第十九章廿五 白に向かう紫の影
夜は、なお続いていた。
瘴と牙の衝突が生んだ裂け目は、塞がることなく、北の大地を低く震わせている。
紫霞の本体は、徨紫の前にあった。
そして――
紫霞の分身体は、すでに闇へと溶けていた。
それは、勝ち誇るような退却ではない。
最初から狙いすましていた動き。
徨紫は、わずかに息を詰めた。
(……してやられた)
気配は二つ。
術式は一つ。
分かっていながら、身体が動かなかった。
――白華へ行った。
理屈よりも、感覚が先に答えを叩きつける。
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だが、徨紫はすぐに“追えなかった”。
視界の端で、黒牙がふらりと膝をつきかけるのが見える。
呼吸が荒い。
顔色が異様に青白い。
右腕は瘴に焼かれ、感覚をほぼ失っている。
その傍で――
灰牙は、ほとんど動かない。
かすかに胸が上下しているのが、奇跡のように頼りなかった。
紫の斑が皮膚に張りつき、
霊脈を喰いつぶすように、瘴気が走っている。
(……急がねば)
治療をしなければ、灰牙は沈む。
黒牙も、このままでは戦死と変わらぬ。
だが――
(白華が、先だ……!)
分身体とはいえ、
紫霞の幻術を操る“紫霞”であることに違いはない。
――白華へ一人で行かせるなど、
考えるだけで、背筋が冷える。
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赤鋼は、斧を握ったまま動かない。
目は、影の長へ向いている。
影の長もまた、わずかに距離を取りながら、北の戦場を“見渡すように”立っていた。
(……もし赤鋼を走らせれば)
影の長は、必ず動く。
そして――
黒牙と灰牙に、追い打ちが来る。
赤鋼がここを離れれば、
この場は一気に“殺しの場”へと変わる。
守るべきもの。
追うべき影。
徨紫の胸の奥で、二つの重みがぶつかり合う。
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(……どちらかを、選べというのか)
白華を守るか。
北を守るか。
いや――
どちらも「守らねばならぬ」。
巫女長とは、選ばぬ者。
切り捨てぬ者。
逃げぬ者。
徨紫は、ふっと息を吐いた。
そして――
視線を、紫霞の本体へ向ける。
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紫霞は、笑っていた。
余裕の笑み。
だが――
ほんの僅か、視線が泳いでいた。
(……“追わせる”つもりだったな)
紫霞は、徨紫が分身体を追うと踏んでいた。
だからこそ、あの静かな言葉。
「今日は、そうするわ」
あれは―― 離脱の宣言であり、同時に 本命を放った合図だった。
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「……幻冥将」
徨紫は、紫霞を呼ぶ。
声は、静かだった。
「あなたはいま、“私が白華を追う”と信じている」
紫霞の笑みが、わずかに揺れた。
「……誰が?」
「あなたよ」
徨紫は、扇を開いた。
その裏に刻まれた符が、淡く光る。
「でも……」
一歩、踏み出す。
「――私は、あなたを離さない」
紫霞の目が、わずかに見開かれた。
「……何ですって?」
「分身体が白華へ行ったなら」
徨紫は、はっきりと言った。
「本体を、ここに縫い留めるまで」
「――巫女長!」
赤鋼の声が、咄嗟に響く。
徨紫は、振り返らない。
「…赤鋼」
淡々と、命を投げる。
「影の長を、離すな」
「黒牙と灰牙を、
“命ごと”この場に縫い留めろ」
赤鋼の目が、燃えた。
「……任されるなら、死なせねぇ」
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徨紫は、立ち位置を変えた。
白華へ向かわない。
傷ついた者を捨てない。
その代わりに――
紫霞の“本体”を、この場から動かさぬ”道を選ぶ。
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紫霞は、ほんの一瞬だけ舌打ちした。
「……ずるい女」
「そうでしょう?」
徨紫は、微笑する。
「“守る者”は、
たいていずるいものですから」
二人の女が、向かい合う。
一人は、奪うために立つ。
一人は、守るために立つ。
そのどちらにも、迷いはない。
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白華へ向かう影は、もう止まらない。
だが――
この場が崩れねば、
白華のもとに辿り着く“影”も、
決して無傷ではありえない。
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徨紫は、胸の奥で祈る。
ただ一つ。
(……白華)
(どうか)
(あなた自身の“静”で――)
(この“紫”を、凌いで)
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