第二十章玖 白を侵食する黒
白陵宮の夜は、いつもよりも静かだった。
回廊を渡る風の音が、まるで何かを測るように長く引き伸ばされ、灯籠の火が一拍遅れて揺れる。その静けさの奥に、黒蓮冥妃はいた。
姿はない。
影だけがある。
薄墨を溶かしたような気配が、白陵宮の天井裏を、柱の影を、庭園の水面を、静かになぞっていた。
そして――
その視線の先にいたのは、興華だった。
冥妃は、距離を保ったまま、彼を眺めていた。
触れない。
介入しない。
ただ、観る。
(……この子は、“器”として出来すぎている)
胸の奥で、冥妃は静かに結論する。
霊力の流れは澱みなく、昂りはなく、しかし微塵も乱れていない。
強靭でも、奔流でもない。
それゆえに、異様だった。
(未完成ではない。
だが、完成もしきっていない……)
興華という少年は、すでに「入れ物」としては完璧に近かった。
だが、中身は、まだ満たされていない。
姉たちの不在。
失われた王家の血。
白陵という異国の庇護。
それらすべてが、この器の底に澱となって、澄んだまま沈んでいる。
(壊す必要はない)
冥妃は、微かに唇を歪めた。
(奪うのにも、まだ早い)
今ここで連れ去れば、この器は拒むだろう。
傷つき、裂け、歪み、二度と“澄まぬ水”になる。
それでは、価値がない。
(……育てる方がよい)
冥妃は賭けに出ることを選ばなかった。
この少年の行く末は、すでに“結果が見える賭け”だったのだ。
姉は北へ渡り、
姉は南で炎を切り裂く。
そしてこの子だけが――
何も知らぬまま、中央に取り残されている。
(いずれ、三つは揃う)
白華が“名”を。
曹華が“武”を。
この少年が“器”を。
それは意図でも計画でもない。
配置そのものが、そうなっている。
(ならば――)
冥妃は静かに、思考を進める。
(私は、待つ)
奪わない。
折らない。
縛らない。
――それが、最も怖い選択であることを、誰よりも知りながら。
興華の背に、黒の気配は届かない。
しかし、確実に輪郭をなぞった。
(……よい器だ)
冥妃は、確信する。
(千年に一度、というのは誇張ではない)
そして同時に、決める。
(いまは、この白陵という檻に、育てさせておく)
黒蓮冥妃は、影を引いた。
まるで最初から、存在しなかったかのように。
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白陵宮の奥。
人の足が途絶えた夜更け。
ひとりの女官が、膝を折っていた。
麗翠。
かつて、黒龍宗に通じ、
そして――
氷陵帝が白華と興華を「客将として庇護下に置く」と高らかに宣言して以来、彼女は沈黙していた。己の身を守るためではない。沈黙するよう命じられていたのだ。
だからこそ。
いま、目の前に立つ影を見たとき、
麗翠は悟った。
(……来た)
逃げ場はない。
影は、女の形すら取らなかった。
ただ、声だけが降りた。
「久しぶりね、麗翠」
色のない声。
だが、忘れられるはずもない。
「……冥、妃……」
喉が、音を作るのを拒む。
「よく、静かにしていたわね」
褒めているのか、嘲っているのか――わからない。
「あなたは賢いわ。
“何もしない”という選択を、正しく選んだ」
麗翠の背に、冷たい汗が流れた。
(……まだ、見られていた)
「では――」
冥妃の声が、ほんの一段低くなる。
「今度は、“動いて”もらいましょうか」
麗翠の心臓が跳ねる。
「……なにを、すれば……」
問いは、虚ろだった。
否定する余地など、最初からないことを知っている。
影は、静かに告げた。
「宮中を乱しなさい」
言葉は短く、意味は重い。
「人の心を。
不信を。
不満を。
“揺らぎ”を――広げて」
麗翠の喉が、ひくりと鳴る。
「私はあなたに、命じない」
冥妃の声は、優しいほどだった。
「選ばせてあげる」
麗翠の中に、わずかな希望が芽生え――
すぐに、潰された。
「逃げてもいいわよ」
冥妃は、淡々と告げる。
「どこへ行っても、終わりだから」
それは脅しではなかった。
事実の提示にすぎない。
麗翠は、その場で理解した。
(……私は、もう“戻れない”)
女官であるふりをして、
生き延びているつもりでいただけなのだ。
冥妃は、最後にこう言った。
「あなたは“失敗しない”」
それは慰めではなく、運命の宣告だった。
「失敗というのは、自由がある者にしか起こらないのよ」
影が、消える。
気配が霧のように薄れていき――
やがて、そこには麗翠ひとりが残った。
震える指で、胸を押さえる。
(……逃げられない)
いや。
(もう、とっくに逃げ損ねていた)
麗翠は、ゆっくりと立ち上がった。
その背中に、
女官としての柔らかさは、
もう、ほとんど残っていなかった。
白陵宮の、闇が――
静かに、動き出す。
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