ピコンッという鼓動
ピコンッ……ピコンッ……。
僕の頭の中には、いつからか小さなシグナル音が響いていた。
一定周期で脳を揺さぶるシグナル。
意識しなければ聞こえないくらい小さな音。
それは不快ではなく、頭を優しくなでてもらうように心地いい。
その頃の僕には、それがどんな意味を持っているかなんて、想像もつかなかった。
ピコンッ、ピコンッ。
修学旅行で京都に行ったとき、ほとんど忘れかけていたシグナルが耳に響いたことを覚えている。
その音の感覚はいつもより早く感じた。
けれど、見たこともない風景に圧倒されて、それ以上考えることはなかった。
あのときはニアミスだったのかもしれない。
僕は大人になり、故郷の東京を離れ、北海道の会社に就職した。
北海道の地を初めて踏んだとき、
ピコンッと、とても小さなシグナルが鳴った気がした。
どこかの地を踏むたびにシグナルは鳴るのだと、何となく理解した。
でも、初めての仕事にのめり込み、やがてその存在を忘れていった。
就職して10年が経った頃、おばあちゃんが亡くなったと連絡が入った。
僕は急いで東京に戻った。
「何でもっと早く、連絡してくれなかったんだ」と両親を怒った。
しかし、両親は何も言わなかった。
僕は、生粋のおばあちゃん子だった。
もう一緒にいられないなんて寂し過ぎる。
お葬式でお焼香をしているとき、
ピコンッ……ピコンッと久しぶりの音が聞こえた。
静かに手を合わせる。
ピコンッ。
その音が止んだとき、僕の中に、確かに何かが灯っていた。
──ある日。
僕は京都を訪れた。
頭の中のシグナルは、やはり大きい。
もっと西へ。もっと西へ。シグナルはそう言っているように思えた。
おばあちゃんの故郷は、たしか九州だった。
記憶の糸を少しずつ手繰る。
そして僕は、静かに決意した。
生まれて初めて、九州の地を踏んだ。
ピコン、ピコン、ピコン。
音は大きく、テンポも速い。
「近い」
──僕は、このシグナルの意味を探し求めた。
レンタカーで市街地を離れ、人の気配のない山奥へ入る。
シグナルに合わせて、胸の鼓動が大きくなっていった。
車を降り、右を向く。
音が小さくなる。
左を向く。ピコン。音が大きくなる。
「こっち、か……」
懐中電灯を頼りに道なき道を進んだ。
気がつけば深夜になっていた。
不思議と疲れはない。
ただ、シグナルが僕を導いていた。
山の頂上についた。
そこの木々は枯れ果て、地面は長い眠りについたように、灰色に乾ききっていた。
枯れた木々の狭間に平らな場所を見つけた。
視線を向ける──僕の鼓動は、静かに跳ねた。
そこには見たこともない、
まん丸な白い球体が地面に半分埋まっていた。
僕は急いでそれに駆け寄ると、無意識に球体を操作して、それを起動させた。
何がなんだか分からない。これが何かも知らない。
ただ、そうしなければいけないと、僕の中の何かが命じた。
ただ、助けたかった。
球体は蒸気を吐き出し、こがね色に優しく輝いた。
まるで古い心臓のように、ゆっくりと脈打っている。
それと同時に、シグナルはピタリと止んだ。
ドクンッ……ドクンッ。
鼓動の音だけが、とてもうるさい。
すると、周囲の木々がゆっくりと息を吹き返すように、生い茂っていく。
地面は苔むし、緑の絨毯に美しい花が次々と咲いていく。
球体の光に照らされて、ここは荘厳なる空間に生まれ変わっていった。
僕はその景色に、ふいに手を合わせ、目を閉じた。
まぶたの裏でも輝く世界は、優しく僕を包み込む。
温かい。じんわりと心が満たされていく。
そこには、おばあちゃんが立っている気がした。
時間の存在を思い出し、ゆっくりと目を開ける。
するとそこに、球体はなかった。
球体のあった場所には、ただ風だけが残っていた。
それが僕には、世界の呼吸のように思えた。
僕は確かな地面を踏みしめながら山を降りた。
頭の中には、まるで流星群のように思考がかけめぐっていた。
──それからときが経ち、おばあちゃんの三回忌。
お寺でお焼香をしていると、ほのかな胸騒ぎがした。
ゆっくりと手を合わせ、目をつぶる。
そして頭の中に強く意識を向けた。
ピコンッ。
胸の奥が熱を帯びた。
次の日、準備を整え、そのシグナルを追いかけた。
心臓の鼓動が「早く早く」とはやし立てる。
今度は東だった。
太平洋に浮かぶ小さな無人島。
そこには産業廃棄物が大量に不法投棄され、大地は荒れ果てていた。
シグナルは、そこにあることを僕に知らせる。
そして、また、見つけた。
まん丸の白い球体。
それは僕を見つめるように静止している。
