第二十章捌 紫電、南へ
麗月将軍のもとへ援軍として向かう。
その命が下った瞬間から、私の時間は再び加速した。金城国王都の後始末が続く第七砦の喧騒から離れ、私はわずかな手勢を伴って、天鳳将軍の本隊より一足早く蒼龍京へ戻ることになった。表向きは休養と次戦線への準備。だがそれは、事実であり、また“再起動”のための猶予でもあった。
親衛隊のとりまとめは雷毅が引き受けてくれた。
「おまえは先に戻って、ちゃんと寝ろ。ここはおれが回す」
「……無茶しないでね」
「どの口が言うんだよ」
そう言って笑った雷毅の背中は、以前よりもひとまわり大きく見えた。
戦場は人を変える。責任は確実に人を鍛える。
私について首都へ戻ると申し出てくれたのは、親衛隊の中でも、初陣の頃から私を知る者たちだった。
「副隊長、俺たちも行きますよ」
「どうせ戻るなら一緒がいい」
口調は軽いが、そこに迷いはなかった。
女であるというだけで余計な視線を浴びていた頃から信頼してくれて、そしていまは“副隊長”として背を預けてくれた者たち。
私は彼らに、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
それだけで伝わる関係だった。
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蒼龍京に戻ったのは、日が沈みきる直前だった。
城門を潜ったとき、耳に届いたのは、戦場の金属音ではなく、夕餉の匂いと人々の声だった。行き交う人々は、どこか浮き立っている。
――勝ったのだ。
それが、街の空気から否応なく伝わってくる。
将軍府は、変わらずそこにあった。
だがその中で、私が知る空気は、確かに変わっていた。
出迎えたのは、留守を預かってくれていた趙将隊長だった。
「……無事でよかった、曹華」
肩に手を置かれる。珍しく、温度のある声だった。
「戻ってきたという実感が湧きません」
「それでいい」
趙将隊長は苦笑した。
「戦場では、実感なんて邪魔なだけだ」
私は報告書を渡し、金城国での戦い、黒龍宗の介入、朱烈との交戦、天鳳将軍の判断、王都包囲、降伏までを、余すところなく伝えた。
趙将隊長は黙って聞き終えると、ふう、と息を吐いた。
「……お前の名前な」
「……はい?」
「届いてるぞ、首都にも」
少しだけ、視線を逸らす。
「“紫電の曹華”。
兵も、商人も、女官まで言っている」
私は、思わず目を伏せた。
「……他人のことみたいです」
「だろうな」
趙将隊長は、柔らかく言った。
「お前は名を得るために剣を取ったわけじゃない。
だから、その距離感のままでいい」
しばらく沈黙のあと、私は口を開いた。
「……次は、南です」
趙将隊長は、驚かなかった。
「翠林国だな」
「はい」
彼は、深く腕を組んだ。
「……また、遠いな」
「……はい」
「だが――」
言葉を切り、はっきりとこちらを見る。
「無茶はするな。
お前は武将だが、命そのものを消費するために在るわけじゃない」
私は、小さく頷いた。
「帰れるように、戻ってくるつもりで行きます」
その言葉に、趙将隊長は微かに笑った。
「それでいい」
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その夜、私は久しぶりに、しっかりとした寝台で眠った。
――だが、夢に戦場は出なかった。
代わりに浮かんだのは、
故郷だった。
翠林国の山間。
霧に包まれた朝。
土と草の匂い。
私がまだ、“曹華”でいることが許されていた頃の記憶。
翠林国方面へ向かうということが、単なる軍事行動ではないことを、私はもう知っている。
あの地は、
私の始まりの場所でもある。
そして――
"曹華"という少女の、私自身の終わりの地でもあるかもしれない。
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翌朝、京の空は冴えていた。
紫叡は、すでに鞍を整えられていた。
優しく首を撫でると、低く鼻を鳴らす。
「……行くよ」
それは命令ではなかった。
約束のような声だった。
紫電は、再び走り出す。
北に“白”があり
西に“戦”があり
――そして、南に、私の過去がある。
次に向かうのは、
火ではない。
影でもない。
“思い出”の地だった。
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