第二十章陸 再建の夜
夕暮れの空は、いつの間にか静かな色を取り戻していた。昼には砦のあちこちで金槌の音が鳴り、掛け声がこだましていたのに、今は風が石壁を撫でる音だけが聞こえる。
第七砦は――生き始めていた。
外壁の崩れていた箇所には、新しい石が積まれ、木枠が組まれ、まだ白い漆喰の匂いが夜気に混じっている。
外堀もまた、掘り直され、流れ込んだ瓦礫は取り除かれ、泥の匂いに代わって湿った土と水の冷たさが戻ってきていた。
昼間、工兵隊はほとんど休むことなく動き回っていた。砦の構造を把握し直し、壊れた梁を測り、石垣の歪みを調べ、崩れやすい箇所に補強を入れる。全てが“戦のため”ではなく、“ここを生かすため”の作業だった。
兵たちはそれぞれの持ち場につきながら、不思議なほど、無言でよく動いた。怒号も、叱責もない。あるのは、黙々と積み上げられる石の音と、時折交わされる短い声だけ。
「これで、ここは持つな」 「外堀、明日には水、戻せそうだぞ」 「梁の継ぎ、あと二本で終わる」
それは戦の報告ではなく、生活の報告だった。
私は、再建の進む砦を歩きながら、その様子を見ていた。
崩れた城壁のそばでは、兵が木杭を打ち込み、子どもの頃の大工仕事のような手つきで縄を掛け直している。中庭では、土を均していた兵が、汗だくのまま笑って水筒を回していた。
ああ――
(……人の手で生き返るんだ)
戦で失ったものは戻らない。
焼かれ、折れ、倒れた命は、決して元には戻らない。けれど。積まれる石。引き直される溝。打ち直される柱。それらは、確かに“前に進んでいる”証だった。
食堂に足を運ぶと、驚くほど良い匂いが漂っていた。輜重隊が用意した夕餉は、煮込みと焼き物、それに握りやすい形のパン。金城国王都から持ち出された物資の中でも、湿りやすいものや傷みやすいものが優先され、惜しみなく使われているらしい。
鍋の中で煮える肉の匂いに、思わず息を深く吸ってしまった。
「うわ……砦飯って、こんなにまともなの久しぶりじゃねえか?」
雷毅が、露骨に顔を綻ばせる。
「前線って、大体は乾いたパンと塩とかだしな」
「……文句を言うな」
「事実だろ? あ、でも今日のは当たりだ。絶対当たりだ」
彼は冗談めかして言いながらも、どこか嬉しそうだった。
兵たちも同じだった。
一杯の湯気に、心の緊張をほどいている。
食事は、生きている証だ。
戦い終えて、座って、器を手に取れるというだけで、人は“人間”に戻る。
そして、砦の一角では、入浴設備の復旧も終わったという報があった。
私は言われるがままに、浴場へ向かう。
かつては灰と瓦礫に埋もれていた場所。
その床が洗われ、木桶が並び、湯気が立ちのぼっている光景は、まるで別の土地のようだった。
湯に浸かると、身体の芯に染み込んでいた疲れが、じわじわとほどけていく。
(……まだ、生きているんだな)
声に出さず、そう思う。
あの戦場に立ち、紫電と呼ばれ、刃を振るった自分と、湯に浸かって静かに呼吸している自分。
どちらも同じ。
どちらも、自分だった。
湯上がりの夜風は、ひどく冷たかった。
だが、その冷たさが心地よい。
砦の中央では、小さな火が焚かれ、兵たちが輪になって座っている。
誰かが低く歌を口ずさみ、
誰かがそれに合わせて指で拍子を打つ。
戦の歌ではない。
故郷を思うような、
子どもの頃に聞いたような、
そういう柔らかな旋律だった。
私は、少し離れた場所でそれを眺めていた。
火の向こうで笑う兵たちを見ながら、胸の奥が静かに温かくなる。
(……ここは、もう“戦場”じゃない)
まだ完全に安全ではない。
第七砦は依然として前線だ。
だが今は。
この夜、この火、この匂い。
確かに“人が生きる場所”だった。
風が吹く。
外壁の修復された石に音が当たり、淡く、低く、響いた。
この砦は、もう倒れない。
奪われ、焼かれた土地は、
こうして――人の手で、取り戻されていく。
私は、そっと息を吸う。
(……明日も、またここは動く)
戦のためではなく。
守るために。
生きるために。
第七砦は、再び夜を迎えながら、静かに、確かに――息をしていた。
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