出会い
はじめに
ホモ・サピエンスが、中国大陸から日本列島に渡ってきたのは、今から3万8000年前と言われています。3万6000年前には、沖縄諸島経由で。3万4000年前にはシベリアのバイカル湖辺りから北海道にこれらの旧石器人が日本列島に住み着いた。その頃の日本列島の気温は、最終氷河期であったので、海水が減少し、大陸棚辺りまでが陸地でした。対馬海峡も現在よりかなり狭くなっていた。その最終氷河期が1万5000年前まで続く。その間に中国大陸から日本列島にY-染色体パプログループDの持った男性とミトコンドリアDを持った女性が渡ってきた。1万5000年前以降、日本列島は温暖化に進み、現在の日本列島に近い様相になった。日本列島は、中国大陸から海を挟んで島国になった。最終氷河期に渡ってきた人達は日本列島に取り残され、縄文人として1万2500年の間、縄文文化を築きあげた。
中国では、3万年前頃から中心部に多くの民族が集まるようになり、Y-染色体パプログループOが誕生し、華北平原や長江流域などの豊かな地域を中心にサブグループを産み出し、これらの地域から東アジアや東南アジアからポリネシアに至るまで広範囲に拡散した。最終氷河期が終わる頃、1万5000年前には稲作が始められていた。そして、4000年前頃、このO系の人達は青銅器の生産を手がけるようになり、青銅器の農具も出現し、稲作の出来高がアップしていった。それにより、洛陽を中心とした黄河中流、紀元前2070年頃~紀元前1600年頃に夏王朝が誕生する。さらに、漢字の基礎となった甲骨文字が発見された安陽市の殷墟。その地を中心とした殷王朝が夏王朝を滅ぼし、紀元前1600年頃~紀元前1046年まで中国を支配した。これらの王朝に関わってきたのが、Y-染色体パプログループO系の人達でした。殷王朝末期に、王朝に仕えていた、異民族から逃れて農耕民族。周初代武王の曾祖父、古公亶父が殷王朝を紀元前1046年に滅ぼし、周王朝を建国した。その後、周王朝は内乱が起きて、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)になり、戦闘が続いた。この時代に戦闘を逃れたY-染色体パプログループO系の人達が、日本列島に渡ってきて、農耕技術や青銅器の生産を縄文人に伝授した。
この作品は、日本人の祖先が中国大陸から渡ってきて、中国の文化を取り入れ、日本独自な文化を構築した。そんな歴史を(ひろりん)と(プー子)を主人公にして、タイムトラベルで登場させるこの語りです。とても文学作品とは言えませんが、将来、漫画やアニメの原作にでもなっていけばいいな。と思っています。それによって、日本の人が少しでも日本の歴史に興味を持っていただけたらと。
あらすじ
紀元前2,000頃に中国山東省で生まれた泰凛と楓杏(プー子)は、渤海の海岸で結ばれ、漁業と農業を営んでいた。泰凛と楓杏は、青銅器の塊を手にする。この塊を火で炙ると緑の煙が出て、気を失い、気が付いた時には今まで見たことない風景が広がっていた。泰凛と楓杏は、弥生時代の日本に。
泰凛と楓杏は、タイムマシーンで日本の各時代に登場することになった。最後に現代社会の日本に到着する。自動車が道を往来し、線路上で電車が走り、空では飛行機が飛んでいる。その光景を見るもの見るものに驚きながら、泰凛と楓杏は戸惑いながらも、現代日本人になりすましていく。そうこうしているうちに、達也と陽美に出会う。達也はシステムエンジニアで、陽美は文芸評論家でした。達也と陽美に、コンピュータテクノロジーを学び、バーチャルの世界をネット上で実現していくビジネスを始める事になります。
第一部 渤海
第一章 出会い
第一節
中国の黄河の下流に広がった平野に稲穂が広がり、黄河の黄色い水は渤海に流れ込む。そんな土地に泰凛と楓杏は生まれた。今から、4000年程前のことです。
その当時の中国は、国家らしいもの、夏王朝(今の陝西省、河南省、山西省)が形成されたが、泰凛と楓杏の生まれた山東省北部には国らしきものがなかった。
泰凛は、年齢15歳になったばかりで、父親劉凛に連れられて、渤海に船を出して、漁をしていた。この当時の船は丸太をくり抜いた粗末な船でした。
「おおい、ひろりん、しっかり艪を漕ぐのだぞ」
「分かりました でも、手がいたくなります」
「我慢しろよ」
「父上、これから何処まで行くのですか」
「莱州湾沿いに船を進め、山東半島の煙台沖まで行くのさ」
「何が取れるのですか」
「う~ん」
泰凛は艪をしっかり握り締め、力いっぱい漕いだ。朝早く出発したのだが、煙台沖に着いたのは昼前でした。
「ひろりん、着いたぞ 苗でくくった石を海に落とすのだ」
「これですね 船が流されないようにするのですね」
