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三華繚乱  作者: 南優華
第二十章
313/316

第二十章陸 再建の夜

夕暮れの空は、いつの間にか静かな色を取り戻していた。昼には砦のあちこちで金槌の音が鳴り、掛け声がこだましていたのに、今は風が石壁を撫でる音だけが聞こえる。


 第七砦は――生き始めていた。

 外壁の崩れていた箇所には、新しい石が積まれ、木枠が組まれ、まだ白い漆喰の匂いが夜気に混じっている。

 外堀もまた、掘り直され、流れ込んだ瓦礫は取り除かれ、泥の匂いに代わって湿った土と水の冷たさが戻ってきていた。


 昼間、工兵隊はほとんど休むことなく動き回っていた。砦の構造を把握し直し、壊れた梁を測り、石垣の歪みを調べ、崩れやすい箇所に補強を入れる。全てが“戦のため”ではなく、“ここを生かすため”の作業だった。


 兵たちはそれぞれの持ち場につきながら、不思議なほど、無言でよく動いた。怒号も、叱責もない。あるのは、黙々と積み上げられる石の音と、時折交わされる短い声だけ。


「これで、ここは持つな」 「外堀、明日には水、戻せそうだぞ」 「梁の継ぎ、あと二本で終わる」


 それは戦の報告ではなく、生活の報告だった。


 私は、再建の進む砦を歩きながら、その様子を見ていた。

 崩れた城壁のそばでは、兵が木杭を打ち込み、子どもの頃の大工仕事のような手つきで縄を掛け直している。中庭では、土を均していた兵が、汗だくのまま笑って水筒を回していた。


 ああ――

(……人の手で生き返るんだ)


 戦で失ったものは戻らない。

 焼かれ、折れ、倒れた命は、決して元には戻らない。けれど。積まれる石。引き直される溝。打ち直される柱。それらは、確かに“前に進んでいる”証だった。


 食堂に足を運ぶと、驚くほど良い匂いが漂っていた。輜重隊が用意した夕餉は、煮込みと焼き物、それに握りやすい形のパン。金城国王都から持ち出された物資の中でも、湿りやすいものや傷みやすいものが優先され、惜しみなく使われているらしい。


 鍋の中で煮える肉の匂いに、思わず息を深く吸ってしまった。


「うわ……砦飯って、こんなにまともなの久しぶりじゃねえか?」


 雷毅が、露骨に顔を綻ばせる。


「前線って、大体は乾いたパンと塩とかだしな」


「……文句を言うな」


「事実だろ? あ、でも今日のは当たりだ。絶対当たりだ」


 彼は冗談めかして言いながらも、どこか嬉しそうだった。


 兵たちも同じだった。

 一杯の湯気に、心の緊張をほどいている。


 食事は、生きている証だ。

 戦い終えて、座って、器を手に取れるというだけで、人は“人間”に戻る。


 


 そして、砦の一角では、入浴設備の復旧も終わったという報があった。


 私は言われるがままに、浴場へ向かう。

 かつては灰と瓦礫に埋もれていた場所。

 その床が洗われ、木桶が並び、湯気が立ちのぼっている光景は、まるで別の土地のようだった。

 湯に浸かると、身体の芯に染み込んでいた疲れが、じわじわとほどけていく。


(……まだ、生きているんだな)


 声に出さず、そう思う。

 あの戦場に立ち、紫電と呼ばれ、刃を振るった自分と、湯に浸かって静かに呼吸している自分。


 どちらも同じ。

 どちらも、自分だった。


 

 湯上がりの夜風は、ひどく冷たかった。

 だが、その冷たさが心地よい。

 砦の中央では、小さな火が焚かれ、兵たちが輪になって座っている。


 誰かが低く歌を口ずさみ、

 誰かがそれに合わせて指で拍子を打つ。

 戦の歌ではない。


 故郷を思うような、

 子どもの頃に聞いたような、

 そういう柔らかな旋律だった。


 私は、少し離れた場所でそれを眺めていた。


 火の向こうで笑う兵たちを見ながら、胸の奥が静かに温かくなる。


(……ここは、もう“戦場”じゃない)


 まだ完全に安全ではない。


 第七砦は依然として前線だ。


 だが今は。


 この夜、この火、この匂い。


 確かに“人が生きる場所”だった。


 


 風が吹く。


 外壁の修復された石に音が当たり、淡く、低く、響いた。


 この砦は、もう倒れない。


 奪われ、焼かれた土地は、

 こうして――人の手で、取り戻されていく。


 私は、そっと息を吸う。


(……明日も、またここは動く)


 戦のためではなく。

 守るために。

 生きるために。


 


 第七砦は、再び夜を迎えながら、静かに、確かに――息をしていた。



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