第五章 白華・興華伝二十 国境兵舎にて
白陵国の国境詰め所――そこは、白を基調とした石造りの砦だった。厚い壁は凍りつくように冷たく、夜の帳が降りると吐息さえ白く凍る。天脊山脈の吹き下ろす冷風が廊下を抜け、松明の火が揺らぐたび、石の影がまるで兵たちの無言の視線のように伸び縮みしていた。
白華と興華は、捕縛ではなく「保護」という名目で兵舎の一室に案内された。だが、それはあまりに質素な客間だった。窓は小さく、分厚い鉄格子がはめられている。机と椅子、簡素な寝台が二つ。戸口の外には二人の兵士が交代で歩哨に立ち、片時も扉から離れない。監視か保護か――答えは火を見るより明らかだった。
白華は室内を一瞥し、薄い布団に腰を下ろした。灯りは一つの油皿に過ぎず、揺れる影が壁を流れる。興華は部屋の隅に仙杖を立てかけ、吐息を抑えるように深呼吸した。
「姉さん……ここ、本当に保護なんだよね?」
少年らしい声に、疑念と不安が滲む。
白華は油皿の火を見つめながら、囁くように答えた。
「名目はそうでも、実際は監視ね。あの兵士たちの目、鋭すぎるわ。私たちが一挙一動、怪しい真似をしないか、見張っている」
二人の声は小さく、互いに目線で「これ以上は危険だ」と合図を交わす。扉の外に立つ兵士の鎧が微かに軋み、耳を澄ませている気配がした。白華と興華は会話に細心の注意を払い、互いの呼吸すら抑えるように沈黙した。
---
その頃、同じ兵舎の指揮所。
彗天中将と氷雨中将は、地図を広げた机を挟んで向かい合っていた。厚い毛皮の肩掛けを羽織った彗天は、頬に走る古傷を無意識に撫でる。その目は鋭く、まるで獲物を値踏みする猛禽のようだった。
「……あの二人、ただの旅人とは思えん」
低く放たれた声に、氷雨は唇を引き結び、腕を組んだ。
彼女は背筋を伸ばし、冷静な声で返す。
「間違いないわ。国境を越える者は少なくないけれど、あの身のこなしは尋常じゃなかった。特に少年――あの若さで、兵の目を欺いて動けるとは」
「ふん。だが、まだ子供に過ぎん。……いや、子供だからこそ厄介か」
彗天は椅子から立ち上がり、窓の外を睨む。雪明かりに照らされた詰め所の庭では、兵たちが交代で巡回している。
「もし奴らが黒龍宗の密偵なら……この国の心臓に毒を注ぐ蛇になる」
氷雨は眉を寄せた。
「けれど、あの少女の眼を見た? 恐怖もあったけれど、澄んでいたわ。あれは嘘を吐く目じゃない」
「見かけで判断すれば足元を掬われるぞ、氷雨」
彗天の声は荒かったが、その奥には兵を守る責任感が滲んでいた。
「俺は雪嶺大将の右腕として、この国境を預かっている。危うい芽は摘む。それがたとえ、子供であってもな」
氷雨はしばし沈黙し、やがて小さく息を吐いた。
「……ええ。けれど、私は彼らを見極めたい。あの子供たちがもし敵ではなく、逆にこの国の助けとなるなら、無闇に斬り捨てるのは愚策よ」
二人の意見は相反していたが、互いに退かなかった。机上の地図に落ちる影が揺れ、緊張が漂う。
---
その夜。
客間の白華と興華は眠れぬまま時を過ごしていた。白華は窓辺に腰掛け、雪月の光を眺めながら静かに囁いた。
「興華……気を抜いては駄目。この国では、私たちの一言一挙が命取りになる」
弟は布団に横たわりながら、拳を握りしめた。
「分かってる。でも、僕……この国で、本当に曹華姉さんの手がかりを掴めるのかな」
白華は答えず、ただ弟の髪を撫でた。その瞳には、冷たい光の奥に、確かな炎が宿っていた。
外では歩哨の兵士が交代の号令をかける声。甲冑が打ち鳴らす硬い音が夜の静寂を刻み、まるで「お前たちは常に監視されている」と告げていた。
白華と興華――姉弟は互いに言葉を潜めながらも、決して心を折られることはなかった。
そして同じ夜、指揮所で地図を畳んだ彗天と氷雨もまた、口に出さぬ疑念と期待を胸に抱きながら、それぞれの思考に沈んでいた。
彼らの視線の先にある二人が、この国を乱す嵐となるのか、それとも白陵国を救う光となるのか――誰にもまだ分からなかった。




