塩売り
第一部 渤海
第三章 塩売り
第一節
泰凜と楓杏は、渤海のライチョウ湾の沿岸にあるライチュウ(現在の山東省煙台市莱州)で生活を始めました。
「ひろりん、粘土をこねて、何をしているの」
「海水から塩を作るには、土器が必要なのだ」
「私にも手伝います」
「そうか、それではこの粘土を縄状にしてくれないか」
泰凜と楓杏は土器を作りだした。中国の紀元前2000年頃には、すでに土器はあった。中国の土器の発生は、紀元前5000年頃と言われ、日本では縄文土器や弥生土器がありますが、日本や東北アジアでは土器の使用は煮炊き用に使用されていたようです。古代中国でも狩猟をし、漁をし、野菜を耕し、それらを煮炊きするのに使用していた。また、海水を土器に入れ、沸騰させて飲料水としていたようです。そのように使用されているのですから、塩を作るのにも土器を使ったのだと思います。
「プー子、縄状にした粘土を輪にするのだ そして、その輪をかさねて、壺の形にしてくれるか 」
「ひろりんは」
「山に行って、薪を集めてくるから」
人類が地球上に現れたのは、約20万年前と言われていますが、火を使用し始めたのは、約160万年前のホモ・エレクロスと言われ、ジャワ原人や北京原人もこのホモ・エレクロスに属する。火の発見により、人類が文明を起こすきっかけとなったことは言うまでもない。火の発見により、狩猟した肉を火で焼いて食べるという生活習慣ができ、狩猟するために石器が作られ、水を貯蔵するために、土器が作られ、土器の製造工程から青銅器や鉄器が作られるようになった。
「ひろりん、お帰り 山からたくさん薪を取ってきたのね」
「プー子、父上から頂いた、火をおこす火種を取ってきてくれるか しっかり、火を熾さないと土器ができないから」
人類が火を熾すのに、木を擦って熾したと言われているが、実際は火種を持っていたのです。この火種とは、山火事で燃えた木、木炭であり、灰であったようです。そして、たえず火を絶やす事をしなかった。人間の知恵ですね。
「プー子、燃えてきた プー子が作った粘土で出来た土器をこの炎の中に放り込め」
「土器が真っ赤になってきた」
泰凜と楓杏の時代には、土器は野焼きで作られていた。温度は、700℃から800℃とも言われている。
「この薪が燃え尽きたら、出来上がりだ」
「明日まで、このままにしておきましょう」
「そうしよう」
第二節
「プー子、土器を持って海岸へ行こう」
泰凜と楓杏は、いよいよ塩の生産を始めた。塩の生産は、海水を煮詰めて作る方法と岩塩をいったん水に溶かして、濃縮塩水を作り、煮詰めて作る方法と海水を塩田に流し込み、太陽の日照りを利用して、炎天下で水分がなくなり、塩の結晶が現れる天日法がある。岩塩が取れた古代ヨーロッパでは、岩塩を使った方法が主に行なわれ、古代中国の南部海岸や東南アジアに掛けては、天日製塩法が主に行なわれていた。ひろりんが岩場で見つけた塩の結晶は、天日法によってできたのでしょう。泰凜がいた中国の北部海岸では、二里頭文化が栄えていて、河南省偃師市の二里頭遺跡(紀元前1800年~紀元前1500年頃)からは石器や陶器の工房跡が発見されていることから、そして、古代製塩遺跡(紀元前1600年頃)が山東省寿光市で発見されたことから、土器を使って海水を煮詰めて塩を作っていたのだろう。
「プー子、土器に海水を入れてきてくれ 薪を燃やして、火をつけるから」
楓杏は海岸に行って、土器にいっぱい海水を入れてきた。釜戸に土器を据え、泰凜が火種を用意して、薪に火を点けた。海水が沸騰し、土器の水分が減り始め、土器の底に海水を濃縮したため、鹹水(塩分を多量に含んだ水)ができた。
「ひろりん、土器の底にしか、海水が残っていないけど、まだ、煮込むの」
「そうだよ 水分がなくなるまで煮込むのさ」
土器の底の水分が少なくなり、白い泡状のものが浮いてきた。
「プー子、一度火を消すから、この浮いてきた白いのを残して、沈んでいる水を捨てよう」
「この白いのが塩なの」
この泡状のものと沈んでいる汁が豆腐を作る時に使うニガリです。泡状のものをさらに煮詰めると白い結晶が現れる。これが塩です。塩の生産をする工程ででてくる鹹水は、中国麺や餃子の皮は、小麦粉に混ぜてできています。中国麺が何時ごろから、中国人の主食になったのか分らないですが。
「プー子、できた この塩をもっと沢山作らないと」
「塩を沢山作ってどうするの」
「塩を売りに歩くのだ」
「塩売り」
