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元寇

平安時代から鎌倉時代にスリップして、蒙古襲来に出くわす。

第三部 瀬戸内海

第二章 元寇

第一節

 泰凛と楓杏は、確かに厳島神社の社殿に天叢雲剣を持って入った。それが、両手で抱え上げていた天叢雲剣が見当たらない。さらに、泰凛と楓杏は、那珂の里の海岸に立っていた。

 「ひろりん、ここどこ 前に来たような気がする」

 「韓の国に渡ったところのような気がする 不老不死の霊薬を飲んで気が付いたら、この海岸にいた」

 「私ら、元に戻ったのかしら」

 泰凛と楓杏は、源平合戦の時代から鎌倉幕府の執権北条時宗の時代にタイムスリップしていた。

 「おおぃ、そこの方達、この船に乗るのだ」

 「どこに行くのですか」

 「瀬戸内の小豆島に」

 「何をされるのですか」

 「幕府のお達しで、この沿岸に石垣を築くために、石垣が採れる小豆島に 人でが足りないのだ」

 「私も乗ればいいのですか」と楓杏は言った」

 「女でもいい 早く乗れ」

 1272年に中国の元王朝の皇帝、クビライが属国の高麗に、日本を攻めるように命じた。文永の役です。その当時、蒙古軍は15000人から25000人で、高麗軍は5300人から8000人と言われ、軍船は726~900艇と言われています。一方、日本軍は、300艇そこそこで、対馬と壱岐と肥前海岸で戦いました。この肥前海岸では、松浦党も戦いに参加しています。結果は、両軍とも戦死者が多数出ました。最後の戦いでは、博多湾に薩摩・日向・大隅の御家人衆が集結し、地上戦になった。そして、松浦党も数百人の戦死者を出したが、蒙古軍は敗退を認め、撤退した。

 鎌倉幕府は、文永の役が終わってから、高麗に逆襲するため軍船の調達と船の漕ぎ手、梶取かじとり水手かこの召集を始める。それと同時に、福岡市西区今津から福岡市東区香椎の20kmと長崎県平戸市田平町から松浦市星鹿町の海岸線、40~50kmにかけて石積みを行った。元寇防塁です。しかし、この元寇防塁が思ったほど時間と人手と経費が嵩むので、高麗の逆襲は取りやめとなった。

