので」

 「漁師をしていたのか これから、壱岐の吉ヶ崎まで行くが、仲間の漕ぎ手を交代で休めたいので、漕ぎ手を変わって貰えないか」

 「舟を漕ぐ位、できるので」

 「では、お願いするか」

 壱岐には、原の辻遺跡(長崎県壱岐市芦田町付近)があります。この遺跡から、旧石器時代後期のナウマンゾウの骨も発掘され、石器人もここに滞在していたことが伺える。縄文人時代後期、吉ヶ崎遺跡(長崎県壱岐市郷ノ浦町片原触)には、海の民の集落が存在していた。

原の辻遺跡から6km離れたところにあるカラカミ遺跡(長崎県壱岐市勝本町)からは、弥生時代後期の鉄の地上炉が発見されていて、韓国の金海市から鉄鉱石を運んできて、この勝本町で鉄器を生産していた。また、邪馬台国の時代には、一支国の都が原の辻遺跡がある芦田町付近にあったとされる。この原の辻遺跡には、対外的な防衛のために軍隊の卑奴母離ヒナモリの宿舎もあったようです。

 「ひろりんさん、仲間の休息が終わったから、ご苦労さん もう少しで、壱岐の吉ヶ崎に着くよ」

 「あなさん、壱岐でまた、何か積荷をするのですか」

 「米を勒島の仲間のために積んで、それとヒスイの勾玉」

 「勾玉ですか、それって宝石ですか」

 「高志こしに翡翠石が採れるところがあって、その石を勾玉にするのだ その石は私の仲間が採ってくる それをこの壱岐で勾玉に」

 「琥珀こはくは見たことがあります 女性が首飾りにしていました でも、ヒスイは見たことがありません」

 その時、楓杏は首もとに手をやった。

 「琥珀って、これでしょ」

 「琥珀 それも宝石か ヒスイの勾玉は、穴に麻の紐を通して、首に掛ける これは韓の国にはないので、向こうでは重宝がられる」

 「あなさんが、必要としている物と交換するのですね」

 「そうよ 鉄鉱石と」

 「鉄鉱石 青銅器の塊と違うのですか」

 「これからは、青銅器ではなく、鉄器の時代がくるから」

 翡翠自体は、新潟県糸魚川市の長者ヶ原遺跡の出土にあるように紀元前4000年頃から採取されていた。それが現在のヒスイの勾玉として認識されるようになったのは、弥生時代中期かららのことでした。泰凛が阿那と壱岐の吉ヶ崎に行く頃、紀元前200年頃から高貴な人だけが身につける物となった。当然、韓の国では物珍しい物だったのです。

 「ひろりんさん、壱岐の吉ヶ崎に着いたよ」

第四節

 壱岐の吉ヶ崎に着いた泰凛は、阿那の丸木舟に米などの積荷を手伝った。

 「ひろりんさん、これがヒスイの勾玉だよ 特別にこれをあげるよ」

 「いいのですか こんな高価な物を」

 「いいとも 積荷を手伝ってくれたからね」

 泰凛は、早速首に掛けた。楓杏も欲しそうにしていると。

 「プー子、いいだろう」

 「とても綺麗 輝いている」

 「ひろりんさんとプー子さん、次の対馬の島まで行くので舟に乗って」

 対馬は、旧石器時代後期までは大陸と陸続きで、17000年前から15000年前に東シナ海の海流が押し寄せてきて、今まで日本湖だったのが日本海となりました。その影響で、対馬も島に。それまでの対馬は山の頂上付近だった。ですから、縄文時代に入っても、海岸線の海辺に貝塚の遺跡がある位で、弥生時代に入ってからの水田式稲作もあまり浸透しなかった。この対馬では、韓の国と壱岐の島との中継点として、海の民が利用していました。そのため、韓の国の文化や中国の文献なども対馬に入って来ます。青銅器はもとより、鉄器も。更には、鹿などの骨を焼いてその割れぐらいで占う卜占ぼくせんも弥生時代には対馬に入って来た。対馬では、鹿の骨の代わりに亀の甲を使い、亀占といい、太占ふとまにとも言っていた。ヤマト王権以降、占いの職業集団として卜部が設けられていた。対馬にも、対馬卜部が存在していた。

