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三華繚乱  作者: 南優華
第二十章
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第二十章拾 緇(くろぎぬ)始動

 白陵宮に、目に見えぬ濁りが溜まり始めた。それは事件でもなく、騒動でもない。ましてや、血の匂いもしない。


ただ――

空気が、変わった。


---


最初に崩れたのは、女官たちの日常だった。

誰かが「聞いた」と言う。

誰かが「見た」と囁く。

誰かが「本当らしい」と付け足す。


「白華が北に“売られた”らしい」「白陵は蒼龍国と密約を結んだらしい」「北方部族は、白華を“人質”としたらしい」「氷陵帝の判断は、老いによる過ちだ」という噂も流れた。


だが、誰一人として、「誰から聞いたのか」は答えられなかった。まるで、言葉の方から勝手に歩いてきて、

耳元で囁き、そして消えていくようだった。



---


その中心にいたのが、麗翠だった。

女官長――

白陵宮の裏側を実質的に取り仕切る女。


彼女は声を大にして語らない。命令もしない。ただ、心配そうに“漏らす”だけだった。


「あの御沙汰……陛下はお苦しそうでしたね」「北は……荒れた土地ですもの。本当に、白華殿を送り出してよかったのでしょうか……」「もし、何かあれば……いえ、あくまでも“もしも”の話ですが……」


それだけだった。しかし、その「それだけ」が、女官たちの心に波紋を残した。疑念は、水に落とした墨のように広がる。


静かに。確実に。



---


その夜、麗翠は、誰もいない部屋で一人、灯を消した。窓もない暗がり。ただ、香の匂いだけが漂う空間。


そこへ、風もなく、ひとつの影が“現れた”。


人の形をしていない。しかし、そこに“何か”がいると、肌でわかる。


「……緇、でございますか」


震えを押し殺した声で、麗翠が言う。闇が、わずかに揺れた。それだけで、答えだった。


麗翠は膝を折る。

「……私は、言われたとおりに動いております。

白陵の中に……澱を……」


声が掠れる。

「……ですが……本当に、これで……」


影が、彼女の背後に回る。

冷たい指が、触れたわけでもないのに、

首筋がひやりとした。


《お前は、よくやっている》


声はなかった。

だが、頭の奥に直接響いた。


《いま、お前は“操っている”つもりだろうが》


《違う》


《お前は――試されている》


麗翠の喉が鳴る。

「……お許しください」


《逃げられると思っているか》


《忘れたか》


《お前は、戻れぬ場所にいる》


静かな断言だった。


《動く限り、生きられる》


《止まった瞬間、お前は不要になる》


影は、それ以上、何も言わなかった。


ただ――

そこにいる、というだけで。



---


翌日、白陵宮はさらにざわついた。

宰相派の女官が、雪蓮皇女の近習と口論した。

武官筋の使用人が、華稜皇子の側近と睨み合った。


小さな摩擦。

だが、それは確実に「線」になりつつあった。


白華を守る者たちと、

白華を“誤り”と囁く声。


曹華の健闘を信じる者と、

蒼龍国を疑う者。


そして何より――


興華を「最後の支え」と見る者と、

興華を「危うい存在」と見る者。


誰が仕掛けたわけでもない。

だが、誰かが“水を濁した”。


その影に、誰も気づかない。



---


その頃、白陵宮の高み。

興華は、ひとり剣を振っていた。汗が落ちる。呼吸が荒い。

だが、心は静かだった。


(……最近、妙だ)


人の目が変わった。

言葉の間が変わった。

空気が、薄く歪んでいる。


だが、その“原因”は見えない。


興華は空を見上げる。


白陵の空は、今日も変わらず澄んでいた。


――何も知らないまま。



---


その夜、再び影が動いた。


白陵の屋根の上。

城壁の陰。

回廊の奥。


“緇”の者たちは、

麗翠だけを見ていなかった。


清峰宰相、霜岳大司徒、天華皇女、雪蓮皇女、華稜皇子。


すべてを拾い、測り、

“揺らしやすい場所”に印をつけていく。


白陵は、まだ崩れていない。


だが、


《……よい》


《よく燃える乾き方だ》


《これは、炎を入れる前の“裂け目”》


その囁きが、どこかで響いていた。



---


白華は北へ。

曹華は南へ。


そしてその中央に残された――興華。


白を侵す準備は、もう終わっていた。


動き出したのは血ではない。


言葉だ。

疑念だ。

恐怖だ。


そしてその奥に潜む、

――黒だった。



---

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