表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三華繚乱  作者: 南優華
第二十章
317/319

第二十章玖 白を侵食する黒

 白陵宮の夜は、いつもよりも静かだった。

 回廊を渡る風の音が、まるで何かを測るように長く引き伸ばされ、灯籠の火が一拍遅れて揺れる。その静けさの奥に、黒蓮冥妃はいた。


 姿はない。

 影だけがある。


 薄墨を溶かしたような気配が、白陵宮の天井裏を、柱の影を、庭園の水面を、静かになぞっていた。


 そして――

 その視線の先にいたのは、興華だった。


 冥妃は、距離を保ったまま、彼を眺めていた。

 触れない。

 介入しない。

 ただ、観る。


(……この子は、“器”として出来すぎている)


 胸の奥で、冥妃は静かに結論する。


 霊力の流れは澱みなく、昂りはなく、しかし微塵も乱れていない。

 強靭でも、奔流でもない。

 それゆえに、異様だった。


(未完成ではない。

 だが、完成もしきっていない……)


 興華という少年は、すでに「入れ物」としては完璧に近かった。

 だが、中身は、まだ満たされていない。


 姉たちの不在。

 失われた王家の血。

 白陵という異国の庇護。


 それらすべてが、この器の底に澱となって、澄んだまま沈んでいる。


(壊す必要はない)


 冥妃は、微かに唇を歪めた。


(奪うのにも、まだ早い)


 今ここで連れ去れば、この器は拒むだろう。

 傷つき、裂け、歪み、二度と“澄まぬ水”になる。


 それでは、価値がない。


(……育てる方がよい)


 冥妃は賭けに出ることを選ばなかった。

 この少年の行く末は、すでに“結果が見える賭け”だったのだ。


 姉は北へ渡り、

 姉は南で炎を切り裂く。


 そしてこの子だけが――


 何も知らぬまま、中央に取り残されている。


(いずれ、三つは揃う)


 白華が“名”を。

 曹華が“武”を。

 この少年が“器”を。


 それは意図でも計画でもない。

 配置そのものが、そうなっている。


(ならば――)


 冥妃は静かに、思考を進める。


(私は、待つ)


 奪わない。

 折らない。

 縛らない。


 ――それが、最も怖い選択であることを、誰よりも知りながら。


 興華の背に、黒の気配は届かない。

 しかし、確実に輪郭をなぞった。


(……よい器だ)


 冥妃は、確信する。


(千年に一度、というのは誇張ではない)


 そして同時に、決める。


(いまは、この白陵という檻に、育てさせておく)


 黒蓮冥妃は、影を引いた。


 まるで最初から、存在しなかったかのように。



---



 白陵宮の奥。

 人の足が途絶えた夜更け。


 ひとりの女官が、膝を折っていた。


 麗翠。


 かつて、黒龍宗に通じ、

 そして――

 氷陵帝が白華と興華を「客将として庇護下に置く」と高らかに宣言して以来、彼女は沈黙していた。己の身を守るためではない。沈黙するよう命じられていたのだ。


 だからこそ。

 いま、目の前に立つ影を見たとき、

 麗翠は悟った。


(……来た)


 逃げ場はない。


 影は、女の形すら取らなかった。

 ただ、声だけが降りた。


「久しぶりね、麗翠」


 色のない声。

 だが、忘れられるはずもない。


「……冥、妃……」


 喉が、音を作るのを拒む。


「よく、静かにしていたわね」


 褒めているのか、嘲っているのか――わからない。


「あなたは賢いわ。

 “何もしない”という選択を、正しく選んだ」


 麗翠の背に、冷たい汗が流れた。


(……まだ、見られていた)


「では――」


 冥妃の声が、ほんの一段低くなる。


「今度は、“動いて”もらいましょうか」


 麗翠の心臓が跳ねる。


「……なにを、すれば……」


 問いは、虚ろだった。

 否定する余地など、最初からないことを知っている。


 影は、静かに告げた。


「宮中を乱しなさい」


 言葉は短く、意味は重い。


「人の心を。

 不信を。

 不満を。

 “揺らぎ”を――広げて」


 麗翠の喉が、ひくりと鳴る。


「私はあなたに、命じない」


 冥妃の声は、優しいほどだった。


「選ばせてあげる」


 麗翠の中に、わずかな希望が芽生え――


 すぐに、潰された。


「逃げてもいいわよ」


 冥妃は、淡々と告げる。


「どこへ行っても、終わりだから」


 それは脅しではなかった。

 事実の提示にすぎない。


 麗翠は、その場で理解した。


(……私は、もう“戻れない”)


 女官であるふりをして、

 生き延びているつもりでいただけなのだ。


 冥妃は、最後にこう言った。


「あなたは“失敗しない”」


 それは慰めではなく、運命の宣告だった。


「失敗というのは、自由がある者にしか起こらないのよ」


 影が、消える。


 気配が霧のように薄れていき――


 やがて、そこには麗翠ひとりが残った。


 震える指で、胸を押さえる。


(……逃げられない)


 いや。


(もう、とっくに逃げ損ねていた)


 麗翠は、ゆっくりと立ち上がった。


 その背中に、


 女官としての柔らかさは、

 もう、ほとんど残っていなかった。


 白陵宮の、闇が――

 静かに、動き出す。



---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