僕の手は、勝手に何かを押していく。
今度はその動作をしっかりと確かめる。
タッチパネルのようなものが球体についている。
僕はそれを迷うことなく押す。
画面に触れた指先の位置を追うように、球体の光が内部でゆっくり回転した。
それはまるで、僕の脈拍に同調しているようだった。
球体は蒸気を吐き出し、こがね色に輝きながら起動した。
そして、温かい光によって、廃棄物は浄化されていく。
大地は透き通った液体で満たされ、草木が生い茂る。
空気は徐々に澄み渡り、呼吸するだけで体内が潤っていくように心地よい。
この島が息を吹き返したことを肌で感じた。
頬は自然と緩み、穏やかな感覚とともに時間が溶けていく。
「……同じ、なのかもしれない」
僕はつぶやいた。その瞬間、一瞬のうちに球体は空高く飛んでいった。
その空は透き通るように輝いている。
僕は少しずつ、成すべきことを理解していった。
──おばあちゃんの7回忌。
僕はしっかりと準備をした。
お焼香をして、祈るように目をつぶる。
あのとき、おばあちゃんを救えなかった。
その代わりに、世界を少しでも癒やせるならと思った。
きっと、来る。
ドクンッ。
僕の鼓動はそれに答えて高鳴る。
今度は北だった。
おばあちゃんが眠る東京を通り越して、
もっと遠くへ行けと、シグナルは訴えている気がした。
まるで、僕自身の記憶をひとつずつ巡るように。
僕はすぐに移動し、荒廃とした大地を探した。
そして長い時間をかけて白い球体を見つけ、それを起動させる。
もう、見つけ方も手順も理解している。
重要なのはその後だ。
時間はすでに、深夜になっていた。
僕は何台ものカメラを三脚に据え、白い球体の行方を捉える準備をした。
白い球体による美しい景観が脳の感覚をほぐす。
意識を虚ろにして、この空間に溶けたい。
だが、首を振る。僕は知りたかった。
その球体の意味を、おばあちゃんの意志を。
球体は役目を終えると、勢い良く飛び立った。
何台ものカメラがその光景を捉える。
そして、ようやく分かった。
空の向こう、宇宙を超えて、
そこにあるのは”月”だった。
僕の全身は震えた。
球体は月の光に吸い込まれるように消えていった。
月が脈打っているように見えた。
もしかすると、あれは最初から、月の心臓だったのかもしれない。
そしてその鼓動を、僕は察知できる。
そのとき、幼い頃のおばあちゃんの声が、頭の中に響いた──
「いいかい?人は死ぬと、魂が空に登るんだよ」
「なんで〜?」
「それはね、お月様がその魂を使って地球を癒やしてくれるからさ」
「へーすごいね」
「そうさね。だから丁寧に、ひいお祖母様を供養してあげなさい。魂が浄化されるように」
「うん、わかった。お月様。よろしくお願いします」
「弔うことができるのは、親しい人だけだからね」
──僕の頬をひとしずくの涙がつたった。
「おばあちゃんの魂は、僕がちゃんと弔ったよ」
僕は、世界を親しい人だと思うことにした。
夜空に浮かぶまん丸な月は、いっそう輝いて見えた。
──月が沈んだ夜明け、僕は静かに目を覚ました。あの夜の光は、まだ心の奥に残っている。
胸の鼓動と同じリズムで、世界のどこかが呼吸している気がする。
窓を開けると、冷たい風が頬をなでた。
遠くの地平線から、ゆっくりと朝が生まれていく。
あの夜から、世界の観測データが少しずつ変化していた。
地球の平均気温はわずかに安定している。
海流の乱れも、氷床の融解速度も。
すべてが、まるで呼吸を取り戻したように緩やかになっていった。
僕は会社を辞め、独学で地球物理を学び始めた。
誰も信じないだろうが、僕は知っている。
あの白い球体が、月の内部へと吸い込まれた瞬間から、この惑星の“鼓動”は確かに変わったのだ。
夜、ベランダに立って空を見上げる。
月は以前よりもわずかに明るく、温かみを帯びている。
観測機器を通して見ると、光の波長に微弱な揺らぎがある。
周期は──三・八秒。
ピコンッ……ピコンッ……。
あの音と同じ周期だった。
僕は笑ってしまう。
この現象をどう呼べばいいのか、科学の言葉ではまだ説明できない。
けれど、心臓の鼓動がこの惑星の波形と同期しているのを感じる。
データも感覚も、同じことを示している。
世界は、確かに回復している。
それが偶然でも、奇跡でも構わない。
僕はこの事実をただ、観測し、記録し、静かに見届けようと思う。
星はまたたき、月は今夜もゆっくりと脈打っている。
その光の中で、僕の影もまた、ほんのわずかに震えていた。