「竹の先にカニムシの糸が付いているだろ その先に貝殻で作ったとがった釣針にミミズを付けて、海に放り込め」
泰凛の時代は青銅器時代でしたが、石を磨いて、鋭くし、刃物として使っていた。釣針などは、貝を細工して作っていたようです。青銅器はシュメール文明(紀元前3800年~紀元前2800年)のジェムデト・ナルス期(紀元前3100年~紀元前2900年)を起こしたシュメール人が銅とスズを混ぜた青銅合金の製造法を発見し、農機具として青銅器を開発した。青銅器が中国に入って来たのは、二里頭文化(紀元前2000年~紀元前紀元前1500年頃の河南省中部、西部、山西省東部地方)の時代でした。
でも、泰凛が住んでいた山東省付近ではまだ、青銅器文化は成熟していなかった。
「父上、釣れた、釣れた 大きな魚が 」
「よぉし それでは、その魚を土器に入れて、村に帰ろう 」
第二節
「母上、今年取れたお米、甘味があっておいしいですね」
「そうでしょ 今年は日照りがきつかったから、水を切らさないように、お爺さんにお願いして、農業用水を回して貰いましたからね」
「母上の父上のかんさべ爺ですか」
「そうですよ 私達の田畑は、かんさべ爺からもらったのですよ」
泰凛の時代、家族形態は母系家族形態で、娘に婿を取って、家族を継がす形態でした。時代が進むに連れて、父系家族形態に移行して行く。では、何故古代人が母系家族形態を取っていたかは、その当時の男性の平均寿命が女性に比べて、かなり低かったと思われます。戦争やきつい労働による死亡や狩りによる事故、毒性植物の摂取による死亡によるもの。若い男性の死亡が多かった。その当時の男性を跡継ぎにするには、長寿が保障される婿養子を選ばなければならなかった。
平安時代の源氏物語にも描かれているように、男性が女性のところに訪れ、女性主導で恋愛関係が成立する。これど、古代人の母系家族制度の残像である。古代であれ、現在であれ、男性はイケメンでなければ、恋愛できなかったのです。
現代日本でも、母系家族制度が残っています。女性が子供を産むと里帰りしますし、子供が成長するまで、母方の自家に行くことが多くなります。これも、母系家族の遺物でしょう。現代でこそ、男女同権や女性上位と騒がれていますが、紀元前2000年頃の中国では、女性の地位はそれなりに高かったようです。
「そうだ、ひろりんも青年に成長したし、早く良家の嫁子を探さないと」
「母上、ひろりんにはまだ早いです」
「そんな事ないよ 嫁方の婿取りは競争が激しくて、ひろりん、うかうかしていると、取り残されて、戦争や重労働によって、早死にしてしまうから」
「母上、ご心配されるな ひろりんは良妻な嫁子を見つけますから」
「そうであれば、よいのだが」
「母上は、どうだったのですか」
「というと 父上のことか」
「そうです 父上のことです 父上をどうして選ばれたのですか」
「父上は、この集落で、1、2位を争う働きものだった」
「それでどうだったのですか」
「そこまで、母上に言わせるのか」
「いやぁ、今後の参考にと思いまして」
「では、話しましょう」
泰凛の母、胡葱操は劉凛との成り染めを泰凛に永遠と話した。その概略は、同じ集落にいながら顔も合わしたことがなかった二人だが、ある日、漢小部が娘、胡葱操を連れて、渤海の海岸に行き、貝拾いをさせられたとき、海岸の沖から船に乗った劉凛が浜辺に到着して、胡葱操の前に現れた。その時、胡葱操は何か、テレパシーのようなものを感じたそうです。そして、劉凛の男らしい素振りや筋肉質な体をそっと眺めて、ピリピリと。それから、胡葱操は劉凛のことが気になって、家のものに貝拾いに行くといって、劉凛の姿を見に行くため、海岸に通った。ある日のこと、例によって、海岸で貝拾いをしていた胡葱操のそばに劉凛が近寄ってきて、一言、何処の娘じゃと。その日から数日後、劉凛は胡葱操の家を訪ねるようになって、ふたりは結ばれた。
「母上、よく分かりました」
「何が分かったのだ」
「ふ~ん」
灌漑用水路の技術は、水資源の少ない地域で発達したようで、エジプト、メソポタミア、イランでは大麦を栽培するのに紀元前6000年程前から施行されていた。中国では、黄河や長江という大河があったため、稲作に必要な水資源は紀元前8000年前から存在していた。
第三節
泰凛も父親に連れられて、漁に出るようになってから、体格のがっちりするようになり、大人らしくなってきた。現在人の年齢でいくと、泰凛は、丁度、中学三年生から高校一年生位の年齢でした。ですから、体的にはもうすっかり若者の風貌を備えていたのですが、心の方はまだ幼さを残していた。
「母上、今から海岸に出て、素潜りで魚を取ってくるから」
「気をつけて、行ってらっしゃい」
