第七章 曹華伝三十八 砦に揺らぐ影
夜は早く落ち、砦の大広間には油の灯が揺れていた。外は風が強く、木戸がきしむたびに砂を混じえた気流が石床を撫でてゆく。
机上には地図と駒、そして二通の封書。ひとつは蒼龍国内の兵站拠点襲撃の急報。もうひとつは、泰延帝の御璽が厳かに押された封書――白陵国南進の報せ。
天鳳将軍は机の上に両手を置いたまま、沈黙していた。灯の陰影がその横顔に硬い刻みを描く。周囲には趙将と数名の参謀、背後に控える親衛兵。誰も声を発さず、ただその背を見守るばかりだった。
(白陵国は天脊山脈を越えてはいない。だが峠の麓に軍を集結させた。国境警備隊の斥候の報告なら信憑性は高い。泰延帝の文には“撤退も視野に入れよ、最終判断は天鳳に一任”とある。……つまりこれは、退く口実を与える意図だ)
視線を地図へ落とす。蒼龍国側の砦と補給拠点を繋ぐ線が、ひどく脆く見えた。
(拠点襲撃は迅速すぎる。金城国軍単独でここまで踏み込めるか? …否。黒龍宗だ。背後を揺らし、撤兵の理を作らせる……あの連中の常套だ。泰延は表で暴君を演じ、私はそれを諫め縮退の口実を作る。予定通りの盤面。しかし白陵国がここで沈黙を破ったのは計算外だ。北から投げられた石、その波紋がここまで届いている)
指が地図の補給線を軽く叩く。
(携行した兵糧は五日分。砦の備蓄は二十日――だが線が断たれれば二十日後に枯れる。何より“補給を断たれる恐れ”そのものが兵の心を腐らせる。まずは補給線の死守だ。曹華と白玲を組ませる。私の新鋭と、麗月の懐刀。系統の違う二つを一本の線に当てることで、黒龍宗の罠を鈍らせる。……曹華、お前は人を護る心を残している。それが利刀にも枷にもなる。白玲は理で動く目を持つ。試金石としても、二人を遣る)
わずかに瞼を伏せ、再び顔を上げる。瞳の底に灯より確かな炎が宿っていた。
「――よし」
将は振り返らずに声を放った。
「趙将、補給線の再確認。曹華と白玲は即刻、出立の支度を。砦は烽を倍にし、弩の弦を張り替え、矢倉の番替えを短くせよ。撤兵は段階的に。表は持久、内は転進とせよ」
短い返答が重なり、足音が遠ざかる。
(盤面はまだ、私の掌の上にある――)
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別室。麗月は薄絹の軍衣に軽甲を重ね、鏡の前で髪を梳いていた。端正な顔に笑みを載せながらも、眼差しの奥に焦りの影が揺れている。
(……拠点襲撃。黒龍宗から私の耳には何も降りていない。本来なら“風向き”を事前に囁くはず。沈黙――これはどういうこと?)
爪先で机の封書をなぞる。
(白陵国が沈黙を破った。私の駒組みではない。天鳳は驚きを演じていたが……あの男は驚きすら自在に操る。隣に立つと、己の若さではなく“浅さ”が暴かれるようだ)
背後に控える碧蘭が声を掛ける。
「将軍、夜気が冷えます。お身体を――」
「よいわ。碧蘭、白陵国がなぜ沈黙を破ったか、あなたはどう見る?」
「推測に過ぎませんが……白陵国の内政の変化か、あるいは黒龍宗の影響が北で強まったかと」
麗月はふっと目を伏せる。
(黒龍宗からの合図がない。もしや――私は使い捨ての仮面に過ぎなかった? 華を添えるだけの器物? 美は消耗品。そう教えられたはずだ)
しかしすぐに微笑を浮かべ直す。
(ならば舞う。誰よりも美しく、冷酷に。私の価値は私が決める。曹華……あの眼をどう潰し、どう光らせるか。いずれにせよ私の舞台に引き込む)
灯がぱち、と鳴った。炎の舌が一瞬大きく揺れた。
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私は天鳳将軍の横顔を見ていた。
父を討った敵。かつては憎悪だけで名を刻んだ人。だが今は違う。蒼龍を護るために黒龍宗と対峙する、その背にこそ私が学ぶべきものがある。
(どこまで先を見通しているのだろう。この人は……)
冷徹で揺らがぬ眼差しに、畏怖と尊敬を同時に覚える。
その一方で――麗月将軍のわずかな焦りを私は見逃さなかった。
(この人も揺らぐのか……)
内心でそう呟いたとき、背筋に冷たい風が走る。
勝つために必要なのは武より心。そう教えてくれたのは天鳳将軍だ。
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白玲もまた、冷静な眼で全体を見ていた。
(将軍は動揺を隠している。……仮に黒龍宗の支えが薄れれば、私の未来も再考せねばならない)
しかし、曹華と任を共にすることを思うと、胸の奥に微かな熱が走る。
(あの娘……ただ若いだけではない。槍の眼は既に戦を見ている。どこまで伸びるのか、見極めたい)
逸る気持ちを抑え、唇を結んだ。
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明け方、砦の門が軋んで開く。
冷たい風が流れ込み、火の匂いと砂の匂いを運んでくる。
天鳳将軍の声が鋭く響いた。
「曹華、白玲。補給線を死守せよ」
私は一歩進み出て、深く頭を下げる。
「かしこまりました、将軍」
内心では抑えきれぬ昂ぶりがあった。
(……認められた。この任を、必ず果たす)
白玲も静かに頷き、横に並んだ。
互いに言葉は交わさずとも、胸の奥で同じ炎を分かち合った気がした。
二人を乗せた一隊は、砂混じりの朝風を切って砦を後にした。




