鏡
第一部 渤海
第六章 鏡
第一節
泰凜と楓杏は、青銅器を手にするため、泰凜は森林の伐採に、楓杏は海水を土器に汲み、薪を燃やして塩作りに励んでいた。その作業を続けていたある夕暮れときに泰凜は海岸線を見つめていたところに楓杏がやってきた。
「シーアンの向こうには何があるのだろう」
「ひろりん、何なの 独り言などいって」
「また、青銅器のことを考えているの」
「プー子、塩も大分できただろう シーアンへ一緒に行こうか」
「ライシュウからだと遠いでしょ」
「プー子、塩、どのぐらいある」
「荷台にいっぱいになるほどはあるわ」
「では、荷台に積めるだけ塩を」
「行くつもりね 私、青銅器を見ていないので、ひろりんみたいに実感がないのよね でも青銅器を磨けば、私の顔がうつるのでしょ」
「今、この海を眺めながら、昔の人の言い伝えを思い出していたところなのだ」
「その話、聞かせてくれる シーアンや青銅器とどんな関係があるの」
「私達の祖先はこの海からやって来て、この地に住み着いた ところが内陸から私達の生活を脅かす勢力があって、攻めてきた そして、大きな戦いになって、私達の祖先の一部がシーアンの方まで遠征し、その戦いに敗れた そして、シーアンの西の方へ移り住んだそうなのだ」
中国の神話伝説では黄帝(紀元前2510年から紀元前2448年)と蚩尤(炎帝神農氏の子孫とされ、羌が姓とされる)が涿鹿で戦い、その時に山東半島付近にいた勇敢で戦の上手い九黎族(ミャオ族の祖先といわれる)が蚩尤に見方して、黄帝と戦い敗戦した。その後、九黎族は山東半島に留まったものもいれば、南下して揚子江の付近に移動し、蚩尤を頼ってチベットや西域に移り住んだと言われている。ひろりんとプー子の時代、紀元前1600年頃に山東半島に住んでいたと思われる人々は、この九黎族の生きって残りだと思われます。涿鹿の戦いから数百年を経過しているが、泰凜達にも西域の話は伝わっていたのでしょう。泰凜がシーアンより西の地方に関心を持ったことも理解できます。
「プー子、帰ろう」
泰凜が楓杏に昔話をした後、シーアンに向けて塩の荷造りを始めた。
「ひろりん、塩を荷台に積んだわよ この塩をどうするの」
「この塩を行商して、シーアンまで行くのさ」
「この塩を米などに交換するのね」
「そうだ 野宿をしながら」
「では、土器なども持っていかないと」
いよいよ、泰凜と楓杏はシーアンに向かってライシュウを出発した。
第二節
「ねぇ、私、少し疲れたわ」
「そうだな もうすぐに夕暮れだ ここらで野宿するか」
「ウェイファンまで、まだだいぶんあるの」
「そうだな、あと二日ぐらいかな」
泰凜は、野宿をするため、薪を取りにプー子は、ライシュウから持ち出した素材で食事の用意をした。
「ひろりん、私、巫女をしていたでしょ」
「それがどうしたの」
「青銅器の鏡を手にしたら、神様に供えようと思うの」
「神様に」
鏡の発見は、古く人類が誕生して、水面に姿を映し出すことが出来るようになった時代からです。水面に現れた自己の姿を確認するところからだと言われています。それは、神秘的な出来事だったでしょう。それが、石器時代になって、鏃などに使われた黒曜石などを磨くと凹凸はあるとしても自己の姿が映し出された。中国で最初に石板で鏡を発見されたのは、三皇五帝の黄帝(紀元前2511年~紀元前2448年)の次妃、嫫母がある時、石板掘りの手伝いに山へ連れて行かれると、どの女性よりも勝って20枚もの石板を掘り当て、照り輝く荒削りの石板に乱れた自分の像が醜く映るのを見た。そこで、その石板を研磨するよう磨ぎ師に命じて鏡を発明した。しかし、それでも容姿の優れない鏡を見て、石板の鏡のことはしばらく忘れていたのですが、他の石板の上で肉を焼いていると、突然石板が割れてその破片が顔に刺さってしまった。慌てて再び石板鏡を取り出し、薬を塗っていると、その光景を見た黄帝は、彼女の鏡の発明を褒め称え、彼女の叡智を重用したという伝説があります。