「そうだよ 塩を野菜や衣服に替えるのさ」
「では、この塩作りは、私がすればよいの」
「う~ん」
第三節
紀元前3000年頃に中国の揚子江下流の淅江省や江蘇省付近でジャポニカイネを水田で稲作したという遺跡が発見されている。また、紀元前5000年から紀元前3000年頃に中国の河南省、陝西省、山西省で発生した仰韶文化では、遊牧から家畜、焼畑農業から水稲農業、自給自足生活から環濠集落へと変化していった遺跡が発見されている。この頃から中国では民族の定住が始まり、紀元前2000年頃の泰凜と楓杏が住んでいる山東省では、水田による稲作が普及し、竪穴式住居が集まった環濠集落が発生した。
紀元前1600年頃に中国の夏王朝を滅ぼした殷王朝の時代には、勢力のある環濠集落は邑という都市国家に成長し、周王朝になってから、邑が発展して都になり、春秋戦国時代には国となっていった。紀元前2000年頃の山東省では、この邑の初期の形としての集落が各地に存在していた。
紀元前1000年頃、周王朝が山東省に以前から居住していた萊族を制圧するため、軍師の呂尚(太公望)を中国の山東省に送った。その後、山東省の最初の国家は、呂尚が建国した斉の国です。斉の国以前には中国の少数民族莱人が環濠集落を形成していた。その中心的な都市が淄博市潍坊市です。泰凜は、塩を売りにこれらの都市を目指すことになる。
「ひろりん、塩が土器にいっぱいできたよ」
「そうか、そろそろ塩を売りに行くか」
「売るあてがあるの」
「ここから、西の方へ行ってみようと思う 大きな集落があり、市が開かれているそうだ」
「それは、ウェイファン」
「プー子、ウェイファンを知っているのか」
「私が住んでいたポンライにウェイファンの行商がよく来ていた 織物を持って帰って来てね」
泰凜は、塩が入った土器を天秤棒に括り付けて、早朝にライチュウを後にした。ライチュウからウェイファンまでは100km位の道のりですから、泰凜がウェイファンの環濠集落に着いた頃には、2日目の夕方になっていました。
泰凜がウェイファンに着いて、集落に入ったときに、ひげを蓄え、杖を突いた老人に声を掛けられた。
「そこの人 その土器に何が入っている」
「塩です」
「何処から来られた」
「ライチュウからです」
「すると、ライチョウ湾で取れた塩かね」
「そうです 海水を煮詰めて作りました。」
「その塩をなめさせてくれないか」
泰凜は、天秤棒を肩から降し、土器の蓋を開け、手のひらに塩を置き、その老人に差し出した。
「う~ん 確かにライチョウ湾で取れた塩じゃ」
「そのようなこと なぜ分るのですか」
「わしは、昔から塩売りをしているのだ ライチョウ湾で塩を調達して、ズーボーやジーナンにその塩を売りに行っているのだ」
「私の塩を買ってくれるのですか」
「そうだな 一度、わしの家に来ないか」
「喜んで」
泰凜は、その老人の後について大きな竪穴式の住居に案内された。
第四節
「私は、ひろりんと言います。あなたのお名前をお教え頂けないですか」
「わしは、姓が姜、氏が姚、名が良高と言います」
「りょうこうさんですね」
紀元前2000年頃では、日本の姓名と違って、姓は民族を表す名称で、氏は部族や職業集落の名称を表し、地名から来ているものもある。姜の姓の起源は中国の神話、三皇五帝にまでさかのぼり、三皇のひとり炎帝神農氏が湖北省あたりの姜水で育ったところから名づけられている。神農氏の部族は、姜流水地域で漁業をしていたが、人口の増加によって中国で最初に農耕生活をはじめた部族でした。そして、神農氏の部族は、九黎部族(ミャオ族)と戦いながら北上し、河南省あたりに勢力を持ち、五帝のひとり河北省あたりの姫水で育った黄帝と手を結び、姫と姜の姓をもつ部族で漢民族を形成した。この話は紀元前3000年~紀元前2500年頃で、文化・文明の観点から言うと、炎帝神農氏の文明が長江文明に対して、黄帝の文明が黄河文明ということになり、この時代に長江の文化と黄河の文化の結合として、河南龍山文化、陝西龍山文化、山東龍山文化が花開いたと思います。
「りょうこうさん、わたしをあなたの弟子にしていただけませんか」
「う~ん。ひろりんとやら、わしに就いて塩の行商をしてみるか」
「よろしくお願いします」
「ひろりんが持って来た塩がどのように売れるか、ためしにわしに付いてくるか」
泰凜は、良高の居間で寝泊りをすることになった。そして、翌日の早朝、泰凜はウェイファンの集落を散策するため、良高に。