 「なぜ、このような海岸線に石垣を設置するのですか」

 「お前、何も知らないのか この間、蒙古軍が高麗から軍船で攻めて来た そして、海岸で大いくさになったのだ わしらは、必死で戦って、蒙古軍を追い払った」

 「蒙古軍 それは漢の国ですから」

 「お前、何も知らないのだな 蒙古は、宋の国を滅ぼして、その宋は南に 北の国土を征服した そして、高麗を属国にして、日本も属国にしようとしている」

 「そうだとすると、蓬莱は蒙古か」

 「お前、どこの国の者だ 蒙古人か そうだとすると 鎌倉に連れて行って、処刑されるぞ」

 「違います ひろりんと言います」

 「まぁ、いいから船に乗れ」

第二節

 泰凛と楓杏は、那珂の里から壇ノ浦の主戦場の前を通った。

 「プー子、ここで源氏と平氏が戦ったところだよ」

 「ひろりんが、このあたりで潜って、天叢雲剣を取り出したところですね」

 「あんたら、何時の時代の話をしているのか 昔、わしの曾祖父さんがこの壇ノ浦で戦ったと聞いている」

 「あんたのお名前を教えてくれませんか」

 「松浦政重だ」

 「松浦党だったのですね 以前、松浦経介さんと知り合いになって」

 「松浦経介、それは私の曾祖父さんだ ひろりんと言ったな あなたは何者だ」

 「まさしげさん、よろしく」

 泰凛達の船は、厳島の船着場に停船した。

 「ここで、厳島神社にお参りしてくる」

 「私達もお参りします プー子、下りよう」

 「社殿に天叢雲剣があるのかしら」

 泰凛と楓杏は、厳島神社に入った。すると、社殿から宮司が出てきた。

 「少しお聞きしたいのですが、この社殿に天叢雲剣が祀られていますか」

 「天叢雲剣 そのような剣は祀られていません 天叢雲剣と言えば、源平合戦で、壇ノ浦の海に沈んだままでしょう」

 「やはり、天叢雲剣はここにないのね」

 松浦政重は、厳島神社にお参りを終えて、泰凛と楓杏に声を掛けた。

 「次は、小豆島に向かうから、船着場まで行こう」

 小豆島にある星ヶ城山は、817mあり、瀬戸内海の島々の中では1番高い山です。この山は花崗岩が採れる山として知られていて、徳川家康が大坂夏の陣で、豊臣側に勝利し、大坂城の立て直しをした時に、小豆島から石垣を運んだ。江戸幕府の各藩も、お城の建て直しに石垣が必要で、小豆島の石を求めた。小豆島には、石切り場所として石丁場跡が存在する。その中で、最も規模の大きいのは、天狗岩丁場(香川県小豆郡小豆島岩谷)で、666個の種石やそげ石が残っている。蒙古襲来のために北部九州に石を積み上げたその石垣は、良質の小豆島の石丁場からも運ばれたと思う。このように石を利用した風習は、弥生時代の大集落での環濠にも使われた形跡があり、古墳時代には豪族の長の墓として石室が設けられた。また、豪族の居館を守るため、土塁がなされその土塁の表面に石葺きされた。それが石垣の始まりです。蒙古襲来以前にも、飛鳥時代に中大兄皇子が指揮した日本・百済軍が唐・新羅軍に白村江の戦いで敗北し、唐・新羅軍が海を渡って攻めてくるのを防ぐため、北部九州から瀬戸内海沿岸と畿内に百済の亡命者に朝鮮式山城を築かせ、石垣を使った。戦国時代の守護大名のお城の基本的な形の基になっている。この朝鮮式山城を築城した頃から、石丁場は存在した。蒙古襲来においても石丁場を利用したと思われる。

第三節

 泰凛達は、小豆島の船着場に着いた。そこには、星ヶ城山の東側にある岩谷の集落があり、そこから、牛に牽かれた荷車に石を積んで、船着場に運んでいる姿があった。大きな岩もあって、その時は修羅と言って、材木を何本か地面に置き、轉代わりにし、大勢で岩を引っ張ることによって、岩は転がり前に進む。かなりの人力を使って、船着場に運び、積み上げられていた。そんな岩を船で運搬するには、木材を筏にして、その筏の下に岩を括り付け、岩を海に浸けると筏の浮力と岩の重力の関係が等しかったら、岩は筏と共に前に進む。この原理を使って、石垣の石を海上で運んだ。

 「ひろりん、小さな石は、船に積み込むのだ わしは、筏に大きな石を括り付けるから」

 松浦政重は、どの石を船で運ぶかを選択する係を楓杏にさせた。

 「ひろりん、筏を蟹で漕げるか」

 「漕げます プー子も一緒に漕ごう」

 泰凛と楓杏は、松浦政重と一緒に那珂の里と小豆島を往復して、元寇防塁のための石を運搬した。泰凛と楓杏がこの那珂の里に現れる前に、元寇防塁はかなり出来上がっていた。そして、松浦政重と一緒に運んだ石も最後になった。

 「プー子、見ろよ 凄い石垣が並んだぞ この石垣を乗り越えるには大変だし、乗り越えたとしても少数で、蒙古兵は日本の兵士によって打ち倒されるだろう」

 日本に何故、蒙古軍が1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度に亘って襲来したのでしょう。それは、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元王朝の初代皇帝クビライが、朝鮮半島の高羅を属国にし、その先に島国があることを認識した。それだけでは、日本に攻めてくる意義がないのですが、1274年に日本に襲来している。『東方見聞録』を口頭で述べたイタリアのヴェネツィア共和国の商人、マルコ・ポーロが1275年に大都(現在の北京)を訪れ、中国に17年間滞在し、クビライと交流があった。マルコ・ポーロは日本に来た見たわけではないが、人聞きに日本のことをクビライに話した。その内容が、日本では莫大な金の産出国で、屋根や建物がすべて金になっている黄金の国と話していたようです。そのため、クビライは黄金の国を支配しようと2度目の蒙古襲来を藻くらんだ。それが弘安の役です。