泰凜の時代には、すでに鏡という認識があったし、石板で鏡が存在していた。でも、現在のように生活必需品ではなく、鏡の向こう側に何か偶像を感じていたこともあって、信仰に使われていたようです。
日本でも、邪馬台国の卑弥呼の時代に北九州で多くの銅製の神獣鏡、三角縁神獣鏡などが発見されていますが、そのような鏡は中国から日本に渡ってきたもので、その当時の日本の権力者に贈られたもので、催事に使われたと思われます。天皇家においても、三種の神器にも八咫鏡もありますし、神社では神体として鏡を奉っているところがあります。
「もし、シーアン辺りで青銅器の鏡を見つけたら、私達の宝にしよう」
「神様に奉納しておかないと」
泰凜と楓杏は、野宿をして、朝方りょうこうが待つウェイファンへと足早に出発した。
第三節
泰凛と楓杏は、野宿をしながら夕方になってウェイファン(濰坊)に着いた。
「ひろりん、これからどうするの」
「りょうこうさんところに、お邪魔する」
泰凜は、良高が塩をたくさん積んで来れば、一緒に塩を売りに行きましょうと約束してくれたので、良高の家まで向かうことにしていた。
「りょうこうさん、ひろりんです」
「まあ、入りなさい」
「おじゃまします」
「プー子さんもどうぞ 旅の疲れもあるだろうし、私の家でゆっくりと」
「ありがとうございます」
良高は、泰凜が来るのがわかっていたように食事を用意してくれていた。
「ひろりんさん、2日ほどたったら、タイユェン(太原)に行商に出ようと思っている 一緒に行きますか」
「是非とも、連れて行かせてください」
「それまで、ウェイファンでプー子さんを連れて案内してあげてください」
ウェイファンは、7000年前には氏族部落社会が形成されていた町で、1100年程前、釣りの逸話がある太公望の城跡もある古い都市です。また、ウェイファンは竹細工が盛んで、凧揚げの凧も竹と紙から作られ、凧揚げの起源ははっきり分からないが、春秋・戦国時代に戦略目的で始められたようです。それがアジアに広がり、日本に入ってきたのは、平安時代と言われています。江戸時代に、凧揚げが庶民の遊びとして、日本全国各地に広がった。1984年に凧揚げの世界大会が初めてウェイファンであって、凧揚げの町として一躍有名になった。
「ひろりん、おはよう 旅の疲れもあってぐっすりと寝たよ 今日は、これからどうする」
「以前、こうしょうさんに連れて貰った朝市に行こうか」
「朝市を見るだけ」
「少し、塩を持って行こうか」
中国では、朝市のことを早市と表現している。泰凛や楓杏の時代には早市としてはなかったと思うが、物々交換の場所は存在していただろう。
「これいいね」
「あぁ、竹細工のザルだろう」
「おばさん、このザルと塩と交換してくれませんか」
「プー子、こんなザルどうするのだ」
「いいの、野菜などをこのザルにのせるの」
「お姉さん、ザルを持っていきな 塩は貴重だから少し分けてね」
「ひろりん、取り立ての野菜も塩と交換するわ そして、りょうこうさんところで料理して、みんなに食べてもらう いいでしょ」
「いいよ」
楓杏は朝市を見学するだけと思っていたが、朝市に来てみるとあれもほしい、これもほしいと。昔も今も女性の心理は変わらないものです。