「りょうこうさま、これからウェイファンの集落を探索してきます」
「そうか それではこうしょうをお供に付けよう ウェイファンの朝市を見てくればいい」
泰凜と公妾は、良高の住居から南に向かって歩き出した。
「りょうこうさん、朝市があるとお聞きしましたが、どのようなものが売られているのですか」
「主に、食料品ですが、中には竹細工の品物や織物も並べられています」
「織物も、ですか」
「この辺りに、塩や竹細工を求めて、ナンヤン(南陽)から蚕で編んだ絹織物を売りにくるのです」
「ウェイファンでは、織物を生産していないのですか」
「していないですね」
「でも、ウェイファンの行商がポンライに織物を売りに来ていたと」
「それは、ウェイファンの商人がナンヤンから仕入れて、ポンライに売りに行っているのではないですか」
「う~ん」
泰凜は、公妾の話を聞いても少し納得しなかった。なぜ、ナンヤンの人が直接、織物をポンライに売りに来ないか。ウェイファンの行商が織物を直接身に着けないで、巫女がいるポンライの人々に織物を売りに来るのか。
第五節
泰凜が公妾と見たウェイファンの朝市は、泰凜が想像していたのと少し違っていた。広場に各地から持ち寄った商品を並べて店にしているのではなくて、持ち寄った商品を必要としている人達と交渉して、相手の持っている商品と物々交換をしている風景が泰凜の目に入って来た。
古代中国で貨幣経済が浸透したのは、殷王朝(紀元前1600年頃~紀元前1046年)時代で、貝を貨幣にして商品の売買を始めている。
「こうしょうさん、この広場に私が作った塩を持ってくればいいのですね そして、私が必要としている物と交換すればいいのですか」
「まぁ~ そうですね でも、交渉がうまく成立すればよいですがね」
「りょうこうさまは、塩をどのように売っておられるのですか いゃ、どのように交渉されているのですか」
「ご主人は、元々、舜の流れを汲むお方でタイユェン(太原)の出身なのです」
「舜と言いますと、父親や弟に殺害されそうになっても親孝行を尽くされた方ですか」
「そうですね。歴山で耕作し、雷沢で漁業を営み、河浜で瓦器を焼き、寿丘で什器を作り、負夏で商売を行って利益を納めた そして、堯の後を継いで天子になられた 天子になられてから、北方、南方、西方を巡幸されました」
「それで、りょうこうさまも各地を周っておられるのですか」
「各地に知り合いがたくさんおられるのです」
「りょうこうさまは、負夏で商売を行って利益を得られたと言われましたね」
「タイユェンの出身ですから、三方の山に囲まれ、それらの山から岩塩が産出されたのです その岩塩を各地で売買されたのです」
泰凜が生きていた紀元前2000年頃には、河南省、山西省の東部、河北省の南部に舜の後を継いだ禹が夏人(揚子江付近にいた越人)を中心にした夏王朝(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)を築いていた。黄河の氾濫を治めた民族が政権を手にしたのでしょう。古代中国で、夏王朝が治めた領土は中原と言われ、夏人だけでなく黄帝が率いる華夏族や舜が率いる青銅器文化(二里頭文化)を持つ商人(殷王朝を築いた民族)や三苗(現在のミャオ族)や黎族や洪水を起こすことができた共工(現在のチャン族)が集落を形成して生活していた。この時代にはすでに稲作が浸透し、黄河の氾濫を治めることができた民族が政権を握っていたことになる。
「ひろりんさん、私達とタイユェンやナンヤンに行きませんか」
「こうしょうさん、連れて行ってください その前に、私が作った塩を織物に交換して、ライチョウに帰ります」
泰凜と公妾は、朝市の様子を見てから、良高の住居に帰ってきた。
「ひろりんさん、朝市は如何でしたか」
「こうしょうさんにいろいろ教えてもらいました 私の塩を朝市に持っていって、織物と交換するつもりです」
「交渉をうまくしなさいよ」
「りょうこうさんは、各地に塩を売買なされているとお聞きしましたが」
「ひろりんさん、私と一緒に各地を回りますか」
「是非、連れて行ってください。朝市で塩を織物に交換したら、ライチョウに一度帰って、またりょうこうさんのところに戻ります」
泰凜は、塩を担いで朝市に行き、先ほど目ぼしい織物を持った行商を見つけておいたので、交渉して、塩と織物を交換した。そして、楓杏
に織物をプレゼントするため、ライチョウに帰郷した。