第六章 曹華伝二十九 金城の戦、始動
夏の風が川面を撫で、濁った流れは銀の帯となって朝日にざわめいていた。
その帯を渡る兵たちの鎧は、光と影を乱反射させ、まるで一枚の巨大な刃のように輝いた。
曹華は愛馬・紫叡の背で槍を握り、深く息を吸い込んだ。
(ここからが、私の初陣……)
胸を満たすのは恐怖ではなく昂ぶり。
――死ねない。白華姉さんと興華に会うまでは。
その想いが、戦場に立つ覚悟を鋭く研ぎ澄ませていた。
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天鳳将軍の本営は、渡河を終えるや否や整然と陣形を整えた。
一声で動く兵、一糸乱れぬ隊列、兵糧や宿営地まで計算し尽くされた配置。
戦を“設計”する男の合理と冷徹が、すでに大地を支配していた。
対する麗月将軍の別働隊は、谷を抜け、山影を縫い、敵の背を衝く。
その動きは舞のように優雅で、しかし裏には冷徹な準備が潜んでいる。
兵装、伝令、供給の手配……すべてに彼女の美学が刻まれていた。
(天鳳将軍は合理、麗月将軍は美意識。
同じ勝利を目指していても、その道筋は全く違う……)
曹華は胸中で呟き、槍を握る手に力を込めた。
麗月の軍の華麗さは侮れない。だが同時に、どこか不穏な翳りを感じずにはいられなかった。
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「曹華副隊長。最前線に出ろ」
天鳳将軍が隣に立ち、静かに命じた。
その声には苛立ちも焦りもない。ただ試すような、期待と警告を滲ませた声音だった。
曹華は即座に頭を下げる。
「心得ております、将軍」
趙将隊長が横目で曹華を見やり、無言の激励を送る。
長年、天鳳の片腕として修羅場をくぐり抜けた男の瞳には、曹華を信じる色が確かにあった。
「この程度の戦で苦戦するなよ、曹華」
夜が近づき、月光に照らされた将軍の顔は影を帯びる。
その一言に、曹華は短く息を吐き、唇の端を上げた。
「将軍、任せてください」
その笑みは勝ち気というより、覚悟の証だった。
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戦の支度に追われながら、ふと記憶が甦る。
――あの夜。
村を焼いた蒼龍の兵、迫り来る牙們の刃。
白華がかけてくれていた護身の術を破り、興華が泣きながら光を放った瞬間。
(……あれはなんだったのか。
白華姉さんと興華が、私を守ってくれたあの力……)
曹華は拳を握り締めた。
(私にはまだ何もない。けれど、死ぬわけにはいかない。二人に会うまでは――!)
その強い念が胸を灼き、心の臓を激しく打ち鳴らした。
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戦鼓が鳴り響く。天鳳軍の本隊が川を渡り、金城国の守備隊を正面から牽制した。
規律と冷徹が織りなすその進軍は、“動かない暴力”のように相手の防陣を削る。
一方で、谷を抜けた麗月将軍の別働隊は、静かに後背へと回り込んでいた。
舞のように、冷酷な刃のように――。
曹華は最前線で兵を指揮し、陣を組み、槍を振るった。
金属が軋み、馬が嘶き、泥と血が混じる匂いが鼻を刺す。
耳には兵の叫びと矢の風切り音しか残らない。
(これは私の戦……いや、国の戦いだ。
でも同時に、私個人の戦でもある。父を恨み続けた牙們。
あの男を討つために――私は必ず生き抜く!)
紫叡が力強く地を蹴る。槍先が夕日を反射する。
その瞬間、曹華は走り出した。
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後に「紫電の曹華」と呼ばれることになる、曹華の初陣はここから始まった。




