花火
紀州から江戸へ船で移動したと思ったら、打ち上げ花火が盛んな江戸時代に。
第四部 富士山
第一章 花火
第一節
泰凛と楓杏は火薬玉を爆発して、木が倒れたところに、紀州の木こりが通りました。木こりは、大きな木が倒れているのに気が付き、木の側に、見知らぬ男女が転がっているので、そばに近づいた。そして、意識があるのを確認して。
「おおぃ、起きろ」
泰凛と楓杏は、その声で気がついた。
「この木を船着場まで、運びたいので、そこを退け」
「この木は、火薬玉で爆発して、丸木舟を作ろうと」
「丸木舟だと 今どきそんな舟見たことがない どうやって作るのだ」
「石刀で」
「石刀 お前、いつ頃の時代の奴だ 木を切るのは、このノコギリで 木を削るのは、カンナ それよりこの木を江戸に持って行きたい船着場まで、一緒に運んでくれないか船に乗りたければ、その船に乗せてあげるで」
「どこに行くのですか」
「江戸に紀伊国屋文左衛門さんが、材木商をされていて、その方の依頼で、この木も必要なのだ」
泰凛は蓬莱に帰りたいが、江戸に行く船に乗るしかなかった。
1695年頃、和歌山の有田のみかんが豊作で、値段が下落していた。しかし、江戸ではみかんの需要が高まり、みかんが品薄で価格の上昇で、高価な品物になっていた。そこに目を付けたのは、和歌山県海南市出身の紀伊国屋文左衛門でした。紀州の有田で出来たみかんを船に積んで、江戸に運び、大儲けをします。そして、江戸ではからっ風が吹くので、火事が多く、家の建て直しなので木材が不足しているのに目をつけて、山林地帯の多い紀州から木材を江戸に運んで、江戸で材木商を営みました。1700年頃です。そして、徳川綱吉の時代に幕府御用達の材木商にまで登り詰めました。元禄時代のことです。
泰凛と楓杏は、火薬玉で爆発して得た木を船着場に運んだ。その木を他の木と筏にして、泰凛らが乗る船に括りつけた。
「船が出るぞ 早く乗れ」
泰凛らの船は紀の川を下り、和歌山湾に出た。そして、紀伊半島を回って、太平洋に出た。太平洋では、波が荒くて、船の進行が進まなかった。
「ひろりん、波が荒いね 私ら、また」
「この間の火縄銃は、どうなったのだろう」
「また、違った世界に来たようね」
「そうだな」
船は難航しながら、遠州冲まで来た。そして、駿河湾から伊豆半島を通過すると富士山が遠くに見える。
「ひろりん、見て あの山、綺麗ね」
「ここ、どこなのかな」
船は、相模湾から東京湾に入った。そして、深川の木場(東京都江東区)に着いた。
第二節
泰凛と楓杏が深川の木場に着いて、木材の荷揚げを手伝っていると、火薬を積んだ船が入って来た。楓杏がその船を覗き込むと、火縄銃の火薬で作った火薬玉が乗っており、その火薬玉は、泰凛が作った火薬玉よりも大きくかった。
「ひろりん、見てみて、私達が作った火薬玉がたくさん乗っている」
「何に使うのだろう」
「君たち、何を覗き込んでいるのだ」
「これ、火薬玉ですね」
「そうだよ この火薬玉を隅田川の宗家花火鍵屋まで運ぶのさ」
「君たちも手伝ってくれるかい」
「この火薬玉を何に使うのですか」
「打ち上げ花火だよ」
花火は、火薬と色々な色を出すために、金属の粉末を火薬と混合して作られた火薬玉で、爆発の時にその色を出す金属の粉末が散らばることによって、夜空に色々な形ができるように工夫されていた。
花火を作り出したのは、戦国時代に火縄銃が生産され、その影響で、火薬も増産されてからです。当初は、戦場で使っていたが、江戸時代になって、花火見物のために花火を作り始めた。そのきっかけは、徳川家康が駿府城でイギリスの使節団が来た時、明の商人が筒に火薬玉を入れて、花火を打ち上げた。徳川家康はそれに感銘して、生まれ故郷の三河で、江戸幕府の監視化で、花火の生産を始めた。泰凛と楓杏が見た火薬玉は、三河から運ばれて来た。宗家花火鍵屋の初代鍵屋弥兵衛は、大和国の篠原村から1659年に江戸の日本橋横山町で、花火の店を開業した。その時の花火は、線香花火など、家庭で使われる花火で、発売するとよく売れた。そして、鍵屋は、1711年に隅田川で打ち上げ花火を。これが、隅田川で花火見物の始まりです。しかし、江戸では火事が頻繁に起こったことから、隅田川以外での花火打ち上げが禁止となった。江戸時代には、事故が多いので、度々、全く花火禁止令が出された。
