第五章 白華・興華伝二十四 決断の猶予
白陵国国境要塞、その深奥に位置する指揮所。四方を堅牢な石壁に囲まれた室内には、軍事地図や古びた木簡が散乱し、夜半の灯火が不安げに揺らめいていた。
白華と興華の監視強化を厳命し、重厚な扉を閉ざした刹那、彗天は抑え込んできた苛立ちを爆発させた。
「……ふざけるな!」
凄まじい衝撃とともに拳が机を叩き、広げられた地図が空中に跳ねる。
「柏林王族の遺児だと? 二十六年も前に灰燼と化した亡国の残党だぞ! 今さら何を――」
その怒声は、鋭い岩を削り取るように荒々しく響き渡った。
氷雨は眉をひそめながらも、声音を乱すことはなかった。
「落ち着いてください、彗天殿。それが真実であれ虚飾であれ、ここは国境の最前線です。貴方の感情一つで不用意に血を流せば、白陵国の根幹そのものが揺らぎかねません」
彗天は忌々しげに歯噛みした。
「…今この場で始末をつければ、禍根は断てる。嘘ならば単なる賊の処刑。真実ならば……なおのこと、後悔を残さぬよう根絶やしにするまでだ」
「それは違います」
氷雨は静かに、しかし断固として首を振る。
「嘘ならば不当なる殺害。真実ならば、正統なる王族の暗殺です。いずれも後刻、必ずや我らへの重い『責任』として回帰してくる。まして、宮廷の深奥に黒龍宗の毒が回っている疑いがある今、軽挙妄動は致命的な隙となります」
彗天は重く口を閉ざした。荒々しい武人の性分の裏側で、彼は冷徹な軍人でもあった。戦場において感情よりも結果の優劣を読み解く訓練を、それこそ嫌というほど積んできたのだ。
「……雪嶺大将に上申せよ、と申すか」
「はい。内々に密書を送り、大将自らの聖断を仰ぐべきです。現場の独断で決するには、この案件は余りにも重すぎます」
氷雨の声は、既に動かしようのない『結論』を提示していた。
彗天は深く長く息を吐き出し、ようやく拳の力を緩めた。
「……癪だがな。決断を先送りにするのは」
彼は吐き捨てるように言葉を継ぐ。
「だが、今ここで独断で殺し、後に我らの首が飛ぶのも御免だ。よし――暫時、拘留を継続せぬ。取り調べの名目で留め置け。聴の石による監視を強化せよ。逃走の芽は、一分たりとも残すな」
氷雨は小さく頷いた。
「私が大将へ書簡を綴ります。文面は慎重を期しつつも、事態の緊急性は明確に。……凍昊中将の耳には、決して入れぬように」
彗天の表情が、不機嫌な曇りを帯びる。
「……あの食えぬ男か」
凍昊の名は、二人の胸に冷たい重石となって沈み込んだ。
「書簡は俺の封緘を施し、直属の伝令に厳命する。『絶対に逃がすな。揺さぶるな。余計な口を利くな』とな」
二人は短く視線を交わした。それで十分であった。
彗天は最後に、自問するように低く呟いた。
「あの娘……白華と言ったか。あの眼は、虚言を弄する者のそれではない。だからこそ俺は疑う。真実ならば利用価値を考えねばならん。黒龍宗の罠ならば、なおさらだ」
氷雨は小さく息を吐き出す。
「利用するにせよ、排除するにせよ、まずは揺るぎなき事実が必要です。今日の最善は――『決めつけぬ』こと。それ以外に道はありません」
深夜の指揮所には、二人の冷徹な思惑だけが静かに渦巻いていた。
扉の向こう側では、白華と興華を見張る歩哨の靴音が時刻みの如く規則正しく響き続ける。
姉弟の姿は、この場にはない。
だがその存在は、既に白陵国という国家の決断の、その中心に位置していた。選ばれなかった即座の判断。先送りされた断罪の刃。それこそが、今、白陵国が選び取った最も重き一手であった。
読んでいただきありがとうございます。
作品、続きに興味を持っていただけたら、☆をお願いします。