 「あなさん、対馬の島に行って、何かするのですか」

 「今回の商いを占うのさ 亀の甲を使って」

 「占い、プー子もできますよ なぁ、プー子」

 「プー子さん、卜占ができるの」

 「はい、私がやっていたのは、鹿の肩の骨を火で燃やして、その割れ具合から占うのです 亀の甲でもできます」

 「対馬の島にも巫女がいますが、一度、プー子さんにも占ってもらおうか」

 「是非とも、させてください」

 阿那の丸木舟は、対馬の下島にある港、厳原に着いた。早速、泰凛と楓杏は、亀を探しに。

 「プー子、岩場を探すのだ」

 「あそこの岩場に行ってみる」

 泰凛は、その岩場に着くと衣服を脱ぎ捨て、海の中に。

 「プー子、ほら、亀を見つけたぞ」

 「ちょうどいい大きさ」

 「あなさんところに持って行こう」

 阿那達は、亀の甲を燃やすため、焚き火の用意をしていた。

 「ひろりんさん、亀が見つかったのかい」

 「はい、このように」

 「あぁ、それでいい 誰か、石包丁と土器を」

 阿那は、亀の息の根を止めて、甲羅を剥ぎ取った。

 「亀を血抜きして、土器に入れ、海水を土器に入れて炊くのだ 甲羅は、プー子さんに渡せ」

 楓杏は亀の甲羅を受け取って、焚き火の中に入れた。

 「あなさん、何を占いましょうか」

 「そうだな 鉄鉱石の持ち主に出会えて、いい話になるかどうかだな」

 亀の甲羅の表面にひびが入ってきた。それを見た楓杏は、笑みを浮かべた。

 「あなさん、吉と出ました」

 「それは良かった 亀の炊き出しを食べてから、勒島に向かおう」

第五節

 泰凛達の丸木舟は、勒島に近づいた。船着場では、阿那の仲間が迎えに来ていた。

 「あなさま、お帰りなさい」

 「まなべ、何か、変わったことがなかったか」

 「また、扶桑の国に渡りたいと言って、私たちの三千浦の集落に滞在しています」

 「どんな人だ」

 「秦国が漢国に滅ぼされて、秦国の中堅官僚が韓の国を通って、ここまで逃げて来たみたいです」

 中国の歴史において、春秋戦国時代(紀元前770年から紀元前221年)があって、多くの国が乱立して、それぞれで戦争を初めて、国土が乱れた時代がありました。最終的に始皇帝が率いる秦国が、紀元前221年に中国を統一しますが、紀元前210年に49歳で急死すると秦国の勢力が弱まり、紀元前206年に漢国国王についた劉邦が秦国を滅ぼします。

 日本において、各地に徐福伝説が存在していて、秦の始皇帝が不老不死の妙薬を徐福に託した。徐福は、その妙薬が扶桑の国、日本にあるとして、3000余りの人を連れて日本にやってきた。そのような伝説があります。また、秦国が滅びた時に、漢国が箕子朝鮮をも滅ぼし、朝鮮半島南部に人々が移動して、辰国を建国したと言われています。この箕子朝鮮は、殷の末裔と言われ、現在の北京周辺にいた人達が、周に殷が滅ぼされた時に、朝鮮半島に建国した。そして、漢国に滅ぼされたので、秦国の亡命者と辰国を紀元前200年頃に建国した。

 このように、徐福の伝説とかその当時の時代背景から、朝鮮半島南部から日本にやって来た人達がかなりいた事は事実です。その経過において、中国の文化が日本に渡って来たと思われる。青銅器文化や鉄器文化だけでなく、西洋のオリエント文化も。

 「ひろりん、米を降ろすの手伝って」

 泰凛は、阿那の仲間に米袋を手渡した。阿那は、三千浦から来た摩奈瓶まなべを丸木舟に乗せて、泰凛と楓杏の四人で三千浦に向かった。そして、三千浦の船着場に丸太舟を着けると、ヒスイの勾玉と塩を持って、阿那の集落へ。

 「まなべ、漢の国から逃げて来た人は何処にいる」

 「案内します」

 「ひろりんさんも一緒に」

 「はい、ついて行きます」

 泰凛は、吉野ヶ里に現れてから、物珍しいものばかり見てきたし、会う人も、今まで育った人達とは違っていた。今回は、ひょっとすると今までに出会った人と、そんな期待もあった。

 摩奈瓶に案内されて、空いていた竪穴式住居に入った。すると、そこには上品で気品ある男性と美しい女性とその子供たちが立ち上がってお辞儀した。

 「あなた達は、どこから来られた」

 「私は、秦国の遼東郡で郡守に使えていた李敷りしきと言います 元々は、趙国の都城であるハンダイ(河北省邯鄲市)の生まれです」

 その時、泰凛はハンダイと聞いて、とても懐かしい気持ちになった。

 「りしきさん、ハンダイですか 私はライチョウ(山東省煙台市菜州)から来ました ハンダイは、ウェイファン(山東省濰坊市)に塩の行商に行ったときにハンダイの名前は聞きました 行ってみたかった所です アンヨウ(河南省安陽市)にも近いですね おそくなりましたが、私、ひろりんと言います」

 「ひろりんさんですか ライチョウと言えば琅琊郡の北の湾岸線にあるところだね」

 阿那は、泰凛と李敷の話を聞いていた。そして、李敷という男の素性が少しわかったところで。

 「ひろりんさん、このところで、りしきさん達と一緒に居なさい りしきさんの処遇は考えておきます」


よく縄文人と弥生人とを分けていますが、実際には混血なのです。

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