「鍵屋さんが、隅田川で始めて打ち上げ花火をされるので 君たちも火薬玉を運んでくれれば、夜空に花のような花火が見られるよ」
「打ち上げ花火は、そんなに綺麗ですか」
「綺麗とも 多分江戸中の人が見に来ると思うよ」
「ひろりん、私、見てみたい」
「では、火薬玉を隅田川に運ぼう」
泰凛と楓杏は、隅田川に着いた。隅田川の沿岸には、花火大会のため早くから屋台が並んでいた。
「夜が待ちどうしいね」
江戸に屋台が出現したのは、1657年の明暦の大火で、商店が焼き出され、多くの商人が屋台で商売をやり始めてから。鍵屋も大火で焼き出された土地に、花火の店を開いたと思われる。夜店は、その当時には出現していなくて、江戸時代後期に大坂から始まり、江戸では文政年間とされている。
第二節
泰凛と楓杏が深川の木場に着いて、木材の荷揚げを手伝っていると、火薬を積んだ船が入って来た。楓杏がその船を覗き込むと、火縄銃の火薬で作った火薬玉が乗っており、その火薬玉は、泰凛が作った火薬玉よりも大きくかった。
「ひろりん、見てみて、私達が作った火薬玉がたくさん乗っている」
「何に使うのだろう」
「君たち、何を覗き込んでいるのだ」
「これ、火薬玉ですね」
「そうだよ この火薬玉を隅田川の宗家花火鍵屋まで運ぶのさ」
「君たちも手伝ってくれるかい」
「この火薬玉を何に使うのですか」
「打ち上げ花火だよ」
花火は、火薬と色々な色を出すために、金属の粉末を火薬と混合して作られた火薬玉で、爆発の時にその色を出す金属の粉末が散らばることによって、夜空に色々な形ができるように工夫されていた。
花火を作り出したのは、戦国時代に火縄銃が生産され、その影響で、火薬も増産されてからです。当初は、戦場で使っていたが、江戸時代になって、花火見物のために花火を作り始めた。そのきっかけは、徳川家康が駿府城でイギリスの使節団が来た時、明の商人が筒に火薬玉を入れて、花火を打ち上げた。徳川家康はそれに感銘して、生まれ故郷の三河で、江戸幕府の監視化で、花火の生産を始めた。泰凛と楓杏が見た火薬玉は、三河から運ばれて来た。宗家花火鍵屋の初代鍵屋弥兵衛は、大和国の篠原村から1659年に江戸の日本橋横山町で、花火の店を開業した。その時の花火は、線香花火など、家庭で使われる花火で、発売するとよく売れた。そして、鍵屋は、1711年に隅田川で打ち上げ花火を。これが、隅田川で花火見物の始まりです。しかし、江戸では火事が頻繁に起こったことから、隅田川以外での花火打ち上げが禁止となった。江戸時代には、事故が多いので、度々、全く花火禁止令が出された。
「鍵屋さんが、隅田川で始めて打ち上げ花火をされるので 君たちも火薬玉を運んでくれれば、夜空に花のような花火が見られるよ」
「打ち上げ花火は、そんなに綺麗ですか」
「綺麗とも 多分江戸中の人が見に来ると思うよ」
「ひろりん、私、見てみたい」
「では、火薬玉を隅田川に運ぼう」
泰凛と楓杏は、隅田川に着いた。隅田川の沿岸には、花火大会のため早くから屋台が並んでいた。
「夜が待ちどうしいね」
江戸に屋台が出現したのは、1657年の明暦の大火で、商店が焼き出され、多くの商人が屋台で商売をやり始めてから。鍵屋も大火で焼き出された土地に、花火の店を開いたと思われる。夜店は、その当時には出現していなくて、江戸時代後期に大坂から始まり、江戸では文政年間とされている。
火薬玉を爆破させたら、現在社会に。