第四章 白華・興華伝十三 旅立ち前の試練
玄翁から、一ヵ月後の旅立ちが告げられた翌日──。
「よいか、白華、興華。一ヵ月後、そなたらの旅立ちは決定した。明日、この修練の全てを試す最後の試練を行う」
老仙の声は淡々としているが、その一言が二人の胸に緊張と期待を同時に呼び起こした。修行の終わりが目前に迫り、同時に運命の分岐点が見え隠れする。薄氷の上を歩むような覚悟が、白華と興華の背筋を伸ばした。
その日の午後、二人は湖畔で静かなひとときを過ごしていた。厳しい修行の合間の、久しぶりの他愛のない会話だ。水面に夕陽が踊り、風が藪の葉を揺らす。白華は湖をじっと見つめながら、低い声で決意を告げた。
「興華、最初に向かうのは予定通り、白陵国にしましょう」
興華は即座に頷く。まだあどけなさの残る顔だが、その瞳には静かな決意が灯っていた。
「うん。蒼龍国へいきなり飛び込むのは賢明ではない。罠に嵌るか、黒龍宗の闇に飲まれてしまう。白陵国なら、情報と知恵を得られるはずだ」
白華は学んだ地図を思い起こし、玄翁の説いた各国の情勢を頭の中で重ね合わせる。白陵国は大国だが、黒龍宗の影を一面で背負うわけではなく、表面には出さない警戒心を持つ国だと玄翁は語っていた。情報と同盟を得る場所として、最良の第一拠点になるはずだ。
興華はそっと自分の仙杖に手をかけ、姉を見上げる。
「姉さんの認識阻害と、僕の気。僕たちが一緒なら、どんな地でもやれる。それに、白華姉さん、僕は姉さんを守るって約束したから」
白華は弟の言葉に小さく笑った。その笑顔の裏には、修行で磨かれた冷静な覚悟があった。二人は、翌日の試練に思いを馳せながら、夜明けを待った。
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岩場の修練場にて
夜明け、白華と興華は玄翁の前に立っていた。老仙は簡素な修練場そばの岩場を指し示し、厳しい表情で告げる。
「今日、そなたらは白陵国の要塞を突破する訓練を行う。目標は、この湖の最奥に見立てた『古文書』だ。合図は無用。制限時間も与えぬ。ただし、儂が仕掛けた『警戒の気』を帯びた仙術人形に一度でも触れたり、音を立てて警戒を破った場合は即座に失敗とする」
玄翁の説明は短いが重い。単純な戦闘力だけでなく、隠密行動、連携、精神の統制が試されることが明白だった。特に「警戒の気」を持つ人形は、興華の気功による足音消去と、白華の認識阻害の精度が完璧に噛み合わなければ、突破は不可能だ。
白華は周囲を一瞥し、すぐに人形の配置を読み始めた。視線の奥に、玄翁が付与した光の筋──人形の警戒範囲が観えたかのように。彼女の頭の中で侵入ルートが次々と描かれていく。
「興華、今回の突破は私たちの連携がすべてよ」白華は落ち着いて言った。「私は認識阻害の膜を広く張り続ける。だが膜は音と接触まで消すわけではない。あなたの気で足音を消し、身体能力を補強してくれ」
興華は小さく拳を握り、力強く答える。
「分かった。姉さんの盾の中で、僕が矢になる。膜が揺れたら、僕の気で補強する」
白華は深呼吸し、視線を閉じる。ゆっくりと術を展開し、周囲の空気が粘りを帯びるように歪んでいく。細かな波紋のような光の膜が、彼女の周囲に張られ、岩や藪の輪郭を微かにぼかした。仙術人形はいつも通りの巡回を続け、何事もないかのように姿を見せる。
「行くわよ」白華の合図で、興華は岩場の陰に身を沈め、最も警戒の薄い隙間から滑り出した。
彼の動きは、外見からは想像できないほど静かで素早い。気功で筋肉の応答速度を引き上げ、呼吸はほとんど止めているかのように抑えられている。足先が岩に触れるときの微かな振動も、興華の気が吸い取って消える。まるで水上を滑る葉のように、彼は仙術人形の眼前を通り過ぎる。人形の顔がわずかに彼を捉えるが、その警戒は膜に阻まれ反応を引き起こさない。
白華は膜をさらに精錬し、興華が通過する経路を繊細に補強する。彼女の意識は一切ぶれない。膜が揺れた瞬間、興華の気が瞬時に流れ込み、揺れを打ち消す。二人の呼吸と意識が、まるで一つの呼吸になるとき、試練は静かに進行する。
岩場を抜け、木陰を縫うように進んだ先に小さな洞窟が現れる。そこに置かれた古文書を、興華は震える手で抱え上げた。白華は安堵の息を漏らし、その肩に軽く触れる。湖面に朝日が差し込み、二人の影を長く伸ばした。




