第六章 曹華伝二十五 麗月将軍
石造りの城門をくぐり、麗月将軍は馬上から静謐な面持ちで周囲を睥睨した。
第七砦を構成する灰色の石壁は、長年の風雨に晒され古びてはいる。しかし、彼女の慧眼が捉えたのは、経年による崩壊ではなく、精緻を極めた補強の痕跡であった。石の継ぎ目は新しく、防壁の柵には鋭く削り直された跡がある。見張りの兵は死角を排して配置され、矢倉の周辺には、張り替えたばかりの弓弦が放つ、乾いた脂の匂いが漂っていた。
(……なるほど)
心中で、短くも冷徹な評価を下す。即席の整備にしては、あまりにも徹底され過ぎている。前線指揮官の質が凡庸であれば、これほど短期間に「機能する城塞」へと変貌させることは不可能だ。
――天鳳ひとりの差配ではあるまい。
麗月の流麗な視線は、砦の内で峻烈に動く一人の女戦士――曹華の姿に留まった。
若い。だが、兵を動かす下知に迷いがない。矢倉の強度を自ら確かめ、兵糧の配分に細心の注意を払い、兵の精神が弛緩せぬよう鋭い声を掛けている。単なる勤勉なだけの武官ではない。常に戦場の「全体像」を俯瞰し、最適解を選び取ろうとする意志が見て取れた。
(……副官か)
その姿を捉えた刹那、麗月の武人としての本能が警鐘を鳴らした。――あれは、未だ育ち切ってはいないが、放置すればいずれ自分たちの地位を脅かす「怪物」へと成る器であると。
麗月の脳裏に、春の宮廷における異様な光景が蘇る。泰延帝が唐突にぶち上げた、全方位への大規模外征。あまりに拙速で、兵站を軽視した大仰な計画。冷徹なる合理主義者である彼女でさえ、内心では「玉座に狂気が宿ったか」と疑ったほどだ。
その場において、真っ向から帝を諫めたのが天鳳将軍であった。皇帝を前にしても微動だにせぬ不退転の姿勢。感情を排した論理による反論。そして何より、あの傲岸不遜な泰延帝が、結果として外征計画の縮小を受け入れたという事実。
(やはり、天鳳こそが真に警戒すべき毒……)
帝に従順なる臣を装いながら、国家の命運を左右する瀬戸際で、一歩も引かずに己の意思を突き通す胆力。そして、それを皇帝に認めさせるだけの影響力。
もちろん、その一連のやり取りが、黒龍宗の走狗を一掃するために仕組まれた緻密な「二重の芝居」であるなどとは、麗月の知略を以てしても、露ほども疑ってはいなかった。
麗月は、再び曹華へと視線を戻した。腰に槍と剣を帯び、長い黒髪を峻烈に結い上げた立ち姿には、一片の隙も存在しない。
(……どこかで、見覚えがあるわね)
深層の記憶を探り、即座に一つの光景に突き当たる。
春の宮廷。
居並ぶ高官や将軍たちを差し置いて、泰延帝がわざわざ名を呼び、声を掛けたあの女だ。その時は、帝の気紛れに愛でられた幸運な小娘に過ぎぬと切り捨てていた。だが、目の前で兵を統率するその姿を見る限り――その認識は、致命的な誤りであったと認めざるを得ない。
(……ふふ、なるほど)
麗月の艶やかな唇の端が、わずかに吊り上がった。将としての峻厳なる眼が告げている。この娘は、いずれ自分たち五将軍の座を揺るがし、対等に争うべき器にまで化けるかもしれない、と。
天鳳。そして、この底知れぬ若き副官。
どうやら蒼龍国の未来は、黒龍宗が描く絵図のように一筋縄ではいかぬらしい。砦の堅牢なる防備も、兵たちの極限まで研ぎ澄まされた規律も、想像の域を遥かに越えている。天鳳の軍は、やはり侮りがたき強敵だ。
だが麗月にとって、それは戦慄すべき事実ではなく、己の力を証明するための最良の「獲物」に過ぎなかった。
(好いわ……)
明日以降、歴史の歯車は音を立てて動き出す。この第七砦か、あるいは金城国の深奥か。いずれにせよ、自らの「美学」を示すための舞台は整いつつある。麗月の胸中に、一分の不安も、微かな疑念も存在しなかった。
この西征の裏側で、主君たる皇帝と隣に立つ天鳳の手により、自分自身を処刑場へ送り届けるための、逃れられぬ刃が既に振り下ろされているなど――。
麗月将軍は、死の瞬間まで夢にも思わぬことであろう。
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