第二十章肆 到着と祈りを
灰色の空の下に、第七砦はあった。
城壁はところどころ崩れ、石は黒く煤け、かつての戦の名残をそのまま刻みつけたまま、時間だけが過ぎた場所だった。復旧された痕跡はある。だが、完全に癒えることのない古傷のように、この砦はなお沈黙の中に立っている。
蒼龍軍の行軍が、静かに進み込んできた。槍が鳴らず、号令もない。
ただ、鎧の軋む音と、馬の蹄の重たい響きが、冬の地面に淡く広がっていく。
私は紫叡の背の上から、砦を見つめていた。
(……戻ってきたんだ)
勝って帰ったはずなのに、胸の奥に広がるものは、達成感よりも、重たい沈黙だった。
城門はすでに開かれている。
迎えの旗も、喝采もない。
あるのは――並べられた、墓標だけだった。
砦の外れ、小高い丘の整えられた一角に、墓標代わりの剣や槍、木札が整然と並んでいる。ひとつひとつに、名が刻まれているものもあれば、刻めなかった者のための無名の札もある。
風が吹き抜け、木札が微かに鳴った。
その音は、まるでひそやかな声のようにも聞こえた。
天鳳将軍が、馬を降りた。
続けて、親衛隊の将兵が、第一軍団と第二軍団の幕僚たちが、静かに地へと足を下ろす。
私も紫叡から降り、槍を地面に立てかけた。
雷毅が隣に立つ。
先ほどまで王都の空を見上げて、冗談めかして笑っていた男が、今は一言も発さず、ただ視線を墓標に落としている。
天鳳将軍が、ゆっくりと前に出た。
風を受け、黒髪が揺れる。
その背中は――将軍のそれであると同時に、ひとりの戦士の背中だった。
将軍は、ひざまずいた。
そして、深く、頭を垂れる。
「……お前たちの敵、朱烈を――逃した」
声は、低く、静かだった。
だが、砦の空気はその一言で張り詰める。
「討つと、誓っていた」
風が、将軍の外套を揺らした。
「……果たせなかった。すまぬ」
そして彼は、ひとつ、深く息を吸い――
ゆっくりと、胸の前で十字を切った。
「……ここに眠る者たちへ。」
低く、風に溶けるような声だった。
その言葉は、誰のための謝罪だったのだろう。
私も、雷毅も、親衛隊の兵も。
第一軍団も、第二軍団の幕僚も。
ひとり、またひとりと膝を折り、頭を垂れていく。
風が通る。
焚かれた香はない。
鐘も鳴らない。
ただ、ここに立ち尽くす者たちの呼吸だけが、静かに揺れていた。
私は、墓標のひとつを見つめる。
名も刻まれていない、細い木札。
(……あの日、ここで)
私は、炎の中にいなかった。
だが、残ったものを見た。
焼けた梁。
折れた槍。
もう言葉を持たない、屍。
(私は――)
何を祈ればいいのか、わからなかった。
勝ち、退け、名を得て、それでも――
ここに眠る人々に、何を返せばいいのか。
ただ、口を開く。
音にならないまま、言葉が胸に沈む。
(……せめて)
(あなたたちのいた場所に、もう一度、戻ってきたよ)
それだけだった。
雷毅が、横で小さく息を吐いた。
「……生きてて、すまんって言うのも、変だな」
気取らない声だった。
けれど、どこかかすれていた。
「……でもさ」
彼は、墓標を見つめたまま言った。
「おれたちが生きて帰ってきたってことが、あいつらの――続き、なんだろうな」
私は、頷いた。
言葉にすれば、軽くなるような気がして、何も返せなかった。
ここに眠る者たちのためか。
それとも――自分自身のためか。
周囲では、第一軍団、第二軍団の幕僚たちが、次々と膝をついている。
武人も、伝令も、輜重兵も。
階級の差は消え、ただ「生き残った者」として、
無言で祈っていた。
誰も声を出さない。
ただ、風と――
遠くで鳴く鳥の声だけが、砦に響いていた。
(……この場所は、終わりじゃない。)
胸の奥で、私はそう思う。
(始まりだ。)
あの炎は、まだ消えていない。
黒龍宗も、朱烈も――
遠い戦場に、確かに続いている。
だが、それでも。
ここで、私は祈ることができる。
戦うためではなく。
勝つためでもなく。
ただ――
「生きて、ここへ戻る」ために。
静かな祈りが、第七砦を包んでいった。
焼け跡に立つ墓標たちは、風に揺れながら、
何も語らず、すべてを見送っていた。
---




