第二十章幕間 蒼龍京の空気
蒼龍京は、にわかにざわめいていた。
市井に走る噂というのは、いつも戦の終わりよりも早い。金城国が王都に立て籠もったこと、蒼龍軍がそれを包囲したこと。
そして、ごく短い言葉が、火種のように人の口から口へと移っていった。
――紫電の曹華。
将軍府へ向かう道すがら、兵の詰所でも、商家の軒先でも、その名は囁かれていた。
「聞いたか、“紫電”……」 「将軍じゃないぞ、副隊長だと……」 「いや、もう将軍の器だって話だ」 「女だというじゃないか」 「だからこそ、だ――天鳳の側で生き延びている」
噂は、尾ひれをつけて膨らんでいく。
だが“紫電”という名だけは、崩れずに芯のまま残った。
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白玉の床に淡い光が揺れる玉座の間。
蒼龍国皇帝・泰延帝は、珍しく気の抜けた笑みを浮かべていた。
「ふふ……春の謁見の折に、天鳳が連れていたあの小娘が、よもやここまでとはな」
傍らに控えていた文官が、静かに相槌を打つ。
「陛下……“紫電の曹華”の名は、すでに市中にも」
「耳にしておる。いや……これはもう、噂というより“兆し”であろう」
泰延帝の視線は、遠い金城の方向に向いていた。
「あの娘、面白いな」
それは戯れ言のようでいて――
蒼龍国の皇帝が、未来を秤に乗せるときの声でもあった。
「次代の五将軍を担うやもしれぬ。
……いや、天鳳の後を継ぐ立場にさえなるかもしれぬな」
その言葉は、驚くほど軽かった。
だが泰延帝は、それ以上、何も言わなかった。
口にしない期待が、すでに“皇帝の腹積もり”として、確かにそこにあった。
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宮の一角。
首都防衛を任されている土虎将軍は、厩舎の外で若い兵たちの訓練を眺めていた。
「……ふむ」
誰にともなく、低く息を吐く。
「やはり、か」
副官が問う。
「何か、ございましたか」
「いや……曹華のことだ」
副官は少し驚いたように目を見開いた。
「まだ陛下の御前にも――」
「違う。
あれは“名前が先に走る”器だ」
土虎は、低く笑った。
「天鳳が連れてきた時から、只者じゃないとは思っていた。
剣でもなく、術でもなく……在り方が違う」
「……在り方、ですか」
「そうだ。
戦場に立ったら“場そのものが変わる”匂いがある」
土虎の声は、慎重さよりも確信に近かった。
「紫電、か……」
空を仰ぐ。
「…良い名だ」
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そして――
別の場所では、その名はまったく別の色で響いていた。
牙們将軍の居所。
灯りを落とした私室で、男は報告書を乱雑に投げ捨てていた。
「……紫電の曹華、だと?」
低い声に、怒りが滲む。
「……名ばかりが先に立ちおって」
歯の奥で何かを噛み砕くような音がした。
牙們は机に手をつき、静かに息を吐いた。
「景曜の血に……」
ふと、遠い記憶が脳裏をかすめる。
翠林国の村。
逃げ場のない小娘。
剣を構えた自分の前で、立つことすらままならなかった、あの少女。
本来なら――
本来なら、その場で終わっていたはずの命。
「……それが生き延びた」
牙們の唇が歪む。
「…そして英雄気取りか」
机の上の書簡を、ぐしゃりと握り潰した。
「あの娘は……私が潰すはずだった」
――逆恨みであることは、本人が一番よく知っている。
だが、理はもはや要らなかった。
必要なのは、ただひとつ。
「いずれ……」
牙們の眼に、冷たい光が宿る。
「いずれ、景曜の血は、すべて断つ」
それが、自分の役目なのだと信じて。
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蒼龍京の空は、いつもと変わらず澄んでいた。
市井では“英雄”の名が語られ、
玉座では“未来”が語られ、
軍の中では“期待”が広がり、
そして――
ひとつの影だけが、“憎悪”を抱いて蠢いていた。
誰も知らない。
“紫電の曹華”という名が、
栄光だけではなく――新たな刃をも呼び寄せていることを。
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