商という言葉は、戦前では商売に良く使われ、現在では大阪の商人だけに使われる言葉になってしまった。戦後、商の言葉はビジネスと取って代わった。この言葉、商は、古代中国で夏王朝(紀元前2,070年頃~紀元前1,600年頃)を創立した禹が、洪水の治水事業に従事し、功績をはたした契に商(河南省鄭州市付近)の地を与えたところからきている。契の13代後の天乙(湯)が殷王朝の桀を倒して、殷王朝(紀元前1,600年頃~紀元前1,046年)を亳(河南省商丘市)で建国した。日本では殷王朝と言われているのは、最後の殷の都が殷墟(河南省安陽市)にあったからで、中国では商王国と言われている。この商の意味は、古代中国で収穫した農作物を秋に織物などの交換を行なうことから「秋なふ」となり、「商い」となったようです。また、商は商いを表すだけではなく、物を買い求める行為や別のものを代償として手に入れる「賞」の意味も含まれている。すなわち、現代の商取引の原始的な行為の「賞」です。
殷王朝は、農耕を奨励しただけでなく、手工業や青銅器の生産をも奨励していたので、農作物と手工業の品々の交換の場として市場を設け、貝殻を貨幣にし、功績のあった者に代償として物品(手工業品や青銅器など)を与えることを国の政策として行なっていたので、商と言われるようになったのでしょう。殷王朝が周の武王によって滅ぼされ、殷の人々は各地に散らばった。そして、周王朝(紀元前1,046年~紀元前256年)の人々は殷の人のことを商人と言った。王朝が滅ぼされた殷の人々は、各地で行商を行い、生計を立てていた事から殷の人を商人と呼んだ。
中国の伝説からの商の話ですが、この殷王朝を設立した民族は内モンゴル自冶区のオルドス地方にいた農耕と遊牧生活をしていた翟人、狄ではないかと言われている。この翟人は遊牧をしていた関係上、行動範囲が広く、メソポタミアから流れてきた青銅器を逸早く取り入れていたのではないでしょうか。そして、農耕の増産とそれに伴い、手工業の発展、さらには青銅器の生産と時代が流れていく中で、農作物と手工業品との交換や青銅器の交換に伴う商いを生活の糧にするような人々が増えていったと思います。中国の殷王朝の時代に原始的な農・工・商の経済形態が確立し、富の裕福層が形成され、先祖崇拝を基本にした階級制度を取り入れた周王朝が誕生してきた。
第四節
泰凛と楓杏は、朝市での見学を終えて良高の住居に戻った。
「プー子、明日の早朝にタイユェンに出発するから、用意をしないと」
「塩は、少し使ったけれど、まだまだあるよ」
「もし、タイユェンで青銅器の原石を見つけたら、高価な品物なので持っている塩、全部交換しようと思う」
「はたして、鏡に出会うかしら」
「行ってみないと分からないね」
良高と公妾は、明日の旅立ちに備えて、倉庫で竹細工や織物を整理して、荷造りをしていた。
「ひろりんさん、いいところに帰ってきた ちょっと、手伝ってくれないか」
「はい」
「牛の背中にこの荷物を載せてくれないか」
良高は、牛を3頭用意していた。
「りょうこうさん、こうしょうさんの他に誰か来られるのですか」
「そうだよ かんさめとめちかみだよ」
韓鮫と絈帋は、泰凛と同じように行商仲間で、ジーナン(済南)からやって来る。
「かんさめもめちかみも、もうすぐやってくるよ」
済南は壮大な黄河と湖の都市で、沿岸には柳が垂れ下がり、その風景は詩人、杜甫にも愛され、多くの文人が訪れた。古くは、舜帝が済南にある天仏山に稲を植えて、この地方で稲作が始まったと言われている。また、龍山文化が紀元前3000年から紀元前2000年まで続き、紀元前2600年から龍山文化は後期に入り、山東省にまで広がり、山東龍山文化が開花していた。その中心がジーナンでした。ジーナンでは、チャンアン(長安)を中心にした陝西龍山文化とヂェンヂョウ(鄭州)を中心にした河南龍山文化の影響を受け、稲作、蚕、青銅器などが入ってきた。