 泰凛と楓杏が、那珂の里にいたのは、その頃でした。

 「まさしげさん、本当に蒙古が攻めてくるのでしょうか」

 「この間から、蒙古から使者が訪れていて、その書面の内容がまた悪い」

 「どのように悪いのですか」

 「日本は降伏して、元の属国になれと書いてある」

 「頭から、降伏ですか」

 「そんなの受けるわけには行かないだろう」

 「その使者はどうなりました」

 「鎌倉に連れて行かれて、獄門の上、打ち首に」

 「だから、私達が蓬莱から来たと言ったとき、処刑されると言われたのですね」

 「そうだよ わしだからいいけれど へたなこと言うものではないよ」

 蒙古の使者が日本から戻ってこないのが、何回かあった。そして、クビライは日本を攻める決断をする。

第四節

 蒙古軍は、朝鮮半島から壱岐に集結しているとの連絡があった。しかし、なかなか博多湾に攻めてこない。それは、今回の弘安の役では、高麗軍を中心にした朝鮮からの蒙古軍と浙江省寧波市から出発したのは、元が南宋を滅亡させた蒙古軍の2隊編成で、壱岐で合流して、博多湾を攻め、大宰府を占領する計画だった。それが、浙江省からの軍の出発が1ヶ月半の遅れの6月18日でした。当初は、済州島経由で壱岐に行く予定であったが、黒潮に流されて漂流し、伊万里湾の鷹島に集結した。

 泰凛と楓杏と松浦政重は、蒙古軍が壱岐で集結していて、今だに那珂の里に攻めてこないので、松浦政重は松浦党の本拠地に戻ることを決めた。

 「まさしげさん、これからどうされるのですか」

 「蒙古軍が攻めて来ないのは、宋の国からの軍を待っているらしい その軍が玄界灘から来るという情報を得た そこで、松浦党の本拠地に戻ろうと思う」

 「私達も、まさしげさんに付いて行っていいですか」

 「それなら、船に乗りな」

 泰凛達は、那珂の里から伊万里の里に向った。

 松浦党と一言で言われるが、松浦四十八党とも言われ、松浦政重は、松浦氏に属していた。元寇の文永の役では、佐志房が肥前国松浦郡佐志村の地頭として、蒙古軍と戦い、数百人が犠牲になり、佐志房と3人の息子が討死したという記録が残っている。松浦党は、長崎県平戸から伊万里湾の沿岸の村の地頭だったと思われる。

 松浦政重は、肥前国松浦郡松浦村(佐賀県伊万里市松浦町)を本拠地にしていた。泰凛達の船が伊万里湾に入った。

 「まさしげさん、あの遠くに船の群れが見えます」

 「あれ、蒙古軍 こちらに向かっているぞ」

 「まさしげさんのところは」

 「伊万里川の上流だ」

 「伊万里川の河口はあれですか」

 「あの河口を上流まで行けるところまで行く どれから松浦郷まで歩きだ」

 松浦政重は、必死で船を漕いだ。村の仲間に知らせるために。

 「ひろりんさん、船をこの辺りに置くので、船に乗っておいてくれ」

 「わかりました」

 「ひろりん、大粒の雨が 風も強くなって来た」

 「まさしげさんは、どこまで行ったのだろうか」

 「川の水嵩が 流れもきつくなってきた 船が流される」

 「プー子、船にしがみつくのだ」

 「もう、ダメだわ」

 船は揺れが酷く、泰凛と楓杏は船から振り落とされそうになった。そして、船は伊万里湾に出た。雨は強くなり、風は暴風になった。

 蒙古軍の朝鮮半島から来た船も、志賀島から博多湾に上陸しようと試みたが、蒙古防塁のため上陸出来ず、浙江省寧波市から出発した蒙古軍のいる鷹島へ。鷹島に集結した船は、3500艇程になった。船は、この嵐で船の錨が取れて、蒙古軍の船同士がぶつかり合い、転覆する船も出てきた。現在では、この嵐を台風と言う。

 転覆した船の蒙古兵士は、武器も持たずに鷹島に上陸したが、そこに待ち構えた幕府軍によって殺害された。結局、弘安の役では台風によって、蒙古軍が撤退して、幕府軍の勝利となった。

 泰凛と楓杏の船は、鷹島に近づいた。

 「ひろりん、蒙古軍の船がたくさんいてるね」

 「沈没仕掛けている船もいてる すごい嵐だ」

 泰凛と楓杏の船は、玄界灘に出た。そして、船は北の方向に流され、台風は益々酷くなってきた。船に入ってくる雨水をかき揚げて、海に捨てるのも限界に達した。遂に船は転覆。泰凛と楓杏は、海に放り出されることになった。壮行している間に気を失い、見知らぬ浜辺に。


蒙古襲来で戦うために船に乗ったが、台風で沈没。そして、また違う時代に。

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