第六章 曹華伝二十六 軍議の序幕
砦の大広間。
油の灯が幾つも吊り下げられ、壁に刻まれた影が揺れ動いていた。木の長机を中心に円を描くように席が設えられ、その場に集う者たちの甲冑が光を反射し、戦の気配を濃く漂わせている。
外は初夏の夜、涼風が石壁にぶつかって低く唸り、遠くで歩哨の声がかすかに響いていた。
この場の中心に座すのは、天鳳将軍と麗月将軍。
互いに向かい合い、その左右にはそれぞれの親衛隊長と副隊長が並ぶ。背後には補佐役や伝令の将兵が直立不動で控え、場の空気をさらに張り詰めていた。
最初に口を開いたのは、天鳳将軍である。
低く落ち着いた声が、油の炎の揺らぎをも抑えるように大広間に響いた。
「まずは紹介から入ろう。――私の片腕である親衛隊隊長、趙将。そして、その副隊長である曹華だ」
促され、趙将が一歩前へ進み出る。背筋を伸ばし、深々と頭を垂れるその姿は、歴戦の将としての風格を隠さない。
「麗月将軍。お久しゅうございますな」
その声に、麗月はわずかに目を細め、唇に穏やかな笑みを浮かべた。
「趙将殿。変わらぬご健勝ぶり、何よりだ。噂はかねがね耳にしていたが、今なお天鳳将軍の片腕として働かれているのは頼もしいことだ」
二人のやり取りには、戦場を幾度も共にくぐり抜けた者にしか分からぬ厚みがあった。
血煙と矢雨の中で背を預け合った記憶が、その一言一言に宿っている。互いの力量を疑わぬ信頼は、周囲の兵たちにすら伝わり、張り詰めた空気を一瞬だけ和らげた。
続いて、曹華が一歩進み出た。
若き副隊長は毅然とした表情で、堂々とした礼を示した。
「麗月将軍。曹華と申します。趙将隊長を補佐し、この戦に全力を尽くす所存です」
その声は決して大きくはなかったが、澄んだ響きが大広間の隅々にまで届いた。
麗月の視線が、じっと曹華を射抜いた。
春の皇帝謁見の折、陛下自ら声をかけられた小娘――当時はただの気まぐれだと考えていた。
だが、いま目の前に立つ曹華は違う。その眼差しは揺るぎなく、そこには年若さに似つかわしくない覚悟と誓いが宿っていた。
(……思いのほか厄介な芽かもしれぬ)
麗月は胸の奥でそう呟いた。
やがて、麗月も手を挙げ、背後に控える二人を示す。
「こちらも紹介しておこう。我が親衛隊を預かる碧蘭。そして副を務める白玲だ」
碧蘭は長身痩躯の女将で、深い群青の甲冑に身を包んでいた。涼やかな眼差しは冷徹で、場を一瞥しただけで兵の配置や空気の揺らぎを読み取るような鋭さを感じさせる。数多の戦場で麗月を支えてきた老練の参謀であった。
一方の白玲は、まだ二十代半ばほど。若さの中に研ぎ澄まされた強さを宿し、凛と立つ姿は女剣士そのものだった。
「麗月将軍の副隊長、白玲にございます。以後、よろしくお願いいたします」
その澄んだ声は、張り詰めた大広間に清流のように流れ込んだ。
曹華と目が合った瞬間、白玲はわずかに眉を上げる。
(この娘……ただの副官ではない)
口にこそ出さなかったが、戦場に生きる者同士の直感が火花のように走った。
曹華もまた、その視線に応え、ひるむことなく視線を返した。二人の間に、まだ名もなき火種が芽生えた瞬間だった。
紹介が終わると、大広間には一瞬の沈黙が落ちた。
炎の揺らめきが甲冑の縁を照らし出し、油の匂いと鉄の匂いが交じり合う。
雪のように冷たい視線を曹華に向けながら、麗月は思考を巡らせる。
(泰延帝の突飛な外征計画を縮小させたのは天鳳将軍……やはり最も厄介な男。だが、その副官に、皇帝から声を掛けられた娘を据えるとは……)
そして、口元をほんの僅かに歪めた。
(面白い。明日以降が楽しみになるではないか)
天鳳将軍が低く咳払いをして言葉を継ぐ。
「さて――紹介は済んだ。これより軍議に入る」
その一言で、再び大広間の空気は硬直した。
戦の幕が、静かに、しかし確実に上がろうとしていた。