青銅器が中国に入ってきたのは、紀元前3100年から紀元前2700年に甘粛省や青海省から。そして、陝西省を通って、河南省へ、泰凛の時代には青銅器はジーナンまで届いていた。
良高さんの荷物が積み終わった頃、韓鮫と絈帋がジーナンからやってきた。韓鮫は、布に包んだ重たそうな荷物を持っていた。
「かんさめさん、その荷物なんなのですか」
「りょうこうさん、こうしょうさんのに頼まれて」
泰凛は、その荷物が気になった。そして、みんな揃って、良高の住居に入った。
「りょうこうさん、かんさめさんの荷物の中身はなんなのですか」
良高は、おもむろに答えた。
「あなたが私とジーナンに行ったときにある男から塩と交換してほしと言われた時のものですよ」
「青銅器なのですか」
その時、韓鮫が答えた。
「青銅器の塊ですが、タイユェンに行くときに、りょうこうさんに頼まれて」
「実は、ひろりんさんの塩と牛をこの青銅器と交換して欲しい」
「えぇ、タイユェンに連れて行ってくれるのではないのですか」
「最初は、そのつもりだったのですが、かんさめさん達がタイユェンの行商に参加することになって」
「りょうこうさん、私達は青銅器を手に入れようと思って、塩作りに励みました ですから、青銅器が手に入れば」
「では、了承してくれるのですね」
第五節
泰凛と楓杏は、良高の住居でタイユェン(太原)に出発する良高達の話を聞いていた。話が一段落した時、泰凛は青銅器の塊を持って韓鮫に話しかけた。
「かんさめさん、この青銅器の塊を鏡にできますか」
「どうかなぁ」
その時、絈帋が口を開いた。
「青銅器は、銅とスズからできていて、その塊は銅を高熱で溶かして、そこにスズを混ぜ、冷やしたのが、それです」
「この青銅器の塊は、高熱によってできている すると、もう一度高熱すれば溶ける」
「その塊が溶けてドロドロになる それを鏡の形に彫り込んだ石の型枠に流し込んで、冷えれば鏡ができるよ」
日本に青銅器が入ってきたのは、弥生時代中期のことで、鉄器よりも少し早かった。最初に青銅器で作った農耕具や剣も、弥生時代後期には鉄器に変わるようになって、要らなくなった青銅器を再び溶かして、鏡や銅鐸に変えていった。
「青銅器って、再利用できるのですね」
「そうだよ、その青銅器の塊も多分、農耕具やハンマーだったかも知れないね」
「プー子、ライチュウに帰って、鏡を作ってみるか」
「鏡ができたら、プー子、うれしい」
良高達の話が終わって、泰凛と楓杏は良高の住居で一晩過ごした。そして、良高達はタイユェンに出発する朝が来た。
「りょうこうさんとみなさん、行ってらっしゃい 私達は、ライチョウに帰ります」
「また、会おうね」
泰凛と楓杏は、2日間かけてライチョウ(莱州)に帰ってきた。
「ひろりん、この青銅器の塊、どうする」
「プー子、ここで穴を掘ってくれないか」
「えぇ、埋めちゃうの」
「薪を集めてくるから」
「この塊を加熱させるの」
「この塊が溶けるかどうか見てみたいので」
泰凛は、小山から木々の枝を集めてきた。楓杏は穴を掘って、木々の枝を入れ、火を付けた。そして、泰凛は青銅器の塊をその穴に投げ込んだ。そうすると、緑色の炎と煙が泰凛と楓杏の周りを覆い被さった。
「ひろりん、これなんなの」
「プー子、口と鼻を手で押さえるのだ」
泰凛と楓杏は、時間が経過するにつれて、意識がもうろうとなって、気を失い、たおれてしまった。