泰凛は、海岸に出て、以前父親と漁に出た時、海岸の浜辺から少し南に行ったところに岩場の入り江を見つけていた。そして、その岩場から飛び込んで、10m位潜った。そこには、藻が生えていて、エビやあわびややどかり等が繁殖していた。泰凛が狙っていたのは、その甲殻類を狙って、沖から50㎝位の魚が集まってきていた。泰凛は竹で作ったヤリで、それらの魚を狙った。
「うん、おるおる」
泰凛は、10m程潜った後、すぐ岩陰に隠れた。そして、通り過ぎた魚に向かって、ヤリを突きつけた。
「やった」
ヤリの先に魚が突き刺さった。その瞬間、泰凛は、ヤリを手に持ち、水面を目指して、かき昇った。泰凛は、海面に顔をだして、得意げに回りを見渡した。すると、入り江から聳えたつように見えた岩山に、ひとりの少女が泰凛を眺めていた。泰凛は、やりを持った手を海面から出して、少女に魚が見えるように高々と、体半分ぐらい海面から飛び跳ねた。それから、海岸に上がってきて時、少女の姿はもう岩山にはなかった。
「あれ、誰だろう」
泰凛は、心の中でその少女のことを気に掛けながら、ヤリで仕留めた魚の尻尾を持って、家に帰ってきた。
「母上、見て 大きな魚だろう」
「その魚、今晩の食事にしよう ひろりん、裏山で薪を取ってきてくれないか」
泰凛は、石で作った鉈を持って、裏山に向かった。
「おおい、ひろりんじゃないか 今から何処へ行くのだ」
「たきなこ、今から、裏山に薪を取りに行くところだ」
滝那胡は、泰凛より二つ位年上の青年でした。
「ひろりん何か、浮かぬ顔をしているな 何かあったのか」
「それが」
「早く、言ってみ」
「いやぁ それがな、さっき、例の岩山の入り江で魚を取って来たのだが 海面に出てきた時、岩山に気になる少女がいって、どうも、胸の奥がすっきりしないのだ」
「う~ん それは」
「なんだ」
「そうか、分かった 明日でも、私と一緒に、岩山へ行こう」
泰凛には、さっぱり検討がつかない胸の奥のことが。滝那胡には分かるのだろうと思いながら、裏山で薪を集めた。
第四節
「おはよう、ひろりん」
「たきなこ、もう来たのか」
滝那胡は、泰凛が心を痛めているのが何か、分かっていた。
「ひろりんがきのう遇った 少女を探しにいくのだろ」
「たきなこ、そのためにこんな早くから」
「そうさ、ひろりんのためにだ」
現在でも、男の友情はかわらないものですね。紀元前2000年頃の中国でも、人との付き合いは、そんなに変わらなかったと思います。日本の江戸時代から明治時代に掛けて、男女の関係は、見合いが中心だったそうですが、これは、日本の戦国時代の政略結婚からきているので、平安時代の源氏物語の頃では、返って恋愛結婚の方が多かったようです。それだけ、平安時代は万葉集等の和歌集のように、伸び伸びとした雰囲気であったのだろう。現代の恋愛の形は、少し変わって来ているかも知れませんが。
「ひろりん、あのいつもの入り江だろ」
「そうさ、前もたきなこを連れて行っただろ」
「それだったら、ポンライに行けば、少女に会えるよ」
泰凛と滝那胡は船を用意した。蓬莱は、山東半島の東の端にあり、渤海湾に入る入り口のようなところであった。黒潮海流が渤海湾に流れ込むところで、魚の種類も豊富で、漁業の盛んなところでした。また、東南に行けば、煙台があった。
「ポンライに着いたぞ」
「でも、ここに、あの少女がいるのかな」
「心配するな 俺に任しとけ」
「当てがあるのか」
「そうさ、当てあるよな」
滝那胡は、次第に言葉少なくなってきた。泰凛たちは、船を海岸に乗り上げ、東の山の麓に向かって歩きだした。歩いて行くに連れて、人が増え、集落が現れてきた。
「たきなこ、どこまで行くのだ」
「あの山里で、巫女たちが今年の豊作を祈っているので、集落の人たちが集まって来ているのだ」
「すると、そこにあの少女が」
「う~ん」
紀元前2000年頃の中国では、甲羅に文字を書き、火にあぶって、甲羅のひびの入り具合でその年の収穫を占う儀式に、亀甲占いが盛んに使用されていた。その行為を行うのが巫女であった。
「ひろりん、あそこで人が集まっているぞ 行ってみよう」
「あぁ」
「ひろりんどうした」
「いるいる」
泰凛たちが、その集まりの中に入っていた時、亀甲占いをしている巫女のそばで手伝っている少女がいた。泰凛は、その少女を見つめていると、その少女は気が付いたのか、ニコッと笑みを見せた。
「そうか あの巫女か ひろりんが好きになるのも分かる さあ、帰ろう」
「もう、帰るのか」
「ばかだな あの巫女がここにいることが分かっただけで良いのだ」
「なぜ」
「これから、毎日、ひろりんがここへ、通うのだから」
蓬莱は中国道教の神仙思想の拠点となった土地で、ここには不老不死の仙人がいると言われ、秦の始皇帝が延命を願って、徐福に不死の霊薬を探すように命令した。そこで、徐福はこの蓬莱から3000人を連れて日本に向かったという逸話が中国の『史記』巻六「秦始皇本紀」に記載されている。