第十九章廿四 北の闇、再び揺れる
夜は、まだ終わっていなかった。
瘴が引き、牙が鳴りやみ、ようやく訪れかけた静寂を――
紫の気配が、切り裂いた。
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夜気を裂いて、紫の影が舞い降りる。
それは“現れた”というよりも、
「宵霞の隣に最初からいた」かのような不自然さだった。
幻冥将・紫霞。
宵霞が膝をついているのを見た瞬間、
彼女の表情から、初めて“軽薄な笑み”が消えた。
(……兄上が、ここまで負傷するとは……)
宵霞は、荒い呼吸のまま、視線だけを上げる。
「……来るなと言ったはずだ」
紫霞は、かがむこともせず、
指先だけで宵霞の血に触れ、瘴の残滓を“読む”。
「それは“無理な相談”でしょう」
口調は軽い。
だが、瞳の奥は――笑っていない。
「この程度で死なれてしまっては……
黒龍宗の冥将も、安くなってしまいます」
宵霞は薄く、笑った。
「……悪いな。
量り違えた」
紫霞は一瞬、目を伏せた。
それは術師の顔ではなかった。
冥将の顔でもなかった。
——ひとりの“妹”の顔だった。
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その瞬間――
空気が、裂ける。
赤鉄族長・赤鋼は、紫霞の背へ、斧を叩きつけていた。
「冥将……!」
怒号とともに、鉄塊のような一撃が振り下ろされる。
――そのはずだった。
だが。
紫霞の姿は、刃が届く寸前で“揺らいだ”。
斧は、何もない空を叩き割る。
地面が抉れ、火花が飛んだ。
「……チッ」
赤鋼は舌打ちする。
確かにあった。
殺意も、霊力も、重みも。
だが――
“命中した手応え”だけがない。
背後から、冷えた声。
「……野蛮な男」
振り向いた赤鋼の前に、
無傷の紫霞が、すでに立っていた。
(……最初から、すり替えていやがったか……)
赤鋼は奥歯を噛む。
幻冥将。
正面から斬れる相手ではない。
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次に現れたのは、光を持たない影。
夜の隙間から滲むように現れた人影。
――影の長。
彼は、赤鋼と紫霞、両者を一瞥し、
そして――宵霞を見る。
傷の深さを、一目で察した。
「……随分、深いな」
宵霞は答えない。
代わりに、紫霞が告げた。
「……狼に、噛まれました」
影の長は、ほんの僅かにまぶたを伏せる。
「……そうか」
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そのとき――
香の匂いが、夜風に混じった。
陣の暗がりから、
ゆっくりと現れた影。
獅紫族の巫女長――徨紫。
視線はまず、宵霞へ。
次に、黒牙へ。
そして――
地に伏す、灰牙で止まった。
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黒牙は、立ってはいた。
だが、その呼吸が、異様だった。
浅く、荒く、そして――苦しい。
右腕は、瘴に焼かれたように爛れ、
すでに感覚が薄れている。
拳を握ろうとしても、
もう完全には応えない。
灰牙は――
さらに深刻だった。
地に伏し、
胸がわずかに上下しているだけ。
唇は紫色に変わり、
皮膚には、瘴の斑。
瘴気中毒。
生死の境界線にいる。
徨紫は、息を呑んだ。
「……まずい」
巫術では追いつかない。
今すぐ地脈に繋がなければ、命を落とす。
「……運ばなければ」
北の聖域へ。
そう思った――その時。
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紫霞は、兄を一瞬だけ振り返る。
宵霞は、まだ意識はある。
――だが、今すぐ殺される状況でもない。
(……なら)
視線が、徨紫へと戻る。
そして――
静かに、笑った。
「……今日は、そうするわ」
その言葉に、
徨紫の眉が、わずかに動く。
「……何を?」
問い返した、その“刹那”。
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ふっ――
紫の気配が、一瞬だけ――二つに割れた。
次の瞬間、
紫霞の“姿”が、揺らぐ。
否。
増えた。
徨紫が、はっと息を呑む。
「……しまッ――」
遅かった。
紫霞の分身体は、すでに気配を薄め、
夜と溶け合うように――本陣へ。
その口元に、
あの笑みを貼り付けて。
誰にも届かぬ、声が風に混じる。
「……ここまで来たんだもの」
「白華の顔、拝んでおかなくちゃね」
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夜は、終わらない。
牙は傷つき、
瘴は残り、
影は――白へと、忍び寄った